「今度お生まれの宮様はどちらでしょうね。主上は、皇子と皇女のどちらをお望みですの?」

「それは皇子であるに越したことはないが……私は、あの人が無事でさえあれば、どちらでも良いと思っている」

「そうですわね。女院様も、どちらでも良いから今度お生まれの御子は御自分がお引き取りして、お育てになりたいとおっしゃっていますとか」

「母上も、ようやくにして皇后と打ち解けて下さるようになられたよ。母上は故関白や伊周を厭うておいでだったからね」

 東三条院は末弟道長を可愛がり、幼い頃から親しくしていた。だが、長兄に対しては、あまり良い感情を抱いてはいなかったらしい。それに加え、可愛い弟を蔑ろにしようとした甥の伊周に露骨なほど腹を立ててもいた。そして、あの呪詛――よもや、それが捏造であろうとは思ってもいないに違いない。そして、兄や甥への不興は、そのまま定子に火の粉となって降りかかってしまったのである。

 父の陰謀など彰子には知る由もない。だが、自分には優しく、なにごとにつけ協力的な伯母が定子に対しては冷たいという噂は、幼い胸を密かに痛めさせていた。それが今、孫ができたことによって女院の怒りは解け、しだいに定子に好意的になってきている。彰子にとっては喜ばしい限りであった。もちろん、帝にとっても――


 十二月の半ば、出産を間近に控えた三条の宮は、しだいに慌ただしさを増していた。安産の修法を依頼しても、高位の僧や力のある僧は誰一人として集まらない。先の二度の出産の時と同じように皆が皆、左大臣道長の顔色を窺っているのである。

 ようやくにして駆り集めた僧は下位の者ばかり。仮にも皇后の出産だというのに、衰運を見越したような不遜な態度を取る。祈祷の最中に居眠りをしたり、心ここにあらずの上の空であったり、誰一人まじめに精を出して安産を祈ろうとはしなかった。そして、五段建てるはずの修法の壇も二段しか建てられない始末。

 ただ一つの救いは、日頃邸に立てこもって顔を見せない伊周や隆家、それに出家した末の弟隆円が詰めてくれていることだった。

 定子は邸内の慌ただしさをよそに、なにをする気にもなれず、一人御帳台に籠もっていた。今にも生まれてきそうな膨れきった腹を庇いながら茵に横になっていると、このまま自分が消え去っていくような、うら淋しい想いに襲われる。

『わたくしは……このお腹の御子を抱くことができるだろうか……』

 そっと腹に手をやると、衰えていく自分とは裏腹に、そこだけ力強い命の脈動が感じられる。

『この御子は、どんな人生を歩むのだろう……。そして、あの宮たちは……』

 閉じた目から熱いものが一筋、頬を伝う。その熱さが、いっそう自分を哀れにさせた。

『わたくしは、なにも遺してあげられない……。なにも遺せない。母を喪った宮たちは、どんなにか淋しい想いで生きていくことだろう……』

 父を喪ったときの慟哭、母を喪ったときの悲哀。それが、そのまま幼い子供たちの身に振り替えられる。なんの後ろ盾もなく、護るべき母の手を失い、この無常の闇の中でどうやって生きていくことができるだろう。

『姫宮ならば良い……。けれど、あの若宮は……』

 今上のただ一人の皇子。その行く手には道長の暗い怨念が立ち塞がることになろう。おそらく自分に加えられた以上のことが行われるに違いない。そう思うと、居ても立ってもいられない心地がする。

 ――藤壺は、あなたを慕っているよ。それに、あなたに酷い仕打ちをする父の左大臣を嫌っている――

 ふと、いつか帝から聞いた言葉が思い悩む心に過ぎった。自分が思い浮かべた、愛らしく好もしい藤壺の中宮の姿とともに。

 定子は這うようにして茵を出て、枕元の厨子にある硯筥すずりばこを降ろした。そして、最もふさわしいと思えた蘇芳の薄様を選んで筆を取った。

 体の衰えは手の力にまで及び、墨跡が苦しげに歪む。だが、それさえも構ってはいられなかった。定子は筆を置き、じっとそれを見つめた。見つめているうちに涙があふれ、美しい紙面に滴って染みを作る。

 やがて切ない溜め息をつくと、それを縦に細く折り畳んだ。そして筥から白い陸奥紙みちのくがみを出し、ひとこと書き付けてから鮮やかな薄様を押し包んだ。

『ああ……主上……もう一度、お会いしとうございます。比翼の鳥、連理の枝とお誓い下さったあなた……。わたくしが露と消えたときには、血の涙をお流し下さるのでしょうか……』

 定子は文を傍らに置き、顔を覆った。白く細い指の合間から涙が滴り落ちていく。しばし肩を震わせた後、涙に曇る目に自分がずっと使っていた枕が映った。濡れた手で筆を取り上げ、思わず枕の包み紙にすさび書きをした。

『ああ……煙となって消えるのは嫌……。主上のお治めになる、この国の大地に還るのならば……せめて、わたくしは救われようか……。煙となれば、ただ消えゆくだけ……主上のお側にはいられない。でも、土に還れば……主上のお側にいられるのかもしれない……』

 愛する人の目に触れることを願い、定子は、もう遠い昔となってしまった日にいつも見ていた、帝の麹塵きくじんほうの色――藍緑の薄様を手に取り、歌を書き付けた。それを細かく折り畳み、帳の飾り紐に結びつける。

『わたくしは、やはり幸せでした……。どんなに悲しい目に遭っても、どんなに苦しい想いをしても……わたくしには、ずっと変わらない主上の御心がございました……。わたくしは、その御心を抱いて土に還りましょう……』

 定子は袖で目元を拭って表情を引き締め、帳をわずかにからげて側にいた女房に命じた。

「少納言を――」

「はい、畏まりました」

 年配の女房は恭しく一礼すると、局の方へ下がっていく。やがて、ほどなくして帳越しに清少納言の声がした。

「お呼びでございましょうか」

「……お入りなさい」

 清少納言がおずおずと入ってくる。昨夜も出産の準備で遅くまで起きていたのであろう。呼び出しを受けて慌てて起き出してきたらしく、かもじを着け忘れている。

「あなたも、ずいぶん年を取ったわね……」

 かもじを添えていない髪はすっかり薄くなり、この如才のない女房も、既に時の盛りを越えていることをはっきりと見せつける。

「宮様にお仕えいたしまして、もう七年にもなりますもの。あの頃でさえ、さだ過ぎて人に交わるのが恥ずかしゅうございましたのに……そろそろ、老婆と間違えられるのではないかと」

「……自信家のあなたらしくもないことを」

「私は、自分の才は殿方に引けを取らぬと自負しておりますが、その、容貌のこととなりますと……」

 確かに定子がこの女房を愛したのは、容貌などには関わりなく、そのあり余る才能、知識、機知、そして自分に向けられる曇りなき純粋な思慕が故。どんなに逆境のときも不遇な生活の中でも、恨み言一つ言わずに黙って自分に仕えてくれていたのが、定子にとっての大きな支えだったのは間違いない。

『そう……わたくしを今まで支えてきてくれたのは、主上の御愛情だけではなかった……。この人もまた、わたくしの心を和ませ、支えてきてくれたのだ……』

 定子は先ほどの立て文を、そっと清少納言に手渡した。

「これは……? どなたへの御文でございましょう」

「それは……いずれ。しばらくの間、預かっていて。時がくるまで、決して開けてはなりません」

「時……いつまででございますか?」

 いつまで――それは定子にも判らない。明日かもしれないし、もっと先かもしれなかった。それを知るのは神仏のみ。定子の知るところではない。定子は全幅の信頼と友愛を込めて静かに微笑んだ。

「時がくれば……それがいつなのか、きっとあなたには判るはず。わたくしの心を誰よりも判ってくれているあなただもの……」


 十二月十五日。彰子は常に変わらぬ日を過ごしていた。変わったところといえば、今日は帝の訪れがないことぐらいのもの。昨夜は宿直に上がったため、昼近くまで寝て、いつものように中宮の格式に則った食事をし、その後は女房たちを相手にとりとめのない話をしていた。

 庇には何人かの若い殿上人が来ていて、女房となにやら話し込んでいる。だが、彰子にはまるで興味を持てず、その様子に僅かな関心を示してさえもいなかった。

 やがて殿上人は立ち去り、相手をしていた女房が彰子の側へ戻ってきた。なにやら怯えたような顔をしている。

「なにか特別なお話でもあったの?」

「はぁ、それが……ただ今、殿上ではただならぬ事態に騒然としているとかで……」

「ただならぬ……?」

 なにげなく尋ねた途端、彰子は、つい嫌なことを考えてしまった。まさか皇后定子の身になにかあったのでは――と。

「実は今朝方、不思議な天象があったらしいのです。月を挟むように、白い二筋の雲が山から山へと……」

「二筋の雲? それって、良くない兆しなの……?」

「はぁ。なんでもそれは〝不肖雲〟とか申しますもので、古くから后の身になにか良くないことが起こる兆しだと言い伝えられているらしいのです」

「后!?」

 彰子は顔から血の気が引くのを感じた。だが、周囲の女房は皇后のことではなく、彰子のことを心配したらしかった。

「まさか、そんな……」

「中宮様に、なにか起こると言うの!?」

「ち、違うわよ。殿上人たちは、女院様のことを御心配申し上げているらしいの」

 確かに東三条院はここ最近、病に伏しがちとなっており、道長も心配して霊験のある修験僧をかき集め、祈祷を間断なく行わせていた。

『女院様のことなのだろうか……。でも、もしや……』

 嫌な予感がする。だが、そう感じることこそ不吉な気がして、慌てて打ち払おうとした。彰子の頭には伯母のことなどはまったくなかった。皇后のことばかりが浮かび、打ち消しては浮かんでくる。

「主上が、お渡りでございます」

 途端に、それまで沈痛な空気の流れていた藤壺が一気に慌ただしくなった。やがて現れた帝こそが沈痛な顔をしている。帝は入ってくるなり、座ろうともせずに彰子の手を取って塗り籠へと引き入れた。

「女院様のお具合……お悪いのですか? なにか不吉な天象があったとか」

「いや……母上の御病状は、それほどではないらしい。私も天文博士から〝不肖雲〟のことを聞いて、すぐに急使を立てたのだが」

「そうですか。では……もしや……」

 彰子は唇が震えてくるのを感じた。相手の表情を一瞬たりとも見逃すまいと、瞬きすら忘れたように大きく目を見開く。帝は口には出したくないようだった。彰子も、二人の想いが同じであることを悟らざるを得ない。

「なにも……おっしゃらないで下さいまし。不吉なことは、なにも……」

 震える唇を必死で動かし、やっとそれだけ言うと、大きく見開いた目から涙がこぼれ落ちた。涙は不吉なもの。彰子は、はっと我に返って慌てて目を抑えた。

「大丈夫だ。私たちは比翼連理と誓い合った仲。その私を見捨てるはずがあるものか」

 帝は自分に言い聞かせるように、力強くそう言った。

『そうよ。わたくしの思い過ごし……。きっと春には可愛い御子様とご一緒に、この後宮へ戻ってこられるわ。そして、お父様に内緒で必ず会って戴くのよ。そのときには、わたくしの皇后様への想いを全部お話しして……お友達になって戴けるようお願いして……』


 「うしの刻、三条の宮において、姫宮様御誕生――」

 その報せが清涼殿昼の御座の帝の許へ届けられたのは、十六日の巳の刻であった。朝の御膳を食するため、御帳台の横の大床子へ移ろうとしたときのことである。帝は三条の宮からの使者と聞いて、庇の御簾を自ら跳ね上げ、簀の子縁まで飛び出した。

 だが、触穢しょくえに遠慮して東庭で立ったまま報告する使者の言葉が終わらぬうちに、その場に呆然と座り込んでしまった。

「――皇后の宮は、お後のものが滞りたる由にて、寅の刻……崩御なされました……」

 沈痛な面持ちの使者の顔も既に目に入ってはいないようだった。帝の目は宙を彷徨ってしまっている。目を大きく見開き、あらぬ彼方を見やったまま声にならない声で呟いた。

「そ……んな……馬鹿なことが……」

 陪膳の女官、内裏女房たち、蔵人など、周囲の者は皆、皇后崩御の報せに言葉を失っている。ようやく我に返った蔵人が帝の側に駆け寄った。

「主上、大丈夫でございますかっ!?」

 帝は、蔵人や駆けつけた殿上人らによって起き上がらされた。そのまま昼の御座に座らせようとするのを振り切り、なにも言わずに蒼い顔のまま、夜の御殿に閉じ籠ってしまった――

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