四十四 交わりたる道の先にぞ行かむ

 凛と響く、連翹の声。

 それが鈴音すずねの残響のように広がり、やがて消えると、ふと彼は語気を和らげた。


「貴方を兄と慕っていたのは本当のことです。貴方はいつも優しかった。貴方の後を追うぼくが転んだ時には、わざわざ戻って助け起こしてくれるような人だった」


 ただ黙ってうなだれる慎之介は、小さく首肯し、ぐっと拳を握りしめる。



「私は……嬉しかったのだ……。死んだと思っていた弟と会えたのが……。ただ、私は愚かにも、弟は幼い時のままだと、心の底で信じていたのだな……」



 振り返ればいつもそこにいた小さな弟。

 いつまでも側にいると、信じて疑わなかった弟。

 彼はいなくなり、そして別の名を名乗って再び現れた。


 中腰になった連翹は、かすかに震える肩にそっと手を置く。そして、静かに目を閉じた。

「貴方があの家の者でなければよかった。しかし、そうでなければ出会えなかったかもしれないのですから、皮肉なものですね」

 蛍が光る。その光が着物を照らし、それぞれの違いを浮き彫りにする。一方は綾なる絹。一方は軽やかな木綿。



「貴方は当主。大して私は一介の『月下』。貴方の方が、ぼくよりも何倍も、守るべきものが多いでしょう。……しかしぼくには、今手にしているものが、たまらなく大切なのです」


 そう言って、連翹は三つ指をついた。




「たとえささやかなものであっても、それを守り、進むことが、ぼくの矜持なのです」



 

 一度交わった道は分かれ、そして再び交わった。

 その道の先は如何に。


 慎之介は、震える唇をおもむろに開いた。

 そして、淡くも深い闇を浮かび上がらせる障子窓を見、ふっと目を細める。




「……夜も大分更けてしまったね、『連翹』」




 その呼び名が、合図だった。




「……はい、『黒蝶』をお取りしなくては」




 ゆっくりと体を横たえる「宿主」。連翹は唇を軽く噛み、彼がゆるやかな眠りに落ちるまで見つめ続けた。



 交わりたる道の先。

 その先は分かれ道、再び交わるかは見当もつかない。

 そうとわかっていながら、それぞれの道を行く。



 世界さえも息を潜めたような深更。

 ふっ、と蝋燭の火を吹き消したように、「月下蛍」の灯りが消えた。来る。連翹は手元に竹籠を手繰り寄せ、じっと眠り続けるその額を目をやった。


 そして現れ出でる、赤紫の燐光と黒き蝶。

 今しがた語られた話が織り込まれているのであろう羽は闇の色、それを囲むように光る燐光は火の粉のように激しく、それでいてはらはらと畳に落ちては、消えてゆく。


 蝶は飛ぶ。

「手招き草」の布の中を。


 羽ばたきは優雅でありながらどこか不安定。連翹が差し出した竹籠に、ゆっくりと逆らうことなく入っていった。ふわり、と広がる甘い香はどこか懐かしく、何とも形容できぬような想いを掻き立てる。



 蝶の入った竹籠を、おもむろに畳に置く。

 涙が一筋、ほろりと連翹の頰をなぞった。



「それで、つつがなく終わったと?」

 時は流れ、場所は朝日に包まれた厨房の一角。朝餉をつまみながら、翡翠は相槌を打った。

 初めて黒蝶を「献上役」の詰所に預けた後、連翹は氷雨と引鶴とともに、厨房へとやってきたのだった。その連翹は、緊張が解けきっていないのか、食事に手をつけようとしない。それを見て、氷雨は小さくちぎった饅頭を手に持たせてやった。

「はい。兄は、ぼくに深く一礼して、去っていきました」

「そうか……」

 ずず、と茶をすする翡翠は目を細め、じっと連翹を見る。連翹はそれに気づいたが、そらすことなくまっすぐその視線を受け止めた。表情こそまだ硬さが抜けていないものの、その視線に翡翠は満足そうに笑んだ。

「三日会わざれば刮目して見よ、だな」

 その言葉に、こてんと首を傾ける連翹。そして、翡翠につられたように、そっと茶をすすった。ふわりと広がる爽やかな香にほうと息をつけば、その息は冷気にあてられて白く変わる。

「氷雨くんも、引鶴くんも、ありがとう」

「お疲れ様。ひと段落したようで、良かったよ」

「そうそう、なんかさっぱりした顔してるぜ。言いたいことをまとめてぶつけたからじゃねえか?」

 引鶴の言葉に軽く苦笑いして、連翹は軽く頭を掻いた。

 彼が纏う白い着物は今、朝日の黄金色に染まっている。「染めぎぬの祝い」で染めていない、予備の着物。これを染めて後、正式な「月下橙」となる。 

 

「それにしてもあのじいさん、好色だったんだな……」

 連翹の話を思い返してか、ふと翡翠が眉をひそめながら呟く。じいさん、とは京橋家当主のことだろうか。

「意外と?」

「打算的で、冷酷なまでに合理的な感じがしていたんだがね。まあ、俺の人相当てが当たらないこともあるか」

 ふー、と息をつきながら肩をすくめる翡翠。そうなのだろうか、と思いつつも、京橋家についてはいまいちよく知らない氷雨は曖昧に頷いた。


 だんだんと表情のほぐれてきた連翹の姿に安堵しながらも、氷雨たちは卓を囲み、茶を飲み、朝餉を口に運んだ。温かい食事で桃色に染まった頬を冬の風が撫で、寒い寒いと言いながらも笑う。 



――たとえささやかなものであっても、それを守り、進むことが、ぼくの矜持なのです。



(そうだよな、こういう時間を、大切にしたいよなあ……)


「宿主座敷」の一室での連翹の言葉を思い返しながら、氷雨はそっと茶をすすった。

 広場では着々と「献上」のための準備が進み、厨房にやってくる「月下」の数も増え始める。至る所で湯気が立ち、そこに白い呼気が混じり、太陽の光と混じり合っていく。

「あ、皆さん」

 ふと、その中でこちらに気づいて大きく礼をする人影。

「海松」

 ぱっと連翹の顔が明るくなる。そして卓から離れると、そのまま彼の元へと走っていった。「わざわざ来て下さらなくてもよかったのに」と恐縮する海松の声が聞こえる。それに対して鷹揚に首を振って、連翹はその場で立ち話を始めた。

「海松は昔のことを知っているからな。海松には話しておきたいと、思っていたんだろう……」

 低い声で呟く翡翠。それに頷いて、氷雨はじっと二人の姿を見守った。「献上役」の靴音が響き始めた広場の中で、言葉を交わす二人を。


 澄んだ朝の空気の中に、赤紫の燐光が混じる。あの中に、あの青年の黒蝶がいる。それは他の黒蝶とともに「浮橋様」に献上され、「浮橋様」が生きるための糧となる。濃い藍色の着物、揺るぎない靴音、静かなざわめき、「手招き草」の香りを振りまく竹籠。

 会話がしばし止み、海松がその光景に見惚れる。きっと先程までの会話で、あの中にあの青年の蝶がいることは知っているだろう。連翹も言葉を止めて、「献上役」が黒塗りの御殿の中に入っていく姿を見守っていた。目には見えぬ道を行くように、確かな足取りで主の元へと向かっていく「月下藍」の姿を、静かに見ていた。

 氷雨は、そんな彼よ心情に思いを馳せる。もしかしたら、彼の求める「御殿で嗅いだ香」のことにも思いを馳せていたかもしれない。連翹の表情は一言では表せぬ複雑さに満ちていたが、引鶴の言うように、どこかさっぱりとしても見える。


(『ぼくは、ここで生きていく……』)

 青緑の布の中、しなやかに響いた言葉。

 天翔ける鳥を思わせる、力強い。かつて彼が居たという空間のとは異なるそれを携えて、連翹は「献上」を見届けていた。


 ばたん、

 音を立てて、「浮橋御殿」の扉が閉まる。黒蝶の燐光はあの空間の中に飲み込まれ、広場には反動のようなざわめきが広がった。

 氷雨と引鶴、翡翠は、何となく止めていた食事の手を再開しながら、再び話し始めた連翹と海松に視線をやる。話が変わったのか、彼らは時折破顔し、ゆるやかな笑い声を上げていた。その年相応の澄んだ声に、三人の顔が緩む。

「……あれ」

 そんな会話の中で「連翹先輩」という言葉が折々に聞こえ、氷雨は首を傾げた。おや、最近までは「桔梗様」と呼んでいたのに。今回の一件が解決したからだろうか。その名で呼ばれるたび、心なしか連翹はどこか誇らしげに瞳をきらめかせた。



「……海松は、連翹の弟子になるかもな」



 その言葉に、氷雨ははっとして翡翠を見た。そして、黄金色の光に染まった自らの着物を見やる。



「ああそうか、『月下橙』になったら、おれたちは『新月』の師匠になるんですね……」


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