八月八日、帝は懐妊により退出中の皇后定子を、宮中行事を口実に呼び戻した。道長と言い争ったことで自信がついてのことか、帝は今までになく強引に参内を促した。当然、道長を憚ることもなく堂々と――

 三度目の懐妊を知ったときから心弱りしていた定子は、夏の暑さを経て体もだるく、どうしても気を使わなくてはならない参内を渋ったりもした。既に後宮には皇后定子の居場所はなく、中宮彰子の存在が日増しに大きくなってきている。帝から人となりや自分への思慕などを聞いていて、彰子本人への気兼ねはないとはいえ、やはり気が重かった。

 それでも帝の意志は固く、やはり二人の子の行く末に気がかりもあって、仕方なく参内することにしたのである。だが、当の彰子は帝の動きを知って不快になった道長に無理矢理退出させられ、今は内裏にはいなかった。

「会いたかった。気弱なことを言っていたから、ずっと心配していたのだよ」

 帝は定子を迎えるなり、夜も昼も寄り添って放そうとはしない。

「あまり気は進まなかったのですけれど……この折に、二人の宮のことをお願い申し上げたくて。まだ、その機会のあるうちに……」

「妙なことを言うのだね」

「今年は厄年……なぜか、行く末が不安でならないのです……」

「不吉なことを言うものではない!」

 顔を蒼冷めさせ、帝は定子に詰め寄る。定子は淋しく笑うことしかできなかった。そのはかない姿に、帝はさらに熱を込めてかき口説く。

「私たちは来世を誓いあった仲ではないか。天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝とならんと。よもや、この私を見捨てる気ではあるまいね」

『比翼の鳥……連理の枝……でも、わたくしには自信がない。ともに老いを重ねていくことに……』

 自分に残された時間が残り少なくなってきているのではないかという不安が、絶えず定子につきまとう。それだけ定子の気力も体力も、おそらくは帝が予想している以上に失われてしまっているのである。

『比翼連理の誓いが本当ならば、もし儚くなっても……主上の御心がいつまでもわたくしを忘れずにいて下さるのならば……わたくしは、きっと最後に幸せだったと想えることだろう』

 ただ漠然とした不安であったことが、いつしか現実のものとして定子の心に無意識のうちに認識され、享受されていった。

 もはや気懸かりなことは我が子二人のことだけとなっていた。それを託すため、定子は末の妹を呼び寄せることにした。

 故道隆の四の姫である定子の末の妹は、父の死後、後宮女官の御匣殿として宮仕えに出ている。まだ若く、十三になったばかりであった。

「お姉様、お久しぶりでございます」

「あなたも、お元気そうで……」

 若い御匣殿は、四人の姉妹の中で最も定子に似ている。すぐ下の妹は東宮妃として入内しており、内裏焼亡後は東宮に従って退出したため、この狭い一条院にはいない。また、その下の妹は少々奇矯な振る舞いの目立つ姫ではあったが、父の在世時に冷泉帝の第四皇子であるそちの宮敦道あつみち親王と結婚している。

 今このとき、定子が二人の子のことを託せるのは、宮中にいる御匣殿以外にはいなかった。

「わたくしの心残りは、姫宮と若宮……そして、あなたのこと。どうか、もしものことがあったときには……宮たちの母代わりとして、お世話をしてあげて戴きたいのです」

「もしもだなどと……」

 御匣殿は蒼冷めて、姉定子の顔を見つめた。そして、その手を取って涙ながらに訴える。

「どうして、そのような心細いことを仰せになりますの? しっかりなさって下さいまし。わたくしやお兄様たちには、お姉様だけが頼りなのですから……」

「ですから、もしもと。人の運命などはすべて神仏の御心によるもの。人が知ることはできません。なにが起こるか判らない運命だからこそ、もしものことを考えてお願いしているのですよ」

「でも……」

 定子は、まだ年若い妹を優しく見つめた。上の二人の妹は東宮と親王の妃になっており、頼るべき人がいる。この妹だけが、頼るべき父を亡くし、先の関白の娘でありながら宮仕えの身に甘んじているのである。それが哀れでならない。

『お兄様が、もっとしっかりしていてさえ下さったら……わたくしも、この姫も、心細い想いをすることはなかったろうに……。それでも、わたくしは今は不遇の身とはいえ、后の位にまで昇ることができた。それなのに、この姫は……。お父様が生きていて下さったらとまでは思わない。でも、お兄様の頼りがいのなさだけは口惜しい……』

 その兄伊周は残された一族を守ろうという気概もなく、在りし日の栄華を忍んで、それが再び我が手に戻ることだけを祈って、ひたすら仏道に心を傾けている。

『やはり道長殿とは器が違いすぎる。お父様がお隠れになったとき……既に、わたくしたちの運命は決まっていたのかもしれない』

 その頼りない兄を残して世を去ることは、さらなる悲運を、この妹に与えてしまうような気もしてくる。

『あなただけは幸せになってほしい。わたくしのような悲運に遭うことなく……』

 たとえ落ちぶれたとはいえ自分が生きている以上は、妹もある程度は宮中で尊重されよう。皇后たる自分が妹の支えであることに違いはなかった。もし自分がいなくなったとき、この妹はどうなるのか――だが、二人の宮の母代であったなら、帝の庇護を受けられるかもしれない。定子は、そんなことまで考えてしまっていた。


 十一月十一日は帝の本内裏還御の日であった。昨年六月に焼亡した内裏が、ようやくにして完成したのである。

 帝に伴って、新内裏へと移ることになった彰子は複雑な気持ちだった。入内してから一年近く、彰子にとっての内裏は一条院だったのである。その住み慣れた一条院を出てよそへ移るということが、なんとなくうら淋しい。

 百官の供奉の下、帝の輿が大勢のかき手によって一条院を出発する。彰子もまた輿に乗り、それに従った。里居がちだった弘徽殿の女御や、くらべやの女御も事前に参内してきて、二人の輿の後に車を連ねる。一条院は大内裏に隣接しており、その門に入るまでの距離はさほどではない。だが、各々の女房たちが競うように出し車で従い、華やかな行列は延々と続いた。

 大宮大路を挟んですぐ隣なのだが、彰子は大内裏に入るのは初めてであった。様々な官舎が整然と建ち並ぶ厳かな威容を、輿の帳の隙間からかいま見た。なにもかもが珍しい。

 夢中になっている内、官舎の隙間を縫って進む行列は、とうとう新造内裏へと到着した。以前に帝が約束した通り、彰子には飛香舎が直盧ちょくろとして与えられ、直ちにそこに入る手筈となっている。

 内裏の中の様々な殿舎を抜け、徒歩の女房を引き連れて輿は飛香舎を目指す。さすがに一条院などとは比べものにならない。貴族の邸宅ならば三町か四町ほどの敷地であろうか。広さから言えば、それほど驚くほどでもない。だが、内に建てられた殿舎の数々は、みごとという他はなかった。

『やはり、もともと臣下の邸だった一条院とでは比べものにならないわ。完成したばかりなのに、もう何十年とそこにあるような、この重々しい感じ……』

 内裏の北半分は女御后の住む後宮である。本内裏の後宮には十二の殿舎があった。常寧殿じょうねいでん貞観殿じょうがんでんを中心に、東に宣耀殿せんようでん麗景殿れいけんでん、さらに東に桐壺と呼ばれる淑景舎しげいさ、梨壺と呼ばれる昭陽舎しょうようしゃ。西には登花殿、弘徽殿、さらに西に雷鳴かんなりの壺と呼ばれる襲芳舎しほうしゃ、梅壺と呼ばれる凝花舎ぎょうかしゃ、そして藤壺の飛香舎があった。

 帝の住まう清涼殿には弘徽殿と藤壺が最も近い。十二の殿舎がそれぞれ渡殿でつながれ、清涼殿へと続いていた。もし最も遠い桐壺から清涼殿へ上がるとすれば、他の女御たちの目を気にしながら、あまたの殿舎の庇を通っていかなければならないことになる。

 亥の四刻、輿は周囲に巡らせた築地をまわり、打橋を外した渡殿の切馬道を抜けて藤壺の南庭へと到着した。確かに帝の言った通り、他の木々に混じって大きな藤棚がある。夏になって花が咲けば、みごとな眺めとなることだろう。

『楽しみだわ。きっと、どんなにか美しいことでしょうね』

 彰子は、輿に懸けられた帳と簾の合間から外を見やって、来年見られるであろう夏の光景を思い浮かべた。

 やがて輿は南簀の子縁の階に着く。女房たちが帳と簾をからげ、典侍に補された上臈女房の大納言が恭しく手を取って彰子を輿から降ろさせる。女房たちに護られながら、彰子は扇で顔を隠して静々と歩みつつ、自分の直盧となる藤壺をそっと窺った。

 篝火や吊り燈籠に照らし出された真新しい建物は、木の香も清々しく、檜の柱や床なども白く輝いている。からげられた御簾の向こうに南庇、そして母屋がある。五間二面の母屋は、西の二間が塗り籠となっていた。周囲に巡らされた御簾はすべて新調で、気持ちの良いほど青々としている。

 母屋の周りは四面に庇があり、北と東西に孫庇があって、東と南北の面には簀の子縁があった。また、この藤壺には西廓にしくるわと呼ばれる西端から南に突出した短い廓もあった。

 塗り籠の中には御帳台が立てられ、獣形や大床子が前と同じに配置されている。彰子は塗り籠の前に設えられた座所に着きながら、開け放した枢戸の中を覗き込んだ。

「やっぱり、あれ……あるのね」

「獅子形狛犬形でございますか? 本当に中宮様は、あれがお嫌いですのね」

 正装を解こうと唐衣や裳を外してくれていた女房の宰相は、いかにも嫌そうに溜め息をついている彰子に可笑しそうに言う。

 やがて、のんびりと落ち着く間もなく、帝から清涼殿へ上がるよう召し出された。女房たちに付き従われ、渡殿を渡る間も周囲が珍しく、ついちらちらと見てしまう。どこもかしこも新しく、清々しかった。

 一条院の清涼殿代とは違い、本当の清涼殿には上の御局が二つある。東に弘徽殿の上の御局、そして帝の常の御座所である萩の戸を挟んで、西に藤壺の上の御局があった。

 上の御局から夜の御殿に入ると、中に燈台を灯した御帳台では帝が楽しそうに出迎えてくれた。ようやくにして仮住まいを脱し、本拠に戻ったことで気分が良いのであろう。

「どうかね、藤壺は?」

「はい。やはり新しい建物というのはよろしゅうございますね。なにもかも清々しくて、心が洗われるような気がいたしますわ。藤棚も立派で、花の咲くのが楽しみです」

「じゃあ、来年になって花が咲いたら、藤壺で藤の宴を開こう」

 どこまでも上機嫌である。彰子もつられて声が弾んでいた。灯りを傍らに置き、向かい合って座ったまま、二人は新造内裏の感想を話し合う。

「そういえば、皇后様はいかがですか? 御文を差し上げていらっしゃるのでしょう?」

「ああ。腹もかなり膨れてきているようだ。夏頃はずいぶん辛かったらしいが、涼しくなってからは落ち着いてきているようだよ」

「そうですの。ご出産は十二月の半ばでいらっしゃいましたわね。……では、来年の春頃までには、こちらへお移りになられますわよね」

「そうだね」

 帝が嬉しそうに微笑む。彰子は顔を輝かせて身を乗り出した。

「今度こそ、お会いさせて下さいましね。若宮様方にも」

「そうしよう。左大臣に見つからないよう、こっそりとね」

 その悪戯っぽい笑みが可笑しくて、彰子は思わず声を立てて笑っていた。

「お約束でございますよ。お破りになられたら、わたくし……お怨みいたしますわ」

「おお、恐い。可愛い妹に怨まれたら大変だ。是非とも二人を会わせる算段を練らなくては」

 顔を見合わせ、同時に吹き出す。彰子には、二人で心を一つにして笑い合っているこのときが、なによりも代えがたい宝物のように思えた。

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