暑い晩夏の六月。帝や一門の期待も空しく、また彰子の胸を焦がしたまま、十五歳の御匣殿は身重の体で世を去った。

 それに続き、同じ年の八月。亡き皇后一門の最後の希望であった東宮妃の原子までもが、東宮の即位を見ることなく世を去った。定子のすぐ下の妹で、二十三歳の若い死である。美しく教養高く、東宮の寵愛も並一通りではなかったという。

 だが、原子の死は御匣殿のような懐妊によるものでも、病によるものでもない。もっと凶々しく、どす黒い霧に覆われていた。突然、口や鼻孔から血を吹きだして絶命したのである。そのため鴆毒ちんどくとやらの猛毒が使われたのだという、まことしやかな噂まで流れた。

 兄である伊周の嘆きは相当なものであったと言う。先に頼りの皇后を喪い、帝の寵により希望が差したと思う間もなくの御匣殿の死。そして、次代の后とも思っていた東宮妃の死。あまりにも運に見放された不幸な一族であった。昔日の栄華の記憶があるだけに、かえって不運が痛ましい。

 彰子は、定子の縁の人々が世を去っていくことに耐え難いものを感じていた。最後まで定子に付いていた女房たちも、一周忌を終えて四散し、わずかに幼い宮たちの元に残るだけとなっている。

 未だ憧れてやまぬ人、その残り香が一つ一つ失われ、また忘れ去られていく。それを一つでも手に留めることはできないものかと願い、方策を探ってみたりもした。

『そういえば……もう何年も前に読んだ、あの不思議な草子。物語でも日記でもない、変わった体裁の……あれを書いた清少納言は、どうしているのかしら……』

 定子の崩後、宮仕えの拠るべを失った者は数多い。そして、皇后付きの命婦という地位を失った清少納言は人々から悪し様に罵られていた。人を人とも思わずに男を相手に漢学の才をひけらかし、いい気になっているから落ちぶれるのだ――と。

『わたくしは、そうは思わない。本当にそんな浅ましい者なら、あの皇后様が御寵愛なさるわけがないもの』

 清少納言がどれほど定子を敬愛し、また愛されていたかは、帝から聞いて良く知っている。自分と同じように彼の人に憧れ、恋い慕っていた者だと思うと、やはり親しみを覚えてしまう。

 そういう者が自分の側に来てくれたらとも思わないではないが、定子に全身全霊を捧げた者が、その敵方であった自分に仕えてくれるとは思えない。そうでなくとも、もう定子以外の人間に仕えたりはしないであろう。

 それも考えずに道長は、定子の後宮の花であった宮廷一の才女を彰子の後宮へと引き抜こうとした。倫子の女房に清少納言とつき合いのある者がいたらしく、それを介して申し込んだらしい。だが、当然のごとくに一蹴されたと言う。

 秋を迎えて久しい。朝夕は涼しくなったものの、昼間には時折り暑くなる日がある。今日も朝の御膳を終えた頃から、しのぎがたい暑さを感じて、彰子は南庇の座所に移っていた。

 脇息に身を預け、簾越しの庭を見るともなしに見つめる。築垣の向こうの西の対は弘徽殿代とされていたが、道長の強い権勢を後見とする彰子を畏れているのか、女御は里邸に下がったままでひっそりとしていた。

『御匣殿があんなことになってしまって……主上も寂しがられておいででしょうに。承香殿のお方も年に一度か二度、参内するだけ。どうしてなのかしら……』

 自覚のないままに後宮の女主となった自分が他を圧してしまっていることには、まるで気づいていない。やはりまだ、帝を兄と思っているせいもある。

 後ろに控えている数人以外は、年配の者は裁縫などに精を出し、若い女房たちは皆、楽しげに西の孫庇の殿上人と語り合っている。

 ふいに後ろの方でかすかなざわめきがあり、西庇にいた女房が衣ずれの音を立てて近寄ってきた。

「中宮様。主上から、上の御局に上がられるようにと御使いがございました」

「そう」

 昼の間に上の御局に上がることは、そう多くはない。たいていは帝の方から訪れ、よほど忙しいときぐらいにしか、彰子を呼び寄せることはなかった。

『今日は、特にお忙しい日ではなかったはずだけど……』

 そう思いつつ身支度させて女房たちを従え、清涼殿代である中殿に向かう。上の御局には、まだ帝は来ていない。顔見知りの右近内侍うこんのないしが一人で待っているだけであった。

「中宮様御一人をお残しして、他の者は下がらせるように、との仰せでございます」

 右近内侍が恭しく言う。彰子は不審に思いながらも、供の者を東北の対へと帰した。それを見計らったように、帝が夜の御殿を抜けて現れた。

「他の者は帰したようだね」

「はい。わたくし一人でございますわ」

 帝は御簾の向こうの庇を見やりながら、やっと腰を降ろした。彰子を側に寄せ、いつになく低い声で言う。

「宮は、清少納言を知っているね?」

「え!?」

 つい先ほどまで心を占めていた名をふいに出され、彰子は面食らった。まるで心を読まれたような気がして、呆気に取られて帝の顔を見る。

「どうしたのだね? ずいぶんと驚いているようだが」

「いえ、あの……先ほど、その人のことを考えていたものですから……」

「ほう。それは不思議な縁だな」

 帝は右近内侍と顔を見合わせて笑った。

「実はね。私も皇后のことを思い出して、清少納言のことも懐かしんでいたのだよ。それで、この右近を遣わせて消息を訊ねてみたのだ」

「まぁ……」

「右近、宮に話して上げなさい」

「畏まりました」

 恭しく拝礼した後、右近内侍は二人の側に寄り、声を押し殺して話し始めた。

「少納言さんは摂津守せっつのかみ殿と結婚致しまして、夫君の任国にともに下るということでしたが、折良く出発前に会うことができたのでございます。それはもう、私のことを懐かしんで、主上の御伝言を泣きながら聞いておりました。それで、別れるときに是非にと頼まれたものがございまして……」

 そうして、ちらりと帝を見る。それを受けて帝は懐からなにやら取り出し、彰子に差し出した。白い陸奥紙の立て文である。

「これを……」

「主上へのお文ではございませんの? わたくしが見てもよろしいのですか?」

 帝は静かに微笑んで頷いてみせる。彰子は、受け取った立て文をじっと見つめた。紙の白さは失われていないが、どことなく古いもののようにも感じられる。不思議に思いながら包みを開いた。中には、細く畳まれた蘇芳の薄様があった。

「蘇芳……?」

 彰子にとっては強い印象の色である。はるか昔の思い出を、まざまざと目の前に見せつけられるような……。感慨深い想いで見つめているのを、帝が包み紙の方を黙って指し示した。裏になにか小さく書いてある。

「これは……」

 その短い書き付けを読んで、彰子は、目を丸くして帝を見上げた。

 ――わたくしの最も愛した友へ。あなたの判断で、しかるべきときに、これを紫の御方の許に――

 見覚えのある手蹟だった。あのうぐいす色の薄様にしたためられた遺詠と、同じ人の手によるものであることは間違いない。そして紫の御方とは、藤壺にいた自分であろうとも思われた。

『皇后様から、わたくしに……?』

 彰子は震える手で蘇芳の文を開いた。おそらくは、出産間近の弱り切った頃に書いたものなのであろう。あの遺詠と同じく筆の跡はかなり乱れ、しかも、ところどころ滲んでいる。泣きながら書いたものに違いない。

 ――貴女のご好意を頼って、このような文を差し上げるわたくしを、どうぞ哀れと思し召し下さい。わたくしに残された日も、もうわずかとなってしまいました。貴女がこれをご覧になるときが、いつのことになるかは存じません。ですが、そのときには、わたくしが露となり果てていることは間違いのないこと。今のわたくしに気懸かりはただ一つ。一の宮のことなのです。まだいわけない一の宮が母を喪って、どのように生きていかれるかと思うと、次の世でも迷ってしまいそうな心地が致します。姫宮ならば優しく陽が注ぐこともございましょうが、一の宮には吹く風も強うございましょう。わたくしには、もはやお守りすることもかないません。他にお頼りする方もございません。どうか、わたくしを哀れとお思いになって、宮の御行く末をお見守り下さい。このようなわたくしをお慕い下さった貴女なら、哀れな母心をお判りいただけるものと信じております――

 涙があふれてくる。とめどなく次から次へと。だが、彰子は、それを拭おうとはしなかった。滲んだ墨跡に涙が落ちて、さらに滲んでいく。

『なんということ……わたくしのような者に、このような……』

 自分を追いつめた側の人間に恥をしのんでまで願う母心が、ただただ哀れでならない。どれほどの想いの中でこれを書いたのかと思うと、それがたまらなく辛かった。

「宮……」

 帝が言葉を失って泣き続ける彰子の背を、優しく撫でる。彰子は涙を拭うのも忘れて哀願していた。

「主上。わたくしに母代を……宮様方の母代をお命じ下さいませ。お願いでございます」

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