6
三月も末近くとなったが、彰子は未だ土御門殿にあった。立后して一月以上も経ったが、その環境の違いには、そう簡単に慣れるものではない。
彰子の御所となった寝殿前庭の中宮警固の火焚き屋に侍う衛士の姿も、まるで閉じこめられているような気がして、ただ煩わしいとしか思えない。ただでさえ自由のない自分が憐れでならないというのに、食事も就寝もなにもかもが格式に縛られてしまって、息苦しくてたまらなかった。
女房たちは皆、あれこれと言って環境の変化を面白がっているが、そんな姿もつい冷ややかに見てしまう。なにより嫌なのは、寝所である御帳台に入るとき必ず目に入る例の獣形だった。何度見てもその顔は怖ろしく、見る度に身の毛がよだってくる。
里邸での生活は彰子にとって、ただただ苦痛であった。ここには心を分けられる者がいない。優しい〝兄〟の姿がない。それが悲しく、たとえようもなく辛かった。
「早く内裏に帰りたい……」
無意識のうちに、そう呟いてしまっていた。それを聞きつけ、側に侍る女房が可笑しそうに言う。
「嫌でございますわ、中宮様。お帰りになりたいだなんて……ここは中宮様がお生まれになり、お育ちになられた御里でございますのに」
「だって、内裏の方が落ち着くのだもの……」
「まぁ。よほど主上のお側が恋しゅうございますのね」
「そうよ。主上のお側が恋しいわ。いけない?」
「ま、いけないだなんて……とてもよろしいことでございますわ。その御様子ならば御子がお生まれになるのも、そう遠いことではございませんでしょうね」
女房たちは、いや都の誰もが帝と彰子を仲睦まじい夫婦と見ている。それが形だけのことで、実質は〝兄〟と〝妹〟であることなど誰一人として思ってもみないであろう。
「御子……ね。そういえば、中宮様……いえ皇后様は、どうしておられるのかしら」
「は……? 中宮様のお立場では、お気になさるのも御無理はございませんが、そんな必要はまったくございませんわ。主上もまめに御文を下されて、中宮様の御事を細やかにお気遣い下されていらっしゃるのですから」
どうしてこうも気持ちの通じ合わない相手ばかりなのだろう。自分が夫を争う気持ちで嫉妬しているとでも思うのだろうか。彰子は今さらながらに、誰も理解者がいない周辺を苦々しく思った。
「それに、皇后様は近く御退出なされる御予定とか。中宮様が還御なされる頃には、もう皇后様はいらっしゃいませんわ。ですから、御安心下さいまし」
「もう退出なさるの!?」
「ええ。なんでも二、三日のうちにとか」
「そう……」
彰子は女房から顔を背け、疲れ果てたように脇息に突っ伏した。
『主上は、わたくしの皇后様への想いをご存じでいられるから……もしかしたら、こっそりお引き合わせ下さるんじゃないかと思っていたのに……。つまらないわ、皇子様にもお会いしてみたかったのに……』
密かに楽しみにしていた機会が脆くも消え去ってしまったことに、すっかり気持ちが打ち沈んでしまっていた。
三月二十七日、皇后定子は里邸へと退出し、入れ替わるように四月七日、彰子は懐かしい今内裏へと戻ることになった。入内や前回の退出のときとは違い、なにもかもが中宮の格式に則って行われる初めての参内であった。
晴れのこの日を、道長は左大臣家の総力を挙げて、あらゆる先例を凌ぐほどに華々しく彩った。后ともなれば正式な行啓は輿を使用する。輿は帝と后のみに許される乗り物で、臣下が使うことは絶対に許されない。それをわざわざ新調させて、この日に備えたのであった。
彰子の衣裳はもちろんのこと、女房たちの衣裳にまであれこれと気を使う。また供奉の公卿殿上人も、中宮の威儀にふさわしいだけ駆り集めた。
だが、道長の有頂天な気分とは裏腹に、この日は朝からあいにくの雨であった。
「まぁ、せっかくの晴れの日だというのに……」
女房たちは天候を怨みながら、時折り妻戸から庇に出ては空の色を窺う。雨はしだいに勢いを増し、昼を過ぎた頃には暴風雨となっていた。その上、暗天が一瞬きらめいたかと思うと雷までもが鳴り出した。
女ばかりの寝殿は時ならぬ雷鳴に悲鳴が上がって、大騒ぎとなった。誰もがおののき、打ち震え、身を寄せ合ってうずくまる。彰子もまた、塗り籠の御帳台の中に籠もって耳を覆い、恐怖に縮む体を乳母に押しつけていた。
南庭の火焚き屋では
都の空が暮れかかる頃、あれほど荒れていた雷雨もようやくなりをひそめ、わずかな小雨を残すのみとなった。それまで泣き喚いていた女たちも、なんとか平静を取り戻してきている。
「中宮様、もう雷は止んだようでございますよ。さぁ、お起きになって下さいまし」
乳母に背をさすられ、ずっと耳を覆っていた彰子はおそるおそる顔を上げた。
「本当……? もう鳴ったりしない?」
「ええ、大丈夫でございますよ。雨音もずいぶん小さくなりましたし」
耳を澄ませてみると、確かに先ほどまでのもの凄かった雨音が小さくなっている。雷も鳴る気配はない。ようやくにして彰子は安堵の溜め息をついた。
「良かった……。菅原道真公が雷神となって雷を落としたときのように、邸に雷が落ちたらどうしようかと思ったわ」
「まぁ。中宮様ったら、なにをおっしゃるかと思えば。菅公の雷は怨む相手に落とされたのでございますよ。なんで、中宮様のおられる御邸に雷などが落ちましょうか」
怨念の対象に雷が落ちるのなら、よけいにこの土御門殿は標的とされるはずである。父道長を怨む者は数知れない。父は、それだけのことをしてきているのだから――彰子は、そう思わずにはいられなかった。
『雷を落とされたのは道真公を陥れた政敵だったとか。人に仇をなせば、きっと仇は大きくなって返ってくる……。お父様にも、いつか天罰が下るのではないだろうか……』
いかに嫌いな父と言っても実の父である。本気で憎いわけではない。だからこそ、そのようなことにならないうちに早く悔い改めて欲しい。それが今、あの父に託せるたった一つの願いであった。
やがて夜の帳が降りる頃には、雨はすっかり上がっていた。
「行啓は予定通りですって」
「そう。じゃあ、戌の刻にはお仕度を終わらせていなければならないわね」
彰子の参内は深夜亥の刻と決められている。女房たちは安堵の様子を見せ、慌ただしく仕度に取りかかる。
「宮、大丈夫でしたかな? ずいぶんと怖い想いをなされたのではありますまいか」
道長が寝殿を訪ねてきて、心配げに彰子の顔を覗き込んだ。
「宮は幼い頃から雷をそれはそれは怖れていられたから、私も御心配申し上げていたのですよ。だが、西北の対でも上や女房たちが大騒ぎしていて、私を離してはくれませんでな。心細い想いをおさせして、申し訳ないことをしてしまいました」
「大丈夫ですわ。乳母がずっと付いていてくれましたし。雷は、どこにも落ちなかったのですか?」
「我が邸ならば大丈夫。尊い宮の御在所ですからな。雷神だとて避けて通るというもの」
高笑いした後で道長は、急に神妙な顔を作って続ける。
「だが……大内裏の
「まぁ……なんて怖ろしい。それで……今内裏は? 主上のお側にはなにごとも?」
「今内裏の方はなにごとも。主上も、もちろん御無事とのこと。造営中の内裏の方にも被害はなかったようですな」
「そうですの。よろしゅうございましたわ」
ほっとした。もし今内裏に雷が落ち、帝の身にもしものことがあったらと思うと考えるだに怖ろしい。その安堵の色を見て取ったようで、道長は満足げに笑った。
「よほど主上が恋しいと見えますな。これは良い傾向。その調子で、早く皇子をお産み下されよ」
子を産んでではなく皇子を産んでと言うところが、いかにも道長らしい。
『皇后様に皇子がお生まれになって、お父様は焦っておられるのではないかしら……。でも、わたくしに御子ができるはずはないもの。こればかりは、お父様の思惑どおりにはいかないわ』
やがて定められた刻限がきた。既に仕度も整い、あとは輿に乗り込むだけであった。行啓とあって正式に髪上げがなされ、慣れないせいで、どうしても息苦しく感じてしまう正装をさせられている。だが、
仕度を終えて集まってきた女房たちが、いつもとはまるで違って見えた。これまで自由に衣を選んでいられたのが、中宮付きとなって身分に応じた装いをしなければならなくなったからであった。
赤や紫は
これまで美しいと思っていた者が平絹の無紋の衣で冴えないなりをしているのに対し、容貌では劣っていたはずの者が、上等の衣を身に着けているせいで美しくさえ見えてくる。
衣で飾るということはこういうことなのかと、彰子は興味深く、また不思議にも思った。生まれたときから華美贅沢に慣れ、禁色や二陪織物すら当然の身分の者には、それが許されないことなど想像もつかなかったのは無理もない。
「さぁ、お出ましを」
女房に促され、彰子は寝殿の階隠しに寄せられた輿に向かった。庭には篝火が数多く立てられ、庇には、たくさんの吊り燈籠に火が灯っていた。その灯りに照らされて、后用の輿である
「さすがに御輿ともなると、畏れ多いほどの素晴らしさですわねぇ……」
「これほどの栄えがありましょうか……」
そう、これこそが中宮の格式であった。臣下に許されないものも皇族になった者には許される。だが、帝の后どころか妃であるという自覚すらない彰子にとって、その〝皇族だけに許されるもの〟に自分が乗ることは、あまりにも奇妙なことのような気がした。
彰子を乗せた葱花輦は、群れ集った公卿殿上人の騎馬での前駆いの後、女房たちの華々しい出し車を延々と従えて土御門殿を出発した。
昼間の暴風雨で、大路のあちらこちらに大きな水たまりができている。それにも関わらず、また深夜であることすら構わずに、大路という大路には見物の車や人が満ちあふれていた。この当世第一の見ものに、雨も風も構ってはいられなかったのであろう。遠方からわざわざ来たらしい者もかなり目に付き、入内のときよりも、その数ははるかに多かった。
この参内によって、左大臣藤原道長家の栄華は都中あますところなく知らしめられた。だが、そんな人々の視線が、紫の帳をおろした輿に熱いほど集中していることなど、他のことで頭がいっぱいの彰子には気づくはずもなかった。
『皇后様も、こんな風に御輿にお乗りだったのだろうか……』
彰子は葱花輦に乗る皇后の姿を思い描き、深い溜め息をついた。
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