10
――同じ報せを彰子が聞いたのは、一刻ばかりも後のことであった。文の使いに出ていた女童が、慌てて戻ってきて訃報を伝えたのである。
「まさか、そんな……」
彰子は、それだけ呟くと声を失った。ざわめき始める女房たちの声さえ、その耳にはもう入らない。
『皇后様が……お亡くなりになった……?』
皇后崩御――その凶々しい言葉だけが虚ろとなった頭に木霊し続けた。無意識のうちに立ち上がり、雲を踏むようなおぼつかない足取りで塗り籠に入る。あれほど忌み嫌った獣形ですら、今は目に入らない。彰子は御帳台に入るなり、茵の上に倒れ込んだ。
「皇后様が亡くなられた……皇后様が……」
呪文のように何度もその言葉を繰り返した。やがて、何度も何度も呟くうちに、しだいに言葉は現実のものとなり、彰子の心に象られていく。虚ろな目に涙があふれ、嗚咽が慟哭へと変わる。涙はさらに次の涙を呼び、尽きることがない。
『皇后様……皇后様……』
茵に突っ伏し、髪を振り乱して号泣する。彰子にとって、生まれて初めての愛する者の死であった。
この日一日、彰子は食べることも眠ることも忘れ、塗り籠に閉じこもって涙が枯れるまで泣き続けた。
皇后定子の葬送は、崩御から十一日後の十二月二十七日と定められた。
崩御の日から数日、帝は自分の悲嘆を、周囲の者にはいっさい口にしなかった。だが、藤壺や、ましてや他の女御の元を訪ねることもなく、夜の御殿へも誰も召そうとはしない。
彰子は帝の悲傷の深さを思いやる。既に、あれから五日。一度も帝の顔を見ていない。見ていないだけに、よけいその悲しみの深さ大きさを思う。
彰子自身、定子の悲報を聞いてから、何日もの間を虚ろなままで過ごした。この頃になってようやく、帝の悲痛を思いやれるまでになったのである。だが、胸にぽっかりと空いた穴はあまりにも大きく、容易に塞がるものではなかった。
『皇后様は……最後に、なにを思われたのだろう……。御自身の悲運を嘆かれたのだろうか。それとも、悲運に追い込んだお父様をお怨みになったのだろうか。いいえ……きっと皇后様は、主上のことだけをお考えであられたはず……せめて……主上の御愛情の深さに幸せだったと思われたなら……どんなにか……』
会ったことも、いや、姿を目にしたことや声を聞いたことさえないはずの人が、帝を通して、それこそ比翼のように近い存在に感じられていた。おそらく、これほど離れた位置にいて、これほど定子を敬愛し、理解しようと努めた者は他にはいないはずである。
その女主人の想いをよそに藤壺には、崩御を喜ぶといったあからさまなものではないものの、どこか安堵したような空気が流れていた。帝の寵を最も受けた者がいなくなったことにより、中宮彰子の立場が、名実ともに安泰となることを歓迎しているのであろう。
それを肌で感じて浅ましく思い、彰子は一日のかなりの時間を塗り籠で過ごしていた。
『女房たちは、まだまし……。それだけ職務に忠実ということだもの。でも、お父様の場合は……』
悲報が都中を騒然とさせた日の夜遅く、道長は一人で藤壺にやってきた。塗り籠にこもっていた彰子は知らなかったが、そのときの様子は数日経って女房たちの噂話で知った。
それはもう浮き立つような足取りで、顔をつやつやと輝かせていたという。そして、ふと漏らした言葉――
「ようやく目の上の瘤が取れたわ。なんとも清々しい日よ」
もはや彰子には怒りという感情すら湧いてこなかった。父がそういう人間であることは、判りすぎるほど判っていた。それをさらに確認しただけのこと。今は、ただただ厭わしい。
だが、そんな道長とは違い、その道長におもねていたはずの者たちが思いの外、皇后の死を悼んでいた。定子とかつての後宮を思い忍び、三条の宮を弔問に訪れる者が跡を断たないという。都の人々も総じて皇后定子に同情的であった。
『その想いを御在世のときに示して差し上げていたら、どんなにか……御心丈夫であられたでしょうに……』
皮肉である。生きているときには、人々は皇后の存在を忘れようとさえしていた。それが今、死してのち、人々の心に返ってその存在が大きくなっていくというのは。
外で塗り籠の枢戸を叩く音がする。なにごとだろうと、不快に思いながら掛け金を外した。
「中宮様、主上のお召しにございます。お早く、お仕度下さりますよう」
女房の声はどこか弾んでいる。何日もの間、女人を寄せつけようとはしなかった帝がやっと、それも自分の女主人を宿直に召したということに、晴れがましい喜びを感じているのかもしれない。
彰子は戸惑った。おそらくは、心を同じくする彰子と亡き人のことを語り合い、ともに泣きたいという想いなのであろう。
『わたくしだって……御一緒にお泣きできたらどんなにか……。でも皇后様は、それをお喜びにはならないわ。比翼連理を誓われた御二人……きっと、帝御一人でお忍び下さりたいと思っておいでのはず……』
飛んで行って慰め、自分も慰められたい。その想いを必死に抑えようとした。彰子は一人御帳台へと入り、奥の厨子から硯筥を取り上げた。そして、自分の想いを率直に
――わたくしがともにお嘆きするより、誰のお慰めもなく、御一人でお忍びになられる方が、皇后様には一番の御手向けでございましょう。主上は皇后様の比翼の鳥であられるのですから。せめて御葬送が済むまでは、わたくしも一人で悲しみに耐えたいと存じます――
折り畳んで結び文にし、女房に手渡した。
「お召しを……お断りになるのでございますか?」
「良いの。主上はお判り下さるわ」
女房は不満の色を露わにしていた。
二十三日、皇后の亡骸を納めた棺は
そして二十四日、葬送の日。この日は朝から雪が降っていた。まるで、天が皇后の死を嘆くかのように――
夜遅く雪が降りしきる中を、
鳥辺野は京の南東にある山麓。桓武帝の遷都以来、諸人の葬所と定められた地である。その京を見下ろす景勝の地に、皇后定子の陵が営まれることになっていた。
人々は丘陵に築かれた
この夜、帝は眠ろうともせずに鳥辺野の方を見やりながら、呆然と座っていた。
「火葬ならば、立ち昇る煙を、それと思って忍ぶこともできようものを……」
哀しげに呟き、袖を濡らしていた。寒い夜のこと、涙に濡れた袖は冷たく凍りついていく。
――野辺までに心ばかりは通へども わが行幸とも知らずやあるらん――
比翼の鳥、連理の枝に捧げた哀傷の句であった。
この日から三日、廃朝が宣言される。国忌として人々は喪に服し、世は喪服の鈍色に染まった。
年が改まって正月を迎えても、世はまだ皇后への哀悼を引きずり、平年の華やかさはなかった。元日の
その淋しい正月のさなかでも、左大臣道長だけは意気盛んであった。帝に拝謁し、中宮彰子の許や東宮の許へも拝賀に出向き、精力的に動き回っている。
正月も半ばとなって、ようやく帝は藤壺を訪れた。
先触れを聞き、思わず彰子は緊張した。かれこれ一月ばかりも帝には会っていない。悲哀は、どのように帝の心に根ざしているのか。気力体力ともに衰えてしまったのではないか。それを考えると、帝の顔を見ることが怖ろしい想いにもかられてくる。
やがて帝は、からげられた御簾の下から、その姿を現した。妻の喪は三月。軽服と言われる青鈍色の衣を着る。まだ喪のさなか、帝の直衣は悲しみにくすんだ色をしていた。
「ずいぶんと長く会わずにいたものだね」
心が押し潰されそうな想いで薄鈍の色を見る彰子に、帝は常に変わらぬ微笑を浮かべる。いくらか面やつれはあり、目は暗く沈みがちとなるものの、思いの外しっかりしていた。
見つめるうちに涙が滲んでくる彰子を促し、ともに塗り籠に引き籠る。御帳台の中、二人は言葉すらなく、互いの顔を見つめて向き合っていた。なにも言わなくても心は通じているはずだった。長い長い間、なにも話さず、ただじっと見つめ合う。
帝がかすかに笑った。懐から小さく折り畳んだ薄様を取り出し、彰子に向ける。うぐいす色をしていた。帝のみに許される、麹塵の袍の色によく似ている。誰からかの文らしい。
それを受け取り、彰子は不審に思って見上げた。微笑んだまま頷くのを確かめてから、折り畳まれた文を開き見る。
――これが、最後の旅です。わたくしの亡きあと、かの御方の御目に止まらんことを祈って。
よもすがら契りしことを忘れずば
恋ひん涙の色ぞゆかしき
知る人もなき別れ路に今はとて
心細くも急ぎたつかな
煙とも雲ともならぬ身なりとも
草葉の露をそれと眺めよ――
彰子は、あふれ出る涙を抑えることはできなかった。名を示すものはどこにもない。だが、これが比翼の一方から、もう一方への最期の文であることは痛いほど判る。
「幾人もの手を経て、人目を憚り、密かに届けられたものだ。もはや、どこにも憚る必要などなかろうに……」
そう呟く帝の言葉は湿っていた。崩御の後も尚、周囲の人々は時の権力者の目を怖れている。しかも文の主までもが、それを危ぶんでもいる。その生前の境遇の悲惨さを想像してあまりあった。
「お生まれになった姫宮様は……?」
文を元のように折り畳み、そっと返しながら気になることを聞いてみた。薄幸な母の命を継いで生まれた皇女は、どんな人生を送るのだろう。母の顔すら知らずに育つ子が、ひたすら哀れに思える。
「かねてからの御希望どおり、母上がお引き取りになった。母上にとっては可愛い孫。母の命と引き替えに生まれた赤子を、不憫に思っても下されている。きっと大切に育てて下さることだろう」
「それはよろしゅうございました。では、上の宮様方は?」
「今はまだ三条の邸にいる。いずれ、宮中に引き取ろうと思っている。皇后の末の妹が御匣殿として宮中にいるのでね。
「そうですか……。その折には、わたくしともお引き合わせ下さいまし。皇后様には、とうとうお会いできませんでしたが……せめて、御忘れ形見の宮様方に……」
涙を拭い、せめてもの願いを告げる彰子に、帝は静かに微笑みを返す。
「私たちは大切な人を喪った者同士。互いの悲しみを思いやれるのは私たちだけだ。亡き人の想い出を胸に、二人でともに生きていこう……」
彰子は再びあふれ出た涙にむせびながら、何度も何度も頷いた。
彰子の入内の日から定子の崩じた年の暮れまで――追う者と追われる者、昇り行く朝日と沈み行く暮れの日が、同時に天に存在したかのような一年であった。
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