四十二 蛍火に照らし出でらる真

 数週間後。

「本当に、良いんだな?」

 組み分け表を渡す時、翡翠はその一言を添えた。


「はい」

 紙をゆっくりと受け取り、連翹はおもむろに頷いた。



「月下蛍」の提灯を持つ。言葉を発するわけではないけれど、その優しい光に励まされる気がしながら、連翹はゆっくりと立ち上がった。

「気をつけて」

「本当に、俺らが同席していいのかよ?」

 戸を開く連翹の後ろから、氷雨と引鶴の声。畳の上に鎮座して、忠犬のように揃って連翹を見上げている。

「だって、ぼくが頼んだんじゃないか。一緒に練習したとはいえ、『蝶の捕り役』の本番は初めてだからね。それに、二人がいた方が、安心する」

「……そっか」

 闇の中、淡い光に照らし出されし顔は研いだ刃のように鋭い。氷雨は静かに頷いて、連翹を送り出した。



「宿主座敷」の玄関に、人影が見える。

 近づくと、それは病的に細い青年。見覚えがあるような、ないような。心がざわつく気持ちを抑える。

「ようこそ、おいでくださいました」

 常によりも低い声。俯きながら『宿主』の側に寄ると、連翹はおもむら一礼した。灯りは気持ち下にして、顔を上げきることはしない。

(いざ会うとなると、怖いな)

 心のなかで苦笑いしながら、青年を導く。闇の中であまり目が慣れていないのか、青年は連翹の顔を大して注意を払うこともなく、幽霊のように後に従った。



 彼に――京橋家の長男・慎之介と会ったのは、声変わりより前のことだ。

「連翹」として彼を案内する。「桔梗」の自分を抱えながら。

 

 床の上を滑るようにして歩き、そうっと戸を開き、初めて入るかのように慎重に足を置く。


「こちらへ」

 部屋に、あの青年が入り込む。氷雨は、ごくりと唾を飲み、静かに彼を見つめていた。


「……そのまま」

 薬膳茶を飲み終えた青年が横たわろうとしているのを厳しい顔で制し、連翹は背筋を伸ばした。ほのぴりりと震える気配に、青年は怪訝そうな顔。

 しかし何かを感じてから、その表情は刻々と変化していった。


「この顔に、覚えがおありでしょう」


「月下蛍」の中に照らし出されし顔。

 連翹は――桔梗はもう、俯きもしなければ、目をそらしてもいなかった。ただまっすぐに、知己の存在を見つめていた。



「……桔梗」

「お久しゅうございます、兄上」



 ほろり、と蛍火を灯した雫が零れた。

 それは青白くこけた頬をなぞり、畳の上に落ちる。ぱちん、と音を立てる。

「よく、生きていたね……」

 彼は、そう言って連翹の手を取った。

「あ……」

 その枯れ枝のような細い手に、連翹ははっとして彼を見やる。



「私はね、もう長くないんだ。だから、桔梗を探していたんだよ」



 長くない。

 悪夢に苦しんでいるから、これだけ痩せこけているのだと思っていた。

 しかし、それだけではなかったのだ。


 幼き頃に出会った異母兄。

 彼の行方は知れぬまま、桔梗はあの空間に入れ込まれ、そしての屋敷は焼け落ちた。



「……何が、あったのですか。ぼくの預かり知らぬ何かが、起こっていたのでしょう?」



「そうだね……」

 すう、と青年が息を吸った。

 それは、彼から見た過去を語る合図だった。



 はじめに断っておくと、私も全てを知っているわけではない。実際、桔梗と母君が京橋家を追い出された後、今まで桔梗の行方は知れなかったからね。死んでしまったか、別の場所に奉公に出されてしまったと、思い始めていたよ。

 私が知っているのは、君たち親子は一度あの屋敷にいたが、追い出され、母君が再び連れ戻されたということ。その経緯の中でも、知っていることと、推測になってしまうことがある。


 覚えている? 君と私とでよく遊んだね。父上は君たちのために離れをあてがっていて、その部屋で遊んだ。母君は香りがお好きなようで、父上からたくさんこうをもらっていたそうだ。それを使って、配合をあてる遊びをしたね。大昔の姫君たちを真似ているようで、物珍しかったのを覚えているよ。

 桔梗はあれが得意だったろう。目をきらきらさせながら香を嗅ぎ、当てるたびに得意げに笑っていた姿が、遠い昔のことだったなんて。

 あの時、いつも母君が後ろにいて、微笑ましいといった顔で君を見ていた。ただ、当てるたびにいつも少しばかり切ない表情をしていた。この幸せが終わってしまうのを予感しているような。私はその表情が気にかかっていた。

 だから、母上が君たちを追い出してしまった時、何とも言えぬ気持ちになったんだ。


 君たちを追い出したのは、私の母だ。

 私も幼かったから詳しくは知らないけれど、父上が仕事で家を離れている時に、適当な理由をつけて町に放り出したらしい。私は仲良くしていた弟が急にいなくなり、驚いたよ。弟を返してくれと懇願したら、ここでは言葉にもできないような文句を、母上は言ってのけた。ひどい話だ。彼女にとって、母君は父を奪う、敵だったんだろうから。


 父上は……覚えているだろう。君たちをひどく気に入っていた。桔梗を実の弟と思えと言ったのも父上だ。母君をよく部屋に呼んでいたね。   

 詳しくは知らないが、母君はおそらく一介の使用人だったのだろうが、それがここまで寵愛されるのは、良くも悪くも目を引く。

 私の周りの使用人たちも、よく噂していた。曰く、元は遊女だったとか、裏稼業をしていただとか。でも、全くわからなかった。ほういう話は全部はぐらかしてしまうのか、何もわからなかったんだ。だから、噂だけが宙に浮いているようだったのを覚えているよ。本当に、不思議な人だった。でも、母君は本当に優しい人だったと思っているよ。


 君たちが屋敷を去ってから数か月後に……母上が亡くなった。

 以前から病を抱えていたんだが、それが思わしくなくなってね。そして……おそらくその後だろう、父上がこっそり母君を連れ戻していたんだ。驚いたよ。父上は正気かと、本気で疑ったね。

 でも当時はそれを誰も知らなかった。父上は実に用意周到だったようでね。それを知ったのはあの日だ。そう、あの日。



 あの屋敷に、母君が火をつけた日のことだ。

 



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