四十七 月下の契りにて水鏡を見ゆ

 その日は、未明から冬の雨が降っていた。

 空はねずみの毛色のように薄暗く、その隙間を縫うように、白銀の雫が降り注いでいた。それはどれも冷たく、氷雨の体に当たるたび、小さな硝子の装飾品が割れるような音が響いた。


 広場には、五組の横一列で並び、その近くには数人の「月下藍」――「警護役」が揃っている。寒空の下に点々と広がる、白、橙、藍の着物。そして、「案内役」の紅が一点。彼女はまだ黙っている。

「時間になるまで、あと少し待とう」

 氷雨はそう言って、傍らの阿形にちらりと視線を送った。彼はそれには気づかず、いやにまっすぐ御殿を見やっている。……緊張しているのだろうか。

「生憎の天気だけど……寒くはない?」

「……はい」

 その瞳の色は、前髪に隠されてはっきりとは見えない。氷雨は唇を引き結んで、同様に御殿の方を見た。それに伴ってか、ぴりりと指先が震える。内心で、氷雨は苦笑いした。

(少なくともおれは、緊張しているな……)


 師匠として、初めて行事に参加するからだけではない。

 氷雨の時の「月下の契り」とは、若干状況が違うのである。


 氷雨は火傷の治療で冬には動けなかったため、通常の「月下の契り」には参加できず、ある程度回復した春に特例で契約した。ゆえに、正式な「月下の契り」には参加できていない。人数が増えれば、儀式の流れも、雰囲気も異なる。


 ただし、緊張の一番の理由は無論、それではない。

 氷雨は先程から、「月下藍」たちの鋭い視線を受け続けていた。


(仕方ないか……)

 「浮橋御殿」の扉から中に侵入し、「浮橋様」のご尊顔を見た不届き者。警戒されるのは当然だった。しかし、その隣に立つ阿形まで「不届き者の弟子」として警戒されてはたまらない。山瀬は阿形に気をつけろと言っていたが、そうは言っても自分のせいで余計に警戒されるのは申し訳なかった。


 その視線から逃れるように反対方向を見ると、口元を真面目に引き結びながらも、ちらちらと目線を送る「月下橙」二人。

(連翹、引鶴)

 そしてその側に控える、海松と山瀬。

(緊張は必要だけど、硬くなりすぎてはいけないな……)


 弟子の前で堂々と胸を張る二人の友を見ながら、氷雨は大きく深呼吸をした。



「それでは、『月下の契り』を開始いたします」

 朗々と響く「行事役」の「月下紅」の声とともに、一気に空気が済んだ。誰もが黙り込み、背筋を正す。「月下紅」はその様子に満足したように頷いて、手元の巻物をさっと広げた。


「引鶴が弟子、山瀬。前へ」

 はいっ、と凛々しい返事をして、横一列の中から一歩、山瀬が前に出た。肩が若干力んではいるが、問題にするほどではないだろう。ひとまずほっとする氷雨の側で、兄貴のような顔をして笑う引鶴。


「連翹が弟子、海松。前へ」

 はい、と澄んだ返事とともに、海松が歩み出た。ぎこちなかった山瀬に比べ、彼の歩みは滑らか。連翹は静かにその姿を見送り、彼が所定の位置についたのを確かめると微笑した。


なつめが弟子、呉羽くれは。前へ」

 髪が短くさっぱりとした印象の少女の前に迷いなく進み出たのは、はっと息を飲むほど端正なかんばせの少年。色素が薄いのか、光の加減で髪が灰色かかって見える。雪の精霊のような少年だった。


 そして、最後の一人。


「氷雨が弟子、阿形。前へ」

 ついに、阿形の名前が呼ばれる。

 はい、と低く掠れた声。氷雨はこくんと息を飲み、彼の姿を見やった。山瀬の背中が、少しばかり力んだのが遠目に見えた。


 阿形は静かに目線を上げると、そのまま大きく一歩、歩み出る。その足取りに迷いはない。雨の中でも、彼はそれを感じてすらいないように、ただ淡々と前に出た。足を置くと、ぱしゃ、と足元で水が散る。曇天を映し出し、たちまち散開し、水溜まりへと戻ってゆく。



――あいつはひどく落ち着いていて、穏やかに見えるけど、先輩とは全然違います。あいつは時々、すごくひりついた空気を放つんです。思わず寄るのを躊躇うくらいの……。


 山瀬の忠告が、心の内に引っかかっている。

 それから、自分に向けられたあの黒硝子の瞳が。



(なぜ、見覚えがあると感じたのか……)

 誇らしげな顔をした「月下橙」の中で、一人だけ表情が曇っていることに気づかぬまま、氷雨はじっと目の前の光景を見つめている。「月下藍」によって開かれていく、御殿の門。かつて自分が「新月」としてあの場に立った時と全く同じ色の御簾が姿を現すにつれて、四人の「新月」が小さく息を飲んだのが感じられた。


「これより、『新月』の皆様には御殿の中に入っていただき、『浮橋様』と契約していただきます」

 響き渡る「案内役」の声。「警備役」の視線が一層鋭くなり、氷雨はぐっと息を止めた。自分の行いが頭をよぎり、顔が思わずひきつる。あの時は一人だったからまだ大ごとではなかったが、もし自分が他の「新月」とともに「月下の契り」をする最中にあの騒ぎを起こしていたと思うと……。


「新月」たちが拳を握りしめる。白が黒御簾の中に吸い込まれるように、一歩一歩、御殿へと確かな歩みを進めていく。その中でゆらりとふらつくような、何かに魅入られているような、不安定な後ろ姿。

 ……阿形だ。


 足元の水溜まりを見る。

 優しいと、穏やかだと言われる自分の瞳が映っている。黒く澄んだ瞳が、自分を見返している。


――お前は

――氷雨、お前は純粋で、、それ故に脆く、強い……。

――そんな親切な先輩が、おかしなことに巻き込まれてほしくないんです。


 様々な者が、氷雨をそう評する。

 それはありがたいことだと思う。自分に優しくしてくれた人たちが、素直に話しかけてくれる人が、そう言ってくれることは、光栄なことだと思う。



 しかし同時に、氷雨は知っている。

 己を激しく突き動かす感情を。

 あの日、黒御簾の向こうへと氷雨を誘ったものを。



(あの目は……)



 そう心の中で呟いた瞬間、唐突に、閃きのようなものが氷雨の脳裏を走った。



「――阿形」


 ぽつりと零したつもりだった呟きは、沈黙の中で存外大きく響き、氷雨は自分でも驚いて思わず口を押さえた。……もう遅い。ぎろりと「月下藍」が氷雨を睨みつけ、腰に佩いた刀に手をかけて脅しをかける。

 しかし、その瞳はすぐに氷雨からそらされた。



 名を呼ばれた阿形が、ぴたりと止まったからだった。



「いかがなさいましたか」

 途端に硬さを帯びた「案内役」を無視し、阿形は瞬間、ぐるりと後ろを振り返る。操られているかのようなその不自然な動きに、ぞくりと震える背筋。


 しかしそれ以上に、氷雨の視線は阿形の目に吸い寄せられた。

 

 どこか無感動にさえ見えた、黒硝子の瞳。

 しかし今は、それにでも入ってしまいそうなほど、痛々しいまでの感情に溢れ返っている。あまりにも鋭く、激しく、周りをも傷つけてしまいそうなほどに。真昼の光のようにぎらぎらと輝く瞳は、忘れようとしても忘れられないような、呪いじみた力を放っていた。


(阿形の目は……)


 その瞳に圧倒されながらも、氷雨は阿形の中身を見通そうとするように、まっすぐ見据えた。阿形は一瞬ばかり停止し、その背後で何かを感じた「月下藍」が臨戦態勢を取る。



 氷雨は思い返していた。

 記憶にひどく残った、黒硝子の瞳。

 


 それは激しい思いを押し隠し続け、それに慣れてしまったゆえに、周りからはひどく凪いで見える瞳。

 しかし、ある瞬間には、炎が噴くように感情が閃く瞳。



「……邪魔をするな」

 そう低く呟いた阿形は、次の瞬間、御殿の中に向かって勢いよく身を乗り出した。

 



 初めて会ったときから一転、感情を高まらせた瞳を見て、氷雨は理解した。




 激情を隠し慣れた、黒硝子の瞳。

 阿形の目は、己の目に似ているのだ。





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