終章 蘇芳の想い

 長保三(一〇〇一)年十一月、またもや内裏が炎上した。そのため、帝は中宮彰子をともなって一条院に遷御せんぎょし、ここを今内裏と定めて再び仮住まいに甘んじることとなった。

 さらに暮れも押し迫ってのこと、帝の生母であり、道長の協力者でもあった東三条院が世を去った。道長の悲嘆は凄まじく、帝もまた悲しみのうちに鈍色に包まれた。

 そして年が明けて長保四年となり、彰子は十五の年を迎えた。前年には凶事が重なったものの、それ以降には深いもの想いもなく、彰子にとっては物心ついて以来の平穏な日々であった。帝との〝兄〟と〝妹〟の仲も未だ健在で、子ができないことへの道長の焦りをよそに、彰子自身は心から満足していた。

「主上の御渡りでございます」

 その一言で、のんびりとしていた彰子の居所である東北の対は、一気に慌ただしさを帯びる。

「梅の薫りが、ずいぶんと強くなってきたね」

 帝は壺庭の紅梅を見やりながら、御簾内へと入ってきた。幼い一の宮の手を引いて――皇后定子の産んだ第一皇子は今年四歳。母后の死後、宮中の御匣殿の許に預けられることになって以来、帝は、時折り一の宮を連れて彰子のところへ来るようになっていた。

「さぁ、一の宮。母代の君に御挨拶なさい」

 父の言葉に、あどけない盛りの一の宮は、彰子の前で大人のするのを真似たような一人前の拝礼をする。実際の母代は定子の妹の御匣殿であったが、帝は彰子にも、母代わりと思って可愛がって欲しいと常々言っていた。

「宮様は本当にお利口でいらっしゃいますこと。さぁ、もっとお側へ。お顔をようく見せて下さいまし」

 にこにこと微笑む彰子に、一の宮は顔を輝かせて駆け寄ってきた。座所に上がって、ぴったりと彰子に身を寄せ、袖を握りしめる。本当に愛らしい。

 帝が言うには、面差しが亡き母に良く似ているとのこと。最近では、一の宮の顔を見るのが彰子の一番の楽しみとなっていた。

「そうだわ。一の宮様にお上げしようと、よけておいたお菓子。あれを持ってきて」

 女房に命じ、干菓子を包んだものを持ってこさせる。それを手渡すと、一の宮はさらに顔を輝かせた。

『このようにお育ちの御様子を、皇后様に見せて差し上げたかった。きっと、どんなにか御心残りで……』

 定子の忘れ形見と思うと、それだけで胸がいっぱいとなる。加えて、その愛らしさ美しさ。母のない一の宮が哀れなだけに、よけい可愛くて仕方がない。子を産んだどころか、まだ女としての目覚めすらないというのに、既に自分が母であるかのような錯覚さえ覚えていた。

 一の宮を連れてきたときには、帝も塗り籠へ入ろうとはしない。母屋の常の座所で、帝と彰子は一の宮を間に挟み、親子のように楽しいひとときを送った。

「あなたは本当に不思議な人だね。中宮としての厳かな重みは確かにあるけれども、小柄なせいか、初めて私の許に来たときと、まったく変わらない気がするよ」

 帝が、いつまでも少女のままの彰子をしげしげと見つめる。一の宮を間に挟み、彰子が母になったつもりでいるのに、幼い妹を見るような目をする。不思議といえば不思議な光景であった。


 うららかな春の日、桜は散り初めが美しい。そんな美しさを人々が愛でている頃、今内裏一条院では時ならぬ噂が立ち始めていた。殿上人は言うに及ばず、女房たちも、そこかしこに集まってはひそひそと囁き合う。

「御匣殿が……」

「あの御匣殿が……」

 内裏中の目が西の対へと注がれていた。そこは、今はほとんど里邸にこもりがちの、寵薄い女御たちの曹司に当てられている。その一角に、故皇后定子の妹御匣殿が二人の宮とともに暮らしていた。

「まさか……そんなこと……。だって御匣殿は……」

 彰子もまた、噂を耳にして色を失った。帝が子に会いに訪れるうち、その母代の御匣殿に通じてしまったというのである。熱愛した定子の面影を強く残す妹に心惹かれたものらしい。

『だって御匣殿は、まだ十五……』

 亡き定子を始めとする妃たちは揃って帝より年上。くらべやの女御だけは三歳ばかり年下であったが、乳母の子を恩寵によって入内させたために寵愛はまるでなく、ものの数には入らない。だからこそ、彰子にとって帝の〝妃〟というものは、はるか年上の女人という別世界にあったのである。

 それが今、〝妹〟である自分と同い年の姫を帝が女人として愛したという。この事実は、大きな衝撃となって彰子の心を襲った。蒼冷めて塗り籠に向かう女主人を、お付きの女房たちは心配げに見送る。

「いくら中宮様だって御平静ではいられないはずよ。皇后様がお亡くなりになって以来、帝の御寵愛は中宮様御一人のものだったのだもの……」

「どうなるのかしら……。もし帝が御匣殿に御心を傾けられて、中宮様をお忘れにでもなられたら……」

「なんてことを言うの? そんな縁起でもないことを」

 塗り籠の中の御帳台に籠もった彰子は半ば呆然と座り込み、考え込んでいた。

「主上は、わたくしを可愛い妹だと言って下さるわ。以前と少しもお変わりなく……。なのに、どうして……わたくしと同い年の御匣殿を女人として愛することがおできになるの……? わたくしには判らない……」

 八歳も年下であるが故に、自分は〝妹〟なのだと漠然と思ってきた。それが根底から崩れ去ろうとしている。どうして、そうなるのかが判らない。自分が帝にとってなんなのか。自分の存在ともいうべきものを見失いつつあった。

 皇后定子との比翼連理の仲を憧れの目で見、妻である他の女御たちのこともまるでよそごとのように感じていた。定子に対してほどではないものの、帝が、あの不肖出産をなした承香殿の女御を他より気にかけていることも知っている。だが、なにも感じたことはなかった。

 それと同じ立場を、御匣殿に対してだけはどうしても取ることができない。帝を兄と慕う気持ちには、なんら変わるところがないと言うのに。なんとなく、自分だけが置き去りにされたような気がしていた。


 彰子のもの想いは日増しに深くなっていった。我知らず焦っているのかもしれない。周囲のなにもかもが年を経るごとに変わりゆく。木や花、人の姿かたち、そして人の心。新しい邸でさえ、時の経つにつれ御簾の色は褪め、柱や長押なげしにはひびが入り、床は黒ずんでいく。

 その中で、あの十二の頃のまま、自分だけがまだ子供でいるような気がした。父も母も老けた。年配の女房たちには容色が衰えてきている者もいる。なにより一番近い存在であったはずの帝でさえもが、三年前とは別人のように変わっている。あの頃にはまだ少年のような線の細さがあった。それが今は、立派な青年――というよりもどこか老成して、帝としての風格がどっしりと身についてきているような感がある。

 その傍らで、やはり自分だけが幼い心のまま変わらずにいる。また、周りもそのように扱っているようなところがある。本来、夫であるべき帝でさえ。

 今まで彰子は自分の年齢というものを深く考えたことはなかった。このままずっと少女のままでいられるようにも思っていた。それが御匣殿のことで、自分もまた成長していくべき者だったことを知ったのである。

 兄と思っていた者が、自分と同じ年齢の者を大人の女人として扱う。そのことは、いつまでも子供の殻に閉じ籠ってはいられないのだということを思い知らせるに十分だった。

 ふと几帳の綻びから向こうを見ると、南簀の子に殿上人数人が来ていて、庇の女房たちと話しているのが目に入った。若い女房たちが妙に華やいでいるのが良く判る。女ばかりのときとは、どこかが違う。心がまだ青い彰子には、それがなぜなのか判るはずもない。だが、理由は判らずともなにかが違うことだけは、ようやくにして気づくところまで来ていた。

 また別の殿上人が来て、場の雰囲気が変わった。それを不思議に思いながらも、彰子は後ろの鏡台に目を向けた。

『わたくしは主上の仰せられたように、やはりなにも変わっていないのだろうか……』

 よく磨かれた銅鏡は、はっきりと彰子の顔を映し出す。曇りのない磨かれた玉のような美貌には、少しずつ変わりゆくものが確かにあるのだが、当の彰子には判らない。少々、頬の丸みが薄くなったかと思うだけだった。

「御匣殿が……!?」

 そんな声を聞いた気がして、はっと振り返る。既に殿上人の姿はなく、女房たちは膝を寄せ合って深刻に話し込んでいるようだった。

「なにかあったの?」

 声をかけた途端、室内は急にひっそりと静まった。誰も答えてくれる者がいない。不審に思って年配の女房を側に呼び寄せた。

「それが……御匣殿が里邸に退出されたらしいのです。その理由というのが……」

 どこか煮え切らない。困ったように目を反らすのを無理に話させた。

「どうも……ご懐妊のためではないかと……。殿上人たちの噂ではありますが……なんでも、兄君がご安産の祈祷を始められたらしいとかで」

 兄君とは、相も変わらず仏道三昧の日々を送っている、かつての道長の政敵伊周である。だが、彰子は、もう女房の言葉など聞いてはいなかった。

 懐妊――という短い言葉が耳の奥に木霊する。同じ年の女人が帝の愛を受けたことですら衝撃的な出来事であったのに、それが懐妊とは……。彰子は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。針で刺したような痛みが、やがて焼けてくすぶるように広がっていく。

 その彰子をよそに、また道長と伊周の対立が浮上することを人々は懼れ、囁き合っていた。

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