「酔狂なことを。よその皇子をお引き取りして、なんになる」

 渋い顔の道長をよそに、彰子は心を浮き立たせながら、いそいそと女房たちに指示を下していた。皇后定子の遺児、敦康あつやす親王を迎えるための準備である。

「御座所は、そちらに……そうだわ。お遊びのお道具も必要ね。さっそく用意させなくては」

 道長は、自分をまるで目に入れていない彰子を不満げに見やる。相手をしていた女房は困ったように両者の顔色を窺っていた。

 内々に不満は言うものの、道長は表だって反対はしなかった。当の彰子に子のできる気配が全くないため、将来を見越して、今のうちに敦康親王を彰子の猶子ゆうしとしておいた方が得策だと考えたのかもしれない。そんな思惑などまるで考えずに彰子は、ただはしゃいでいた。

 やがて敦康親王が帝に連れられて西の対から移ってきた。彰子は、帝さえも目に入らないといったように幼い皇子を自ら迎える。

「さぁ、一の宮様。こちらへおいでなされませ」

 こぼれんばかりの笑顔で一の宮の手を取り座所へと誘う。一の宮を座らせ、自分も傍らに座って優しく話しかけた。

「一の宮様。今日から、わたくしを本当のお母様と思って下さいましね。なんでも、このわたくしにおっしゃって下さい。絵巻でもお道具でも、宮様の欲しがられるものは必ずお揃え致しますわ」

 一の宮は、ただただ無邪気に顔を輝かせている。帝もまた、そんな二人の様子をひたすら満足げに見つめた。

「おやおや、これは甘いお母様だ。あまり甘やかして、一の宮が我が儘な子にならぬと良いが」

「大丈夫ですわ。一の宮様は主上によく似ておられて、とてもご利発な御子でいらっしゃいますもの」

 仲睦まじい義理の親子の語らいを、一人道長だけが、密かに不満げな溜め息をついて呆れたように見ていた。


 それから間もなく、まだ年若い娘が母倫子の古い女房に付き添われ、一条院の東北の対を訪れてきた。新しく出仕することになった者である。道長は少しでも彰子の後宮を華やがせようと、未だに優れた人材を探していた。入内の頃からの女房たちも、結婚などで辞めていく者もおり、その都度、新しい女房が補任されている。

「中宮様。この度、新しくお仕えすることになりました女房でございます。よろしく御引き回し下さいますよう」

 彰子の前で恭しく拝礼した倫子の女房は、後ろに控えている少女を紹介した。

「中宮様です。さぁ、御挨拶なさい」

 少女はいくらかいざって前に出ると、丁寧に一礼して顔を上げた。なかなかに愛らしく品の良い顔立ちをしている。年は彰子と同じくらいであろうか。

「若い人が来てくれるのは嬉しいわ。やはり、同じ年頃の人がいないとつまらないもの」

 にこにこと微笑む彰子に、少女は頬を赤らめて困惑している。どこか初々しい仕草が彰子には好もしい。

「摂津守藤原棟世むねよの娘でございます。心をこめてお仕えいたしますので、どうかよろしくお願い申し上げます」

「摂津守……?」

 彰子は、最近聞いたような名に不思議に思って、倫子の女房を見た。年配の女房は畏まって言う。

「はい、あの……ご存じでございましょうか? 清少納言という者を。亡くなられた皇后様にお仕えしていた者ですが」

 その口ぶりには、どこか周囲を憚るものが感じられる。やはり道長側の人間には、まだ皇后の名を口にするのを厭うものがいるらしい。

「実は、その人は私の古い馴染みなのですが、このたび摂津守と結婚いたしまして。義理の娘が宮仕えを望んでいるので、取り計らってほしいと頼まれたのでございます」

「そう……あの清少納言の継子ままこになるのね、この人は」

 彰子は感慨深い想いで、目の前の少女を見つめた。彼の人の想い出に深く関わる女房。なさぬ仲とはいえ、その娘が自分の許へ来たことに不思議な因縁を感じる。

「わたくしも小さい頃……あなたの義母君の書いた草子を読んだわ。とても素晴らしかった……」

 懐かしい想いで遠い目をする彰子を、少女は嬉しそうに見ている。

「あの人は、もう草子を書いたりしないのかしら……」

「いえ、時折りは書き散らしたりしております」

「そう……読んでみたいわ」

 彰子は心底そう思った。あの清少納言が書くものは、必ず亡き人のことであろうと思えたから――おそらくは皇后定子に捧げるつもりで書いているのだろうとも思い、自分もその想いに触れてみたいとも思う。


 数日後、彰子は帝に召されて夜の御殿の御帳台の中にいた。

「どうしたのかね? なんだか、ずいぶんと嬉しそうな顔をしているよ」

「はい、とても」

 自分の心が、たとえようもなく浮き立っているのが可笑しい。彰子は、不思議そうに自分を見ている帝に悪戯っぽく笑いかけた。

「主上に是非お見せしたいものがございますの」

「ほう、なにかね?」

 興味を示してくれるのに喜び、密かに胸元に忍ばせてきた物に触れた。女房たちにも気づかれないようにと、小袖の胸元深く隠し持ってきたのである。

「わたくしの許に最近、新しい女房が参りましたの。小馬こまの命婦と呼んでいるのですけれど……どういう者だと思われまして?」

「さぁ?」

「あの清少納言の継子ですのよ」

「清少納言の!?」

 帝も驚いたようだった。それに気をよくして、胸元の物をそっと取り出した。厚めの草子である。

「これは、まさか……」

「そうですわ。昔、あの人が書いた物の続き、と申し上げたらよろしいでしょうか。宮仕えを退いてから、新しく書き起こした物らしゅうございますわ」

 手渡されて、帝は草子をまじまじと見つめた。懐かしげとも、愛おしげともつかぬ複雑な表情だった。

「小馬の命婦は新参なものですから、遠慮して、わたくしの側には寄ろうとしませんの。でも、なにか言いたそうな顔でちらちら見るものですから、他の者が側にいないときに呼び寄せてみたのです。そうしたら、これを――」

「……そうか」

「まだ書き溜めたものがたくさんあるそうなので、送ってもらうよう言いましたら、それはもう喜んで。なさぬ仲なのに、ずいぶんと慕っているようでしたわ。清少納言という人は、きっと豊かな人柄なのでしょうね」

「そうだね。あの人は、殿上人たちにもずいぶんと人気があった。皇后も、それは可愛がって……他の女房たちには、それを妬む者もいたようだが」

 草子を手にしたまま遠い目をして懐かしげに言う帝に、彰子はふっと笑った。

「嫌だわ、わたくしったら……。お話ししていては、お読みになれませんわね。どうぞ、お読みになって下さいまし」

 しばらく御帳台の中は沈黙が続いた。彰子はただ、あるときは楽しげに、あるときは目を光らせて草子に夢中になっている帝を、満たされた想いで見つめていた。

「――これを読めば、皇后様の御人柄が手に取るように判ります。本当に素晴らしい御方……」

「宮……」

「わたくし、これを世に広めようと思いますの。皇后様とその周りの人々が、どんな風に生き、どんな風に暮らしておられたのかを世の人々、いいえ、後世の人々にも伝えたい……」

「しかし……」

 帝は熱心に言う彰子を困ったように見る。かつての後宮を賛美し、皇后定子を褒め讃える草子である。未だに定子の匂いを払拭しようと躍起になっている者が、これを快く思うわけはない。だが、そんなことは重々承知の上であった。

「このわたくしが広めるのです。誰も文句など言いはしませんわ。それに表向きのことではないのですもの。いくら不快に思おうと、父には表だって非難することなどできはしませんわ」

 そう言って彰子は、草子に添えられた帝の手を両手で包み込むように強く握りしめた。


―了―

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紫の雲―二人の后― 神矢みか @KamiyaMika

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