四十一〜五十
四十一 初心は染まずありけり
雪解け水をそのまま空気にしたように澄んだ冬の広場の中心に、大きな木桶が三つ。大きさこそ同じだが、その中身は異なる。平等に空と雲を映しているが、目的はそれぞれ少しずつ異なるのだ。
一つには藍色の液、一つには濃い赤の液、そして最後の一つには薄い赤の液。
空の夕色をそのまま写したようなその液は湯気を立て、色つき鏡として静かに、まじまじと覗き込む「月下」たちの顔を見返す。
「ほら、ぼうっとしないで並んだ並んだ! 染め損なってしまうよ」
ふと、聞き覚えのある声が響き、氷雨たちいつもの三人は顔を上げた。見ると、きびきびと列を統率する深山の姿。桶のすぐ側にいるからか、凛と揺れる黒髪に、水の色がかすかに映り込んでいた。
「おっ、氷雨じゃないか。おめでとう」
「深山も、『月下紅』昇格おめでとう」
そう言うと、深山は「当然だ。弟子に負けていられないからな」と言いながら、得意げに腰に手を当てた。
「連翹も、引鶴も受かったんだってな。おめでとう」
二人も照れくさそうに礼をする。
「ああそうだ――」
続々と「月下」が集まる中、深山はふと思い出したように引鶴に目をやった。
「引鶴、お前の師匠には世話になっているよ。この液の配合も、梅木と相談しながらやったんだ。」
「あ、そうなんですか。さすが梅木さん」
「草木の世話役」であり薬草の有識者であるという師匠を褒められ、引鶴は嬉しそうに笑った。
「まあ何にせよ、三人とも受かって良かったよ。お前たちの着物を染められるのは嬉しいね」
試しに受かった者は、次の階級へと進む。
「新月」は「月下橙」へ。
「月下橙」は「月下紅」へ。
そして任意だが、「月下紅」は「月下藍」へ。
それぞれの階級は、それと示す着物をまとっているが、「月下」は基本的に、同じ着物を着続ける。
ではどうやって色を変えるのかというと、染料で色を上塗りするのである。
「新月」の白から「月下橙」の橙へ。
「月下橙」の橙から「月下紅」の紅へ。
「月下紅」の紅から「月下藍」の藍へ。
「『新月』から『月下紅』までは、赤系統の同じ染料を使うんだ。濃さで違いをつけるんだよ。一方て、『月下藍』の着物は、青系統の別の染料を使う。そういうところで、『月下藍』の特殊性を表現してるのさ」
そう説明しながら、深山は三人を新・「月下橙」用の木桶へと案内する。薄い赤の液が占める木桶だ。
「もう少し人が集まったら、やり方を説明するからな。待ってろ」
「深山はいつ染めるの?」
「『染め布役』はこの『染め
そう言って、深山は他の「月下」の案内へと向かっていった。
そして深山の言うように、大方の合格者が集まったと思しき頃、「染め衣の祝い」の開始が宣言された。
「この度は合格おめでとうございます。一層精進されますよう」
「染め布役」の「月下紅」である此花の声もともに、「月下」たちがそれぞれの着物を手に、桶の周りに立つ。
「月下」は基本着物を二着持っており、一着を手に、一着を身にまとっている。一着目を染めるのが「染め衣の祝い」で、もう一着は後日適宜染める。「染め衣の祝い」は、一種の儀式なのである。
「お着物を染め液に浸してください。熱いので、十分注意を」
だしのような色をして白い湯気を上げる液の中に、着物を放り込む。名が刺繍してあるから着物を取り違えることはないが、桶の中に大量の着物が浮かぶ様は、大きな金魚鉢のようで中々壮観である。
「真っ白な着物が、橙色に……」
ゆっくりと氷雨が呟くと、引鶴がにやりと笑った。
「見た目から入るってわけだな」
その隣で、連翹は無言で着物をなぞっている。それも、着物の裏地、名前の刺繍――「連翹」の名があるところ。……前髪が軽く目にかかり、木漏れ日のように影を落とす。
氷雨と連翹は、ちらりと視線を合わせて、ぱんと背中を叩いた。
「わかってるって、今から入れるよ」
連翹は穏やかな笑みを浮かべ、稚魚を放流するように優しく、己の着物を染め液の中に入れた。
そして後日。
「染め布役」によってしっかり染め上げられ、乾燥した着物が返却される。それを受け取ると、三人はそわそわと氷雨の部屋に集い、畳まれていた着物を広げた。
「橙色だ……」
真っ白だった着物が一転、枇杷の実に優しい橙色に染まっている。ほんのりと後ろの風景が透ける布目は使い古して柔らかくなり、陽に透かすと、夕景の中で天女がまとう羽衣のようにも見えた。
「もう一着も早く染めてえな」
「うん、そうしたら名実ともに『月下橙』だ」
着物を撫でると、指先に返る布のざらつき。それさえも愛おしく感じられる不思議。
三人はしばらく感慨に浸っていたが、ふと一人がその手を止めた。そして、先程脱いだばかりの白い着物を見つめる。
「連翹」
連翹はしばらく白になぞっていたが、やがてその手を止め、朝日のようにまっすぐな視線を二人に向けた。
「ぼくは最後に、
「……え?」
ぽろり、と溢れる声。それはぽわんと宙に広がり、消えたが、二人の記憶では幾重にも重なって響き続けた。
「だってお前、昔のことを思い出すからやめていたんだろ」
引鶴の声はひきつれ、乾いた筆のように掠れる。一方の連翹の声は落ち着いていたが、それでも少し、震えていた。
「ぼくの兄は、『宿主』としてここに来ているんだろう? 会って、直接聞くよ。過去を知り、清算し、『桔梗』としてのぼくを受け入れるために」
過去を知り、清算する。
「……試しに受かった時、自分のことのように喜んで、過去の話には本気で怒ってくれたね。それが嬉しかった。あの時、『今までの自分』を肯定してもいいのかもしれないと、そう思ったんだ」
障子窓の真白の紙は今や橙色の光に染まっている。繊維が絡まって、そして生まれた一枚の紙。そこにほんのりと投影される影は、連翹でもあり、同時に桔梗でもある存在。
「だから、義兄に会って、かたをつける。そうしたら、胸を張って『月下橙』の『連翹』を名乗るよ」
そう言って、笑った。
(連翹は……)
そんな姿を見ながら、氷雨は思う。
(連翹は、おれに似てる)
定めの中にあって、その謎を「知りたい」と望むところが。
前に進むことを望むところが。
そして、閉じられた世界にいたことが。
(でも同時に、おれとは違う……)
連翹の瞳に灯った光は、幼子の時代の終わりを知った子どものようにほろ苦く、それでいて流星の尾のようにまっすぐに美しく、そして強い風の中に揺れる花のように力強い。
(熱にうかされたように『浮橋屋敷』に向かうとも、着実に秘密に近づいていくのとも違う……)
それは、全てを、受け入れるという覚悟。
(おれも……)
前に進みたい。
先をゆく雪代に追いついて、そして傷ついていたなら手当てしたい。
彼が隠していた秘密を、今度は自分が背負いたい。どんなに重くとも構わない。元より、自分が背負うべきものであったのなら、なおのこと。
理由があって隠していたのだろう。それを明かそうとするのは傲慢やもしれない。それでも……。
彼の魂に負わされた重さを、少しでも軽くできるように。
それができるほど、強くなりたい。
そのために、「月下藍」を目指しているのだから……。
「連翹がよく考えた末の結論であるならば、おれは尊重するよ。段取りに関しては、翡翠さんに掛け合う必要はあるとは思うけど、おれもできることをやる」
「俺も、できることがあれば協力するぜ。なんせ、友だからな」
二人の言葉に、連翹はぐっと唇を噛んだ。そして黒水晶のような瞳を揺らし、静かに、頭を下げた。
「ありがとう。君たちが友で、本当に良かった」
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