今内裏に到着したのは酉の刻であった。遅い刻限だったがために遠慮したのか、帝から宿直を命じられることはなかった。

 翌朝、辰の終わり頃に、彰子はようやく目を覚ました。慣れぬ輿で気疲れしたせいか、東北の対に着いて御帳台に入った途端にぐっすりと眠り込み、この時刻になるまで目は覚めなかったのである。

 目覚めから始まる一日は、女御として内裏にいたときとまるで違っていた。洗顔、食事と、すべてが格式に則って行われる。土御門殿でも立后後はすべてが中宮の格式で行われていたが、内裏での生活がこうも変わってしまったことを思うと、やはりどうにも居心地が悪い。

 火焚き屋も東北の対の北庭に移され、立后時に下賜された調度類もすべて運び込まれている。もちろん、あの獣形も――

『なんだか変な感じ……わたくし自身は少しも変わっていないのに、周りばかりが変わっていくなんて……』

 彰子は、せめて帝との心の交流だけは変わりのないことを確かめたいと、ひたすらその到来を待った。だが、いつもならば、夜が明けるのを待ち望んでいたかのように訪ねてきていたのが、昼近くになってもその気配すらない。

『主上は皇后様にお会いになられて、わたくしのことなど、お忘れになってしまったのかしら……』

 急に悲しみがこみ上げてきた。もし帝に見捨てられでもしたら、他に自分の心の内を打ち明けられる者は誰一人いないのである。

 女房たちと話をしていても、物語を読ませたりしても心ここにあらず。まったく気持ちは晴れてこない。彰子は脇息に頬杖を突いて、何度も何度も溜め息をついた。

「中宮様?」

 心の内に閉じ籠っていて、女房に呼ばれたのも気づかなかった。衣の裾をかすかに引かれて、ようやく気がついた。

「あ……なぁに?」

「主上が、お渡りになられますが」

「主上が!?」

 それまで溜め息ばかりついていたのが、帝の来訪と聞いた途端、顔を輝かせる彰子に女房は苦笑した。

「やぁ、久しぶりだったね」

 現れた帝は、二月前とまったく変わらず、ひたすら優しい目を向けてくる。最後に会ったときと違って、衣が夏のものに変わっていることだけが唯一違う点であった。

「主上……」

「もっと早く来たかったのだが、今日は灌仏会かんぶつえがあったのでね。いろいろと忙しさに紛れてしまって」

 そう言いながら帝は、彰子の姿をしげしげと見つめている。

「やはり尊い位に上がると、どこか変わるものだね。以前は愛らしいばかりだったのに、なんとなく畏れ多いものが加わったようだ」

「そうでしょうか。わたくし、入内の頃からなにも変わってはいないと思うのですけれど」

「いいや。初めて会った頃から見たら、驚くほど大人びてきているよ」

 彰子は早く二人きりで隔てのない話がしたくて、隣に座る帝の袖をそっと引いた。その意味するところが判ったらしく、帝はにっこりと微笑んだ。

「あちらへ行って、ゆっくり話をしよう」

 言うなり彰子の手を取って立ち上がる。渡ってきてから、さほどの時間も経っていない。女房たちは可笑しげに密やかな笑みを浮かべ、顔を見合わせて囁き合う。

「まだ十三でいられるから、お早すぎるのではとご案じしていたけれど……」

「ええ。この分では、殿のお望みも早いうちにお叶いになるかもしれないわねぇ」

 塗り籠に籠るなり、彰子は幼子がするように帝の腕にしがみついた。

「わたくし、早く主上にお会いしたくて……」

「私も、あなたがいなくて淋しかったよ」

「本当でございますか?」

 顔を輝かせるのを愛おしげに見つめてから、帝は塗り籠の中を見回した。

「ここも新しい室礼になったのだね」

 今まで塗り籠の外に立てられていた御帳台が中へと移されている。帝の寝所に倣ってのことで、この塗り籠は、いわば中宮の夜の御殿ということになる。帝は、それを感慨深げに見つめていた。

「わたくし……この獣形は嫌いなのです。どうして、こんな怖ろしげなものを御下賜になりましたの? 取り払わせてはいけませんか?」

「おやおや。私の妹君は困った我が儘を言うのだね」

「これを嫌がるのは我が儘なのですか? 誰だって、この怖ろしげな姿は嫌うはずですのに」

 獅子形をちらりと見て、露骨に嫌な顔をするのが可笑しかったらしい。帝は口元を抑えて笑いをこらえている。

「酷いわ、お笑いになるなんて……」

 拗ねて横を向いたのを見るうちに、とうとう帝は吹き出した。彰子は少々むっとして口を尖らせる。仕方ないといった風に肩をすくめ、まだ笑いの残る顔で帝は幼子に言い含めるように言った。

「あなたは中宮になったのだから、獅子形と狛犬形を置くのは決まりごとなのだよ」

「中宮……」

 帝の口から自分に向けて、〝中宮〟という言葉が出るのが不思議であった。この言葉は自分ではなく、今は皇后となってしまった定子のものだったはずなのに。御帳台に入ってから彰子は、ずっと抱き続けてきた不満を一気に吐き出した。

「わたくし……今度のことは、どうしても納得できませんでした。なぜ、このような理不尽なことを主上がお認めになったのか……」

「立后のこと……か」

「そうですわ。お一人の帝に二人の后なんて……そんなおかしなこと……」

 言ってしまってから、帝の顔が沈痛に歪んでいることに気がついた。眉をひそめて暗い色を瞳にたたえ、口を固く引き結んで――

「やはり……父がいけないのですね。父は自分の栄華のためになら、どんなことでもする人ですもの。たとえ神仏に背こうと、なんでも自分の思い通りにしてしまう……。父は、鬼ですわ。きっと、人の心など持ってはいないのです」

 彰子は泣き出していた。この二月というもの、胸に溜め込んできたものが一気にあふれ出してしまっていた。帝は、そんな彰子を抱き寄せ、労るように撫でさすってくれる。

「……筋は通っていたのだ。私がどんなに認めずとも、皇后は世の人々からは尼と思われている。三后ともに尼、大原野の祀りを司る者がいないとなれば……」

「でも……でも……皇后様がお気の毒です……」

「あの人は判ってくれているよ。あなたのことも決して怨んではいない。私は、あなたがどういう人かを皇后に話して聞かせた」

「わたくしのことを……?」

 涙に濡れた顔をはっと上げ、彰子は帝の顔を見つめた。

「皇后様は……わたくしのこと、なにかおっしゃっておいででした?」

「ああ。とても喜んでいたよ、あなたが慕ってくれていることを。会ってみたいとも言っていた」

「本当ですの?」

 帝は微笑みながら頷く。身を起こして、彰子は涙を拭った。嬉しかった。皇后が自分の想いを判ってくれた。その嬉しさに、拭った目元がまた濡れてきてしまう。

 この二月の間、皇后定子が内裏でどんな風に過ごしたかを聞かせてもらった。一つ一つの話を、はやる想いを抑えてじっと耳を傾ける。定子の姿形から、その折々の言葉、お付き女房の様子。そして可愛い姫宮と若宮のこと――

「わたくし……期待しておりましたのに」

「なにをだね?」

「もしかしたら、こっそり皇后様とお引き合わせ下さるのではないかと……」

 少々怨みがましい想いで上目遣いに睨む。帝は困ったように笑っている。だが、どこか含んだ笑いであった。

「どうか致しました?」

「いや……実は、私もそうしてあげようと思っていたのだよ。ところが残念なことに、内裏にいられない理由ができてしまってね」

「どういうことでしょう?」

「うむ。また……懐妊してしまったのだ」

「えっ!?」

 彰子は予想だにしていなかったことに、思わず呆気に取られてしまった。

「懐妊って……御子がおできになったということですわよね」

 呟きながら、しだいに言葉の意味が自分の中で明確になっていく。それにつれて、そこはかとない感動がこみ上げてきた。彰子は、身を乗り出すようにして帝の手を取った。

「素敵……素晴らしいですわ! 主上と皇后様には、前世からの強い宿縁があられるのですわ。他にも古くからお仕えしている女御が何人もいて、誰も御子をお産みすることができないでいますのに。それを皇后様は三人も……こんな素晴らしい御仲は、きっといにしえにも例のないことですわ」

「そうかもしれないね。私も、また離れねばならないのが淋しくある一方、皇后との結びつきが深くなるのを喜んでいるのだが……」

 帝は彰子の手を握り返し、弄びながら遠い目をした。また離ればなれとなってしまった最愛の恋人に、想いを馳せているのだろうか。その瞳は淋しげとも、どこか不安げとも見てとれる。

「主上……?」

「あ、いや……皇后がね、今度の懐妊を悔やんで懼れているのだよ」

 よく判らなかった。帝の妃にとって子を産むことは一家の繁栄を意味する。もちろん彰子は、それ自体を幸せとは考えていない。だが、最愛の恋人の子を産むことが女にとっての無上の幸せであることは、幼いながらにも判っていた。それをなぜ皇后は厭うのだろう。疑問の解明を求めて帝を見つめた。

「あの人は、今年で二十五なのだよ」

「あ……!」

 二十五と言えば女の厄年である。その年に一大難事である出産を行うことは、確かに怖ろしいことであるかもしれない。

「ただでさえ慎まなければならぬ年なのにと恨めしげに言っていた。私は、あんな風に心細いことを言う皇后を初めて見たような気がするよ……」

「きっと長い間の気苦労があられて……それで……」

 慰めようと言ってはみたものの、その気苦労をさせたのは他ならぬ自分と父なのだと思うと、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。それ以上の言葉を続けることができず、目を落としてしまった彰子に、帝は労るように微笑みかけ、愛おしげに頭を撫でてくれた。


 道長は数日前、かつてないほどの不機嫌さで帰ってきて以来、出仕しようともせず、ずっと土御門殿の西の対に引き籠っていた。

 西北の対では妻倫子がいて、人が多くて煩わしいからと西の対に一人で移り、ときおり女房を怒鳴りつけ、扇を床に打ちつけては八つ当たりし、漫然と日を送っているのである。

 主人の世話をする女房たちも、その剣幕を怖れ、隠れるようにして離れたところから様子を窺っていた。

「面白くもない!!」

 吐き捨てるように言うと一気に酒杯をあおる。そうしては、飲み干した盃を柱に叩きつけたりもした。

「あのような若造に、政のなんたるかなど判ってたまるか!」

 若造――とは神聖にして不可侵の天孫、帝に対して言っている。数日前の議定の座で、道長は些細なことで帝と対立したのであった。

 今までならば、政の面では不満や不快の色を見せながらも結局は折れ、帝が道長の意に公然と逆らうことはなかった。それが――やはり皇后定子の三度目の懐妊で気強くなっているのかもしれない。

 もし皇后腹に二人目の皇子ができれば、今まで道長の思うように任せていた世も今度こそ皇后方に流れるであろう。いくら立后していても、道長の娘にはまだまだ子はできそうもない。万が一、帝が道長を疎外するために譲位という強硬手段を取ったなら、今まで打った布石は間違いなく水泡と化してしまうのであった。

 今上帝が譲位すれば、現東宮が新帝として即位する。そして、その空いた東宮位には譲位した帝の皇子が就くのが慣しである。皇后腹の皇子しかいない今、また、現東宮に配すべき娘が育っていない今、そのようなことが起きれば道長は権力の拠り所を失い、他の勢力に盛り返されるのは必定であった。

「ええいっ!! 中宮はなにをしておるのだっ」

 道長の激情は、まだ年端もいかない彰子にまで八つ当たりのように向けられていた。

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