四十六 黒硝子の眼持ちたる少年


阿形あがたと申します」


 ある晩冬の日。氷雨の部屋の中で、少年はそう言って頭を下げた。



 正式に師弟の契りを結ぶのは春――卯月からだが、厳密にいえば、それより前に師弟は面会する。顔合わせや、「浮橋様」と「新月」の契りを師匠が見届ける上での打ち合わせが必要だからだった。

 そういうわけで、本格的な春を迎える少し手前に、師匠は弟子の名前と顔を知るのである。

 

「阿形」という名前は、氷雨が引いた御籤に書かれていた。


 弟子は、「浮橋御籤みくじ」によって決まる。「浮橋様」の力が込められた細長い紙に、「案内役」が「新月」の名前を書き込む。それを各御籤箱に入れ、師匠となる「月下橙」が引くのだ。

 それゆえに、その儀式は完全な運とも、「浮橋様」の意志が働いているとも捉えられる。

 いずれにしても、新たな「月下橙」にとって、重要な儀式であることに変わりはない。そしてその瞬間から、師弟の関係性は始まるのである。


「はじめまして、おれは氷雨。どうぞよろしく」

「阿形」という名前を見た時は、何も感じなかった氷雨だったが、その名を名乗った少年を目の前にした瞬間、己の勘が誤っていなかったことを知った。



「植生倉」を出た後に見かけた、あの「新月」。



「雪の日に、倉のような場所で見かけました」

 どうやら、弟子――阿形も、氷雨のことを覚えていたらしい。ほんの数秒、視線が合っただけだというのに、。不思議な感慨を覚えながらも頷くと、阿形は急にじっと氷雨を見た。その視線は決して強くはないのに、氷雨は思わずたじろぐ。


(黒硝子のような目……)


 澄んでいる、というよりは、研ぎ澄まされている。汚れない目、しかし純粋素朴と言われれば、少しばかり異なるような。



 どこかで見たことがあるような目。



「……よろしくお願いいたします」

 だんだんと寒さの緩み始めた空気の中。阿形はまばたきも少なに氷雨を見ながら、淡々と挨拶をした。


「では早速ではあるけれど、『月下の契り』の打ち合わせをしよう。睦月の末日に、『新月』は『浮橋様』と契約する。そのための儀式だ……」

 先日「案内役」から受けた説明をなぞりながら、ちらりと目の前の阿形と視線を合わせる。彼はしばらくその視線に気づかなかった。軽く下を見、そのまま固まったように動かない。まるで、冬の空気によって凍らされてしまったかのように。


 目に髪が軽くかかり、瞳の色を見え隠れさせる。呆けたように少しばかり開いた唇。それに付き従う影は黒々と広がり、微動だにしない。


 ……氷雨は訝しく思って、声をかけた。

「阿形? 具合でも悪い?」

 すると、阿形はきろりと瞳だけで氷雨を見た。影に包まれた黒硝子。ゆっくりと口を開く。


「いいえ、よく聞こえています。それはもう、はっきりと」


 落ち着いた、平坦な声。それは平静の水面のようにも、嵐の前兆のようにも聞こえた。しかしどちらともつかない無表情。それきり、阿形は口をつぐんでしまう。

「……そう、なら良いけど」

 ちらりと胸によぎる予感。それをかき消すように、氷雨は当日の段取りを阿形に語って聞かせたのだった。


 

「では、失礼します」

 話が終わり、阿形が腰を上げる。そして戸を開いて暇乞いの挨拶をすると、静かに去っていった。

 ……正確に言えば、静かに去ったのは阿形だけである。

 戸の向こうで、声を潜めた文句が聞こえていた。それは阿形の低い声とは明らかに違う、少し高めの声だ。

「おい、氷雨先輩に失礼なことをしていないだろうな」

 阿形はその声に答えずに行ってしまったらしい。足音でそれを察し、氷雨は苦笑いした。

「……入っておいで、山瀬やませ

 その声を聞き、文句を言っていた少年――山瀬が、戸の向こうからひょっこりと顔をのぞかせた。

「すみません、聞こえていましたか」

 憤慨した口調から一転、遠慮がちに体を丸めながら入ってくる彼の着物は、真新しい白。

「おかえり、引鶴と話せた?」

「はい、気さくでとっても良い方でした。さすがは氷雨先輩のご友人ですね」

 新しく入ってきた四人の「新月」のうちの一人だ。すなわち、阿形の同期である。


 氷雨はこの年、一人で部屋を使っていた。

 それは、ここに来たばかりの時は別部屋で療養をしており、入室の時期を逃したからである。

 基本的に「月下長屋」は二人一部屋が原則なのだが、遅く自室を得た上にその時期はたまたま皆が二人部屋になっていたため、氷雨は一人部屋になったのだ。そういうわけで、氷雨の部屋はよく連翹・引鶴の集合部屋になっていたのだが、新しい「新月」が入り始める時期たる冬になると、そうもいかなくなる。

 そういうわけで、氷雨の部屋に一人、「新月」が同居人として入ってきた。


 それが、山瀬である。


「氷雨先輩の弟子、阿形なんですね……」

 戸の向こうを心なしか気にしながら、山瀬は声を潜めて氷雨ににじり寄った。

「山瀬は阿形のことを知ってるんだね」

「ええ、まあ。同時期にここへ来ましたからね。でも……なんていうか、あいつはちょっと周りとは雰囲気が違うと思いませんか?」

 氷雨の脳裏をよぎる、研ぎ澄まされた黒硝子のような瞳。

 ちりと不安がうずき、うまく返答できずにいると、山瀬はそれを肯定と取って話を続けた。



「忠告じみてしまいますが……、あいつはひどく落ち着いていて、穏やかに見えるけど、先輩とは全然違います。あいつは時々、すごくひりついた空気を放つんです。思わず寄るのを躊躇うくらいの……」



 山瀬は、太ももの上でぐっと拳を丸める。

「……それは」

 表情の硬くなった氷雨の前で、彼は生真面目な光を瞳に灯し、一瞬引き結んだ唇を再び開いた。



「出過ぎた真似かもしれませんが、先輩に恩を感じている身として、言わずにはいられません。先輩は来たばかりで緊張している自分に、つきっきりで面倒を見てくださった。そんな優しくて親切な先輩が、おかしなことに巻き込まれてほしくないんです。だから……」



 阿形には気をつけろ。



 言葉にまではしなかった山瀬の言葉。

 しかし、師弟の関係は御籤によって定められている。気をつけるといってもどうすれば良いのか、そもそもなぜ予感めいたものを阿形に感じるのか。


 暗雲のように垂れこめる疑問を押さえつけながら、氷雨は懐の中に手を伸ばし、弟子の名が記された御籤紙を取り出す。さらさらと迷いない筆跡で書かれた、「阿形」の文字。



「不思議でなりませんよ。『浮橋様』は、何故先輩を阿形の師匠に選ばれたんでしょう……」



 ぶつぶつ言う山瀬に苦笑いした後、氷雨は御籤紙を見つめたまま、漆黒の沼のように深い物思いに沈んでいったのだった。

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