四十五 桜が如き雪の止める時

 桜散る。

 花弁がはらりと舞い、雪代の頬に貼りつく。それを剥がすと、ゆるりと滑り落ちる、透明な雫。部屋の灯りを素直に映し出す、硝子の雫。彼は着の身着のまま、眠っている。

 窓から帰ってきた後、倒れるようにして眠りこけてしまったのだ。ふっと糸が切れたように崩れ落ちた体を覆う衣、艶やかな髪。それらを、何倍も黒い漆の空が見つめている。

 時折、桜の雨が吹きかける。氷雨はただ黙って、それに吹かれる寝姿を見つめていた。


「……雪代」

  ふと呟くと、雪代がかすかに身じろぎする。そして、降り積もっていた花弁をかすかに散らし、どうしてここにいるのかという風に首を傾けた。

 その仕草の幼さに、氷雨はぐっと唇を噛み、そして横たわったままの雪代の側に寄る。そばかすだらけの頬の上に灯った両の瞳は黒。その睫毛に光る、淋しい雫。



「泣いているの?」



 ゆっくりと、ゆっくりと、雪代の瞳が見開かれた。

「……氷雨」

「絵が売れなかった? お客さんに、何か嫌なことを言われた?」

 

 雪代は答えない。その代わりに、ごしごしと目元を擦る。それを見られてしまったことを、心から悔いるように。

 ……思わずその手を掴んで、氷雨は雪代を真正面から見据えた。

「あ……」

 雪代の手には、かすかに血が滲んでいる。大方が固まった、赤黒い血が。細い腕には青痣。その毒々しさは、桜の淡さをもってしても和らぐことはない。


 なぜ傷ついているのか、その理由を知らない。

 いつもいつも、雪代は隠す。


「早くお前の絵を売りたくて走ったら、転んだだけさ。まったく、氷雨は心配症だ」

「嘘」

「嘘じゃない……」


 嘘だということはわかる。嘘をつく時、必ず雪代の瞳は濁る。雨を降らす前の雲のように。

 しかし本人はそれに気づかず、道化のようにおどけて見せる。なんてことないように手を振る。優しく、どこか甘くすらある笑みを浮かべる。


「絵の具が頬についてる。氷雨、また夜更かしして、絵を描いていたんだろ……」


 雪代、お前についた血は、絵の具なんかじゃない……。


 それでも、嘘をついてまで何を隠しているのかまでは、わからない。

 硝子に汚れがつくのを嫌うように、神経質なまでに、雪代は嘘をつく。

 嘘をついて、何でも無いからとうそぶく。



「雪代、おれのせいで雪代が辛い思いをしているなら……おれを置いていけばいい。おれは未だに、この部屋から出ることができない。……出方がわからない」



 桜散る。

 二人の間を縫うように、夜の隙間を駆けるように。

 その花弁は、涙の形に似ている。


 部屋には、散乱した絵の具と紙。手慰みに描いていたのは、窓の外の桜。その上にぱたりと雫が落ちて、まだ十分に乾いていない絵の具を引き伸ばし、紙を湿らせた。

 ざあ、と風が吹く。雪代の射干玉ぬばたまの黒髪が揺れ、彼の瞳の中で、苦しみのようなものを帯びた光が瞬く。



「だから……」



 はっと目覚めた。

 するとたちまちに桜吹雪は止み、代わりに刺すような冷たさと沈黙が部屋を覆う。「月下長屋」の一室。「月下蛍」の灯りが、その事実を裏づける。


――……雪代は、この香に少し似ていた。一緒にいると落ち着くんだ。でも……、おれがいなくても一人で生きていけるんじゃないか。知らない内に、すぐどこかに行ってしまうんじゃないか。そう思わせる何かもあった。雪代にはそういう強さも、淋しさもあった。


 この夢は、過去の焼き直し。

 あの時感じたもの。それは、なんてことはない、勘に過ぎない。

 しかしふと、頭をよぎった予感。


 体を再び布団の中に潜り込ませながら、氷雨はぽつりと思った。




 だから雪代は、本当におれの側から離れてしまったのだろうか?



 

 ひらひらと細雪が舞う夕方。

 雪片は蛍火のように輝き、地面に触れた瞬間、ふっと溶けて消えていく。それを静かに目で追いながら、起きがけの氷雨は歩いていた。

 辺りは一面の白。それに混じって、真新しい白を纏った「新月」がちらほらと見える。どうやら雪合戦をしているらしい。雪とともにそれを微笑ましく見ながら、氷雨はまっすぐに「植生倉」へ向かっていた。


 灰がかった白に光る雲の下、植物は枝の輪郭を濃くしながらそこにある。その節々に雪が積もり、軽くしなっている枝もあった。その合間を縫って、倉の中へと向かう。


 扉を開けると広がる薬草の香。その奥に、氷雨の探し人はいる。

「お邪魔します」

「よう氷雨」

「……いいよ、入って」


 快活な引鶴の声、そしてその後に続く声。

 雛鳥の声のように、小さくはあるものの、よく澄んだ声。氷雨が礼をすると、彼女は恐縮したように肩をすぼめ、ちょこんと一礼する。



「ご無沙汰しています、梅木うめきさん」



 小柄な「月下紅」――梅木は、小さく頷いて氷雨の方に顔をやった。


「深山さんから、氷雨くんも試しに受かったと、聞いた……。おめでとう」

「引鶴が先生役をしてくれたおかげです。薬草のこと、梅木さんからたくさん聞いているみたいで」

 梅木が薬草を選り分けていた手を止めて祝福の言葉をかけると、氷雨は頭を掻き、引鶴はにやりと笑った。

「そうそう、梅木さんの薬学の知識はぴかいちなんだからな。そうそう、最近の試しで『月下紅』になったんだ」

「ああ、だから紅の着物に……」

 おめでとうございます、と氷雨は丁寧に礼をした。その向かいで、得意げに腕を組む引鶴。

「『草木の世話役』の『紅の試し』は、屋敷内で一番難しいらしいのに、最年少で合格だよ。本当にすげえ」

「引鶴……褒めすぎ……」


 梅木は引鶴の師匠であり、氷雨たちの薬を作ってくれる「草木の世話役」なのである。


 引鶴の師匠の頃は「月下橙」だったが、このたびの試しで合格し、昇格することになったらしい。

「褒めすぎじゃありません。足りないくれぇですよ」

 口を尖らせる引鶴に、梅木は柔らかく顔を綻ばせた。そして、穏やかに二人を見回す。


「……二人とも、春から師匠になるんだね」

「はい。おれにきちんと務まるか、不安ですが……」

 ぺちん、と氷雨を叩く引鶴。

「そんなん、俺だってそうだ。正式に弟子を取るのは春からだが、もう屋敷に入ってきてる『新月』は居るからなあ。あん中の誰かが弟子になるかもって考えると、うかうか歩けねえ」

「まあ、おれたちは通達を待つのみだね」

 氷雨がそう言うと、師弟はそれぞれに頷いた。


「で、本題は何だ、氷雨。薬の補充か?」

「うん、話が早くて助かるよ」

 同じ薬を飲んでいる引鶴が、慣れた手つきで薬の材料を棚から引っ張り出し始める。その側で、梅木は薬研やげんを手元に引き寄せ、薬草をすり潰す準備を始めていた。

「ええと、『くわきり』と、『みぎる』と……」

 引鶴の呟きがぼわんと反響する倉の中。続けて、彼が集めた薬草を薬研で挽く音が響き始める。地を這うような低い音。

 氷雨は、この音が好きだった。遠雷のようにどこか不穏でありつつも、なぜか落ち着く音。


 力を適度にこめて、梅木は薬草をすり潰していく。

 香が立つ。冬の空気と混ざる。


「……できた」

 すり潰した薬を包み、氷雨に手渡す。新鮮な香の薬はつんと鼻をつき、氷雨は思わず大きく息を吸った。

「ありがとうございます、毎度々々」

「また薬が切れたら、おいで……」

 ゆるりと手を振る梅木。その側で片付けをしながら、引鶴は元気よく手を振った。

いい夢見れるといいな!」

 隈ができていたろうか、顔色が悪かったろうか。悪夢と断じてよいものか迷われる夢を思い起こしてどきりとしながら、氷雨は手を振り返した。


「植生倉」の扉を開くと、心なしか雪が増えている。いっそうの白は真綿のように柔らかく、目に眩しい。まるで「新月」の着物のようだなと思っていると、目の前を「新月」が通った。

「こんにちは」

 響く挨拶は明るく素朴で、思わず氷雨の顔も緩む。ぱらぱらと走る音が響き、その度に彼らの足元で雪が散る。

「こんにちは」


 そう返した時、氷雨はその集団の一番後ろを歩く少年に、ふと目が行った。

 彼も「新月」。しかし、どことなく、他の子とは雰囲気が違う。



 そんなことを考えていると、彼とばちりと視線が合った。



(あ……)


 特別何かが変わっているとは思えなかった。少々乱雑にはねた髪、成長過程にあるのかひょろりと細長い体、まだ新品の着物。


 しかし、何かがある。

 それは氷雨にしか感じられないものなのか、そうではないのかはわからない。

 ただ、氷雨には、彼の黒い瞳、その視線が、何か強い意味を持つように感じられた。



 雪が止む。

 凍りつくような寒さが和らぎ、新たな季節の息吹を、かすかに感じさせる。



(彼が……)



 なんてことはない、勘に過ぎない。

 しかしふと、頭をよぎった予感。




 氷雨には、彼が自分の弟子になるような気がしていた。



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