とりの刻。夜の帳が降りた頃になって、除目じもくを終えた公卿らが続々と土御門殿に集まってきた。寝殿の前庭に並んで慶賀の拝礼を行った後、東の対に設けられた宴席へと移る。彰子付きの女房たちは、寝殿の東庇の御簾からいだぎぬをして饗宴に花を添えていた。庭の篝火や吊り燈籠の火が華やかな衣を照らし出し、幻想のような美しさを見せる。

 酒肴を楽しんだ公卿殿上人らは泉渡殿や寝殿の南簀の子縁に座を移し、管弦にうち興じた。若く美しい女房たちが話し相手を務め、場はひたすら盛り上がる。

 奏楽は当代一流の名人と言われる殿上人らが担当し、皆うち揃って催馬楽さいばらを口ずさむ。どの顔も酒に酔って輝き、陽気で晴れやかな気分を露わにしている。

 同じ頃、宮中からは蔵人が御調度みちょうどの使となって、立后にあたって下賜される調度類を運ばせてきていた。中宮職の官人が西中門でこれを受け取り、寝殿へと運び込む。東の塗り籠に、蔵人の指図で次々と調度が設えられていった。

 新しい御帳台、その前には獅子形狛犬形一基ずつ。その正面に御椅子一基、左に大床子だいしょうじ二基。そして柳筥やないばこに入れた挿鞋そうかい一足。いずれも、后としての威儀を正すためのものであった。

 反対側の西の塗り籠では、彰子が二重の御簾の向こうの宴を、半ば白けながらぼうっと見ていた。側近くに侍る女房たちは、日頃は落ち着きのある者でさえ妙に浮き立ってしまっている。

「あの方の声、素敵ね」

「そうかしら。これの前の『安名尊あなとうと』を誦した中納言の君のお声の方が良かったわ。あの方は、お顔も美しいし……」

「いいえ、あの和琴を弾いている公達の方が美しいわ」

 競争するように別々の殿上人を褒め上げているところをみると、その女房たちの通い人なのかもしれない。御簾の向こうで陪膳に務めている女房たちは、もっと華やぎを露わにしており、耳障りなほどの嬌笑が響いてくる。邸内の誰も彼もが、左大臣家の一世一代の大盛事に浮かれきっていた。

 その喜びの日の主役であるはずの彰子は、自分だけが場に溶けこめない違和感と、一人として心を通わせられる者がいない孤独な疎外感を感じていた。誰も彼もが父道長の顔色を窺って、権勢に媚びへつらい、その手先となっている。そう思うと、目の前のすべてに嫌悪が感じられた。

『主上……やはり主上のお側だけです。わたくしが、心安まることが出来るのは……。主上御一人だけが、本当のわたくしを理解して下さるのです。どんなに人がいても……わたくしを理解しようとする者は、ここには誰もおりません』

 孤独だった。わずか十三歳の経験浅い身に、この吹き抜けるような冷たい孤独。彰子の支えは、今や心を同じくする帝ただ一人であった。

 目を向けた先では、最大の嫌悪の対象である父道長が大いに飲み、大いに興じている。ときおり聞こえてくる得意げなけたたましい笑い声。彰子は思わず顔を背けて耳を覆っていた。

 そろそろ子の刻になろうかという頃、册命さくみょうの勅使が土御門殿を訪れた。彰子が正式に立后された由を公式に伝えるためである。これを中宮識の高官が出迎え、南簀の子縁に請じ入れた。勅旨が伝えられると、畏まって聞いていた人々の間から歓声が湧き上がった。

 やがて始まる儀式を前に、彰子は白装束に着替えさせられていた。産屋で着るような質素なものではない。表着も唐衣も二陪織物、裳も羅を使った上等の衣である。

 朝廷から儀式のために遣わされた後宮女官の典侍が、彰子の髪を結い上げ、釵子さいしを飾る。なにもかもがしきたり通りに行われていく。

「后の宮、典礼の次第はお覚えになられましたか?」

 彰子は頷きながらも、感慨に耽らざるを得なかった。后の宮という言葉が、自分が本当に后となってしまったことを容赦なく知らしめる。

『わたくしにとって、〝后の宮〟は中宮様お一人だったのに……』

 その定子は、もはや中宮ではなく、皇后という呼称に変わっている。長年、中宮という呼称で慕い続けてきた想いが、肩すかしをくらったような切ない感覚がこみ上げてくる。

 典侍の案内で、彰子は北側の障子から北庇に出、東側の塗り籠へと入った。内部に設えられた真新しい御帳台の前には、両側に不気味な異形の獣形が一対、向き合うようにして置かれていた。

 獣形は、向かって左に口を開けた黄色の獅子、右は口を閉じ、頭に角を戴いた白い狛犬。両者とも怖ろしい顔で鎮座している。彰子は、そのあまりの不気味さに思わず目を背けていた。

「これは、后の宮の御身をお護りするための魔除けにございます。怖れられることはないのでございますよ」

 わずか十三になったばかりの中宮を、典侍はあやすようにして御帳台へと導き入れた。それに呼応するように髪上げした正装の采女うねめが運んできた御膳を、同じく正装の女蔵人にょくろうどが受け取って大床子の上に配置する。

 彰子は気が進まないながらも、儀式に参加せざるを得なかった。すべてが厳かに重々しく行われていく。

 御帳台の北から出て東側を通って大床子に着座し、屯食とんじきに箸を立て、また御帳台に入る。その御膳を女蔵人が下げ、運ばれてきた夕膳と御手水みちょうずの盥を置く。彰子は再び御帳台を出、同じように大床子に着いて夕膳に箸を立てた後、盥の水で手を清め、また御帳台に戻った。

 帝の正式な朝膳と夕膳を真似、帝に准じる立場に立つことを示す形式的な儀式であろう。その儀式をすべて終えて、彰子は正式に后となるのである。

『これで、わたくしは……中宮様、いえ皇后様と同じ后になってしまった……。あの八歳の頃には、こんなことになるなんて夢にも思わなかったのに。あの頃に戻りたい……。なにも思い煩うことなく、ただ周りのすべてを愛し、あの父さえも信じていた頃に戻ってしまいたい……』

 声を上げて泣きたかった。だが、今の彰子には、そんなことさえできはしない。それができる場所はただ一つ、帝の胸だけであった。

『内裏に戻りたい……。主上のおられないところは嫌……。こんな淋しいところは嫌……』

 生まれ育った懐かしい邸であるはずの土御門殿。それさえも慰めにはならない。彰子にとって故郷とも呼べる自分の居場所は、既に一条院の東北の対となっていた。

 儀礼的な式が終わり、簀の子縁では中宮に付される女官の除目が行われていた。臣下に過ぎぬ女御とは違い、中宮は帝の正妃。身分もただ人ではなく、皇族となる。それ故、その扱いはなにもかも、すべてが帝に準じたものとなるのであった。

 中宮の公式の言葉を伝える宣旨せんじ、衣服の管理をする御匣殿みくしげどの、秘書的な役割をする内侍ないしなど、身分の高い女房のなかから適任者が選ばれる。他の女房たちもすべて官職が与えられ、これによって私的な侍女に過ぎなかった女房は、公の女官となって中宮に仕えることになる。女官ともなれば公式な官位と共に、それに伴う位田いでん位禄いろくが与えられるのであった。

 新たな中宮と中宮識、そして新たな後宮女官が、ここに正式に誕生した。后の宮としての、彰子の長い長い道のりの第一日目であった。


 名実ともに現在の女主である者が留守をしている内裏後宮は、新皇后定子にとって、かつて君臨した自分の園ではなかった。本内裏ではなく仮内裏の一条院ということもあるが、同じ帝の下で、自分が後宮の主ではなくなってしまったことに深い感慨を覚えずにはいられない。

 中宮から皇后の位に進んでも、ただ名ばかりのこと。祝賀すらなく、ひっそりとしている定子の周囲とは違い、新中宮の里邸土御門殿では都中の関心を集めて盛大な祝宴が張られたという。

『どんなに蔑ろにされても、他の妃たちとは違い、自分は后なのだという誇りを持って今まで耐えてきたけれど……それも潰えてしまった。いよいよわたくしに残されたのは、主上の御寵愛だけになってしまった……』

 定子は、久々の内裏出仕にはしゃぐ女房たちを空しく見つめながらも、これで純粋な愛だけに生きられるのだと自分を慰めていた。

 長年、側近くで慣れ親しんできたはずの笛の音が、北の二の対の奥深くにいる定子の耳に静かに流れ込んでくる。帝の笛であった。それに惹かれたように、女房たちが南庇の際まで出て御簾越しに外を覗いている。

「ああ、やっぱり主上であられたわ」

「まぁまぁ、なんてお美しい……」

 清涼殿代わりの北の対と、この二の対をつなぐ透き渡殿。その渡り初めのところで、帝は殿上人数人を従えて笛の練習をしている。悩み多い定子の心の慰めにと、わざわざ渡殿で吹いてくれているのかもしれない。

『初めてお会いしたとき……主上は十一でいらした。長い年月を経て、既にわたくしを越えられてしまった。入内の当初は、わたくしがいろいろとお教えすることもあったけれど、今はもうなにもお教えすることはない。主上は立派な殿方に御成長あそばされた……』

 心の奥底に眠る想い出。十四の頃から帝とともに泣き、笑い、ともに積み上げてきた想い出の数々。なにもかもが美しく懐かしい。あの頃には、それが永遠に続くものだと信じていた。自分の身に、このような不遇が訪れようとは思ってもみなかった。

『ああ、いけない……。すぐ暗いことばかりを考えてしまう。わたくしはまだ、すべてを失ったわけではないのに。多くの人が求めて、必ずしも得ることのできない至上の愛。そして、その証である二人の御子……わたくしには、まだこんなにも希望が残されているのだから……』

 定子がふと目を上げると、すぐ近くに清少納言の姿があった。定子との心の結びつきに、ようやく自信を持てるようになったのだろう。以前のように遠慮することもなくなり、今では、側にいて欲しいときには、なにも言わずともさりげなく側に来てくれている。

「主上は本当に御立派におなりあそばして。私も目の保養をさせて戴いた心地が致しますわ」

「そう? では、それも草子に書くと良いわ。少しは進んでいて?」

「はぁ……若宮様御誕生の興奮に、ついつい取りまぎれてしまいまして」

「あなたは感激症だから」

「はい。その感激症の私が今もっとも感激しておりますのは、なんだとお思いですか?」

 にこにこと訊ねられて、定子は、ついっと首を傾げて考える仕草をしてみせた。

「さぁ……主上のお美しさかしら」

「もちろん、それもございます。ですが、もっと私が感激いたしましたのは、宮様のお美しさでございますわ」

「わたくしの……?」

 ついつい暗く思い悩んでしまう自分が、それほど美しく見えるとは思えないが。そう思いつつ、自分を慰めてくれようとしているのかとも思う。

「なんだか、ごますりが上手になったのではなくて?」

「それは心外な御言葉でございますわ。私は、本当に思ったことしか口には致しませんもの」

「確かにあなたは、辛辣な批評で殿上人に恐れられている人だけれど……」

「まぁ、酷い御言葉。殿上の方々は、私とのやりとりを愉しんで下さりこそすれ、恐れるだなんて……。でも、先ほどの言葉は私の本心からのものでございますわ。十日に参内なされた折の、主上とお会いになられた瞬間の御顔……それはそれは、お美しゅうございました。私は庇際でこっそり覗き見て、ついお見とれしてしまいましたもの」

 清少納言の容色の衰え始めた顔が、うっとりと上気していく。

「それに女人というものは愛する殿方の子を産むと、並み程度の容姿でも輝くばかりに美しく見えるものでございます。宮様は、もともと光り輝くばかりのお美しさ。それが、さらに輝かれるとなれば私の目などにはもう眩しくて眩しくて」

 滑稽な仕草で訴えるのに、定子は思わず声を上げて笑っていた。やはり帝のいる内裏にともにいることは、いかに悩みは多くとも心弾まされるなにかがある。そんな気がして、せめてこのささやかな幸せが一日でも長く続くことをひたすら祈った。

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