四十三 白きは死に装束にあらず
あの日、私は部屋に居た。
ひどく静かな日で、愚かな私は、穏やかで良い日だと感じていたんだよ。あれはきっと予兆のようだったのだろうけれど、私はそれをそうと気づかなかった……。
おかしいと思ったのは、私の部屋に母君が訪れた時だった。……そう、桔梗の母君が、突然やってきたんだ。正式には、私の部屋の襖を開け、外に座していたのだけれど。とにかく、私は驚いた。彼女はもう、この屋敷にいないと思っていたから。母上によって、親子共々追放されていると思っていたから。
母君は私に一礼して、やけにゆっくりと話し始めた。誰かに語りかけているように、優しく……。
「お久しゅうございます。
尾を引かぬ、淡々とした言葉。
ご挨拶、と言いながらも別れを告げるような口調。誰かに話しかけているのではない、ご自分に話しかけているのだと気づいた私は思わず中腰になり、母君の元に寄ろうとしたのだ。しかし彼女は私を視線で制して、続けた。あの時駆け寄っていれば、間に合ったのだろうか、と今でも考える……。
「桔梗は生きているのでしょうか。もしできますれば、探してはくれませんか。それだけが心残りです。しかし、慎之介殿に託せばもう心配はありません」
どこか一方的な言葉とともに、母君は一旦言葉を切った。襖の奥に、底知れない闇を感じて、私は正直なところ、幽霊でも見た気でいたのだ。
「ついてきていただけますか」
そう言って、影のように消えた母君の姿に、私はついていったら後戻りできないという気にかられたよ。しかし何もしないでいるのも悪い思いがして、母君の後を追った。
母君は渡り廊下を行き、長く使われていない物置小屋の戸の前に立った。
「ここに桔梗はおりませんでした。ひどいものですね。旦那様が手元に持っているのでしょう。探したけれど、私にはどうにもできませんでした。もう疲れました。もう、ここには来たくなどなかったのに」
母君は、私に話しかけているようで話しかけてはいない、人を不安にさせる口調のまま、着物の袖で口を押さえていた。私は、「桔梗はどこかにいるのですね。彼を探せばいいのですね」と言うと、彼女はゆっくりと頷いたよ。
私にとって忘れられない言葉とともに。
「ええ。しかしもう希望を持ってはおりませんから、こうしてしまおうと思っているのですよ」
そして、子どもの戯れのように、なんの迷いもなく、母君は物置部屋の戸を開けた。
そこには……、地面に落ちた大量の紙と巻き物、それを覆う油。そして、やけに数の多い灯り。
それらの意味を察し、止めようとする間もなく、母君は灯りを蹴って、油の中に落とした。
それは、火蓋を切って落とす音。
……何が起こるか、それはもう明らかだろう。
ぼっ、と大きな音を立てて、真っ赤な炎が上がった。物置小屋中に燃え上がり、それはちりちりと大きな音を立てながら、他の部屋や渡り廊下に移っていった。油を撒いていたからだろうか、火の勢いは止むことがなく、やがて気づいたらしい使用人の声が大きくなり始めた。
私は呆然と立っていた。眼前の光景は……息子である君には……到底、伝えられないような……。
未だに母君が夢枕に立つ。炎の中での姿で……。夢に現れるたび、私が彼女を夢の世界に閉じ込めてしまっているのではと、彼女は成仏できていないのではと、たまらなく恐ろしくなる。それは……それは、申し訳が立たない。
桔梗。目の前に居ながら母君を助けられず、申し訳なかった。それを、伝えたかった。私が死ぬ前に出会えてよかった。
ゆっくりと、青年は――慎之介は口を閉じた。
「死ぬ前に……」
その言葉を、桔梗は噛んで含めるように呟く。
「……それで、桔梗はどこに? 母君は見つけられなかったようだが」
ちらちらと輝く「月下蛍」の光。それが「手招き草」の布を揺らし、それがまるで青緑の炎のように見えていた。
連翹はしばし逡巡し、それから口を開いた。
「ぼくはずっと、出口のない部屋に閉じ込められていました。そしてあの火事の日、封が解かれたように、突如ぼくはあの部屋から解放されました」
「では、あの屋敷にいたのか。不思議なこともあったものだね……」
不思議は起こり得る。
こうして、再び巡り合わぬと思っていた腹違いの兄弟が、
「今、京橋家は
「今は立て直しも終わって、父上を中心に元のように事業をやっているよ。お客もついてきてくれているし、ありがたい限りだ」
秘密を明かしてか少し顔色の良くなった慎之介は、一息ついてかすかに笑った。
その一方で、睫毛の影が濃く目に差した連翹は、掠れた声でぽつりと問う。
「……母は」
その笑みがかすかに固まって、慎之介は軽く目を伏せる。
「使用人の不手際ということにされた。元より、母君があの屋敷にいたことは誰も知らず、父上も……隠したままにしておきたかったんだろう」
「墓は」
「私が作った。彼女がいなかったことにされるのは忍びないからね。一族の墓地に眠っているよ」
――一族の墓地に眠っているよ。
瞬間、苦い顔をして、慎之介は俯いた。
「一族……京橋一族の、墓地に?」
障子窓の外から、いつでも飲み込まんと大口を開ける闇。それは仄かな灯りの影にも潜み、連翹の心をざわつかせる。ざらざらと表面をなぞり、そしておもむろに、刃を、突き立てる。
「彼女は、あの屋敷から逃れたがっていたのでしょう?」
「悪く思わないでくれ。母君の出自は、どれだけ調べてもわからなかった。野ざらしにされるよりはいいと思ったんだ。そんな墓を立てたら、彼女にも、彼女の墓参りをする者にも、申し訳が立たない」
連翹は、硬い表情のままどこか饒舌に話し始めた慎之介を、ただまっすぐ見据えていた。
その瞳は、心情を容易に探らせない膜でも張っているかのように、無感動な色を灯していた。
「墓参りする者……」
掠れた連翹の声。慎之介が顔をそむけ、感情を隠すように顔を覆った。
「ぼく……だけではありませんね。父の――京橋家当主のことでしょう」
無言は肯定の印だった。
「義母に追い出されたのをこっそり引き戻すくらいだ、ぼくの母に強い執着を持っていたのでしょう。そうでしょうね、母が何と思おうと、たとえ死んでしまおうと、手放さないでしょうよ」
「ちが……」
「だいたい、なぜそこまで詳らかに話してくれたのでしょうか。母の最期を伝えてくれる親切もあるかもしれませんが、それだけではないでしょう? ぼくを探していた理由だってそうだ」
すう、と、聞く者が苦しくなるような、息継ぎの音がした。
「母は死んだ。だからぼくの血縁はもう、京橋家の者しかいないと、そうおっしゃりたいのですか?」
頭を垂れた慎之介が、弱々しく口を開いた。
「……私は先が長くない。母と同じ病を、体の中に飼い続けている。今は小康状態だが、いつ悪くなってもおかしくはない。つまり、京橋家を継いでも先がないということだ」
「だから、ぼくに継いでほしいと?」
氷雨と引鶴が、こくんと息を飲んだ。
連翹は、己の言葉が存外鋭かったことに少しばかり瞳を揺らす。しかし、そらすことはしなかった。
「……貴方は京橋家の人間なのですね。京橋家の存続を一番に考える、次期当主に、なってしまったのですね……」
それに負けたとでも言うように、慎之介は苦笑いする。
「……正直な話をすると、それを考えなかったわけではないよ。私には他に兄弟がいないから。……それにね、桔梗。君たち親子にとっては憎いのだろうが、京橋家は私にとって、守るべき家だから」
深い、深い嘆息。
「だからといって、母君を殺し、息子である君を傷つけてしまったことは、許されはしないけれど……」
どちらともなく生まれたそれが、夜霧のように広がるのを感じながら、連翹はおもむろに己の着物に手を置いた。
「……この着物は、新人に与えられるものです。最初はまるで、それが死に装束のようだと感じました。桔梗という者の死を
何も言わず、ただ正座したままの慎之介。
「しかし……本当はそうではなかった。白い着物は、階級が変わるたびに色を重ねていく。橙、紅、そして藍へと。それは過去をすべて抱えていくということ。ぼくはここへ来て、本当に良かった。学びたいと思うことや、大切な仲間ができた」
物音一つせぬ夜闇。その中で光るように浮かび上がるは、「新月」の白き
もうじき朝日が如き橙に染まる、「浮橋屋敷」の一員たる白き衣。
「貴方がぼくの兄だったことは、とうに過去になりました。貴方にとってもそうでしょう。半ば死んだと思っていたのなら、尚更」
一輪挿しの花のようにすらりと伸びた体、それは幼さを手放し始めた男の体。
凛と灯る両の瞳は、幼き日のように強い生命の光を放っていたとしても、それはそれと全く同じではない。
「桔梗を忘れてほしいわけではありません。ぼくは最近、桔梗としての自分も抱えていく覚悟をしました。……ただ、ぼくも昔のままではなく、昔のように京橋家の人間ではない、というだけの話です」
花は咲く。
しおれては咲き、新たな種を作り、そして再び咲く。青紫のすらりとした花を咲かせる。鈴なりの黄色い花を咲かせる。
すう、と息を吸う。
「だからぼくは、京橋家には戻りません。当主にもなりません。ぼくは、ここで生きていく。過去は捨てないけれど、過去に戻りたいわけでは、ないのですから」
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