その夜、定子は清涼殿の夜の御殿に入った。御帳台の中、帝は一刻たりとも惜しむように、定子を強く抱き締める。

「藤壺のこと……聞いているね?」

「……はい」

「私の意思ではないことだけは判ってほしい。何人の女御がいても、私には女人はあなただけなのだ。今も昔も変わることなく、あなたのことだけを想っている」

 他にはなにもいらなかった。この一言だけが聞きたかった。定子は離れていた間のもの想いのすべてを忘れ、帝の胸にしがみつく。

「わたくしには主上の御心だけが頼り。主上が、わたくしを想って下さるだけで、わたくしは生きていけます。他にはなにも望みません……ただ……」

「ただ?」

「……若宮の行く末だけが気がかりで……」

 皇位を望んでのことではない。ただ、あの幼子に対し、時の権力者道長がどのような扱いをするか、それが気がかりなのである。今はもう、ただ無事に成人し、帝の子としてそれなりの扱いさえ受けていけるならば、それで充分だと思っていた。

 離れていた間のことをお互い少しでも知り合おうと、二人は夜を徹して語り明かした。

「藤壺は確かに愛らしい姫で、私も本当に可愛く思っている。私には兄弟というものがなかった。だから、妹ができたように思っているのだ。藤壺も、私のことを兄と思って慕ってくれている。あれは、私をとしては見られないと言っているよ」

「まぁ……」

 定子は目を丸くした。入内した姫が不遜にも帝を夫として認めないと言うのだから、定子の驚きは無理もない。

「ずいぶんと幼子のような……」

「まだ十三だ。幼いのが当たり前だよ。信じてはもらえないかもしれないが、私と藤壺の間には入内の儀以来なにもない。私にも、その気は起こらないし、藤壺もああいうことは嫌いだと言ってね」

「そこまで、はっきり申しますの? 主上のことを、本当に兄君と思って気を許しておりますのね。なんだか微笑ましゅうございますわ」

 もともと後見の強さに怖れは抱いていても、藤壺の女御自身に反感を持ってはいない。むしろ、十二という幼さで権力の具とされなければならなかったことに、哀れみを感じていたほどである。定子は顔を見たことすらない幼い従妹に、親しみを覚えている自分に気づいて可笑しくなった。

「できることなら、お会いしてみとうございますわ。主上の御妹君に」

「藤壺と同じことを言うのだね」

「え……?」

「藤壺はね。幼い頃からずっと、あなたに憧れ続けてきて、今でもあなたを慕っているのだ。物語に出てくる、人を恋する気持ちのようだと笑っていたよ。私があなたのことを話そうものなら、それはもう熱心に身を乗り出してきてね」

「まぁ……」

 思えば奇妙な話ではあった。追う者と追われる者。両者とも互いの顔すら知らないままに、一方はひたすら憧れ慕い、一方は好もしいと思う。一人の男性を間においた不思議な因縁である。

「それに、藤壺は……左大臣を嫌っている」

「自分の父上を……?」

「左大臣があなたにした仕打ちを憎み、私をも蔑ろにする専横ぶりを憂えているのだ」

「……お年の割に、しっかりした考えの姫ですのね」

「きっと今頃は……立后のことを知って、小さな胸を痛めているに違いない。あなたにも藤壺にも、私は済まないことをしてしまった……。自分の非力さが情けない……」

 妻と〝妹〟という立場の違いはあっても、帝の心の中に自分と藤壺の女御が同じくらいの大きさで存在していることを、定子は知った。


 定子が髪を下ろして以来、初めて正式に参内したこと――それは、それまで尼の后として世に無きがごとき扱いを受けていた身が、本来あるべき地位を正式に回復することを意味していた。

 その参内の日。道長は、後に『御堂関白記みどうかんぱくき』と呼ばれることになる暦の余白を使った備忘録に、「神事の日如何、事毎と相違す」としたためた。子孫のため、客観的に出来事を書き留めていた備忘録に唯一残る、感情を露わとした一文であった。

 道長の栄華にとって、最大の障害である中宮と所生の皇子。そのはなはだ面白くない存在を帝が公式に世に認めさせるがごとく、百日の祝いを宮中で行ったことが許せなかったのであろう。また、己が手を経て今内裏となった一条院に、憎むべき中宮が参入したことも腹立たしかったに違いない。

 道長は、常より穢れを慎まなければならぬ神事の日に寄せて非難することで、どこにも吐き出すことのできない憤懣を少しでも晴らそうとしたのかもしれなかった。


 二月二十五日は、いにしえより続いた皇統の系譜に、かつてない異常な例の開かれた日として記念すべき一日となった。

「現神と大八州に知しめす、和根子天皇が詔旨らまと勅う。故是をもって、女御従三位藤原朝臣彰子を皇后と定め賜う――」

 内裏の正殿、紫宸殿に擬した一条院の南殿南庭において、居並ぶ群臣を前に、宣命使に任ぜられた右大臣藤原顕光が立后の宣命を読み上げた。

 女御彰子を中宮とするとともに現中宮定子を皇后となし、それぞれ中宮職、皇后宮職を付する旨が決定され、ここに一帝二后の例が初めて開かれた。

 立后の儀の後、公卿らは清涼殿の議定の座へと移り、直ちに宮司式目ぐうじしきもくを行った。中宮職、皇后宮職の職員人事である。道長の権勢を後見とする新中宮の下には大夫に大納言源時中ときなか、権大夫に宰相中将藤原斉信ただのぶ以下、能官顕官が名を連ねた。一方、皇后となった定子の下には誰も望む者がなく、形式的な決定を見ただけに終わる。

 この日、まだ夜も明け切らぬうちに、彰子は公卿殿上人の前駆さきばらい、延々と続く供車とともに土御門殿に移っていた。立后式をそこで行うためである。

『主上は、いったいどんなお気持ちで、わたくしの立后をお許しになったのだろう……』

 確かに年が明けてからというもの、初めて会った頃の朗らかさが、どことなく失われてきている気はしていた。だが、帝がそれを悟らせまいとしているのが察せられ、おそらくは父の専横を憂えてのことで自分には言いづらいことなのだろうと、敢えて訊ねることはしなかった。

『主上だけではない……。わたくしも、なに一つ自分の思い通りにすることなどできはしない……。わたくしたちは、なんと悲しい宿世に生まれてきてしまったのでしょう……』

 彰子の乗った唐車は西大門から入って中門を抜け、寝殿の正面へと回って、そのきざはし隠しに据えられた。ここを御所としていた女院詮子は、新中宮の里邸とするために寝殿を明け渡し、既に東三条邸へと移っている。

 七間四面の寝殿には、五間の母屋に東西二つの塗り籠がある。その東の塗り籠が儀式の場となるため、彰子は、控えの間とされた西の塗り籠に入った。畳三枚が敷かれた座所で、崩れ落ちるのではないかと思うほどに力を失った体を、なんとか脇息にもたせかける。

「大丈夫でございますか? 慣れないお邸におられて、きっとお疲れになったのでございましょう」

 女房たちが心配げに寄ってきて、背をさすってくれる。薬湯が運ばれ、気休めにしかならないと思いつつも口にした。

『わたくしはただ……静かに暮らしていたかったのに。中宮様を追いつめ、主上をお苦しめして……后になどなって、なにが……』

 后――幼い頃、自分は父からも女房たちからも、そうなるのだと言い聞かせられて育てられてきた。自分でもそう思ってきた。いや、そう思いこまされてきた。

 彰子にとっての后は後宮に対する夢と同じに、やはり中宮定子に結びつけられた夢であった。今上の女御となるだけでも、定子への後ろめたさに胸が押しつぶされるような心地がした。だが、実際に入内して帝との純粋な親愛に救われ、初めて心の平安を見出すことができたのである。その矢先の寝耳に水の暴挙ともいえる立后は、またも彰子の心を暗い闇の底へと突き落とした。

 あの不気味な高笑いとともに、父がどす黒い巨大な影となって彰子に迫り来る。誰よりも愛する人たちを目の前で踏みにじりながら――しかも自分には、それに逆らうことも逃れることも許されない。彰子は父の手の上で良いように踊らされる自分を感じ、我が身が哀れでならなかった。

 耐えきれなくなって身を横たえると、疲れ果てたように深い眠りに陥った。夢を見た。

 ――悪鬼のような怖ろしげな顔の父が内裏を我がもの顔に荒らしまわり、〝兄〟帝を蹂躙し、可憐な中宮定子を引き裂いて、生まれたばかりの皇子を頭上に抱え上げる。

『やめてっ、なにをなさるの!?』

 彰子は父に泣いて縋った。だが、それをものともせず、縋り付く彰子を引きずりながら、燃え上がる内裏へと向かっていく。そして、抱え上げた皇子を渦巻く炎の中へ――

「やめてっ!!」

 彰子は夢にうなされていた。心配する女房に揺り起こされ、夢の中で叫んだ途端、はっと目が覚めた。

「大丈夫でございますか、女御様? お顔のお色が酷くお悪うございますわ」

 血の気が引いて顔が冷たい。脂汗をかいて、体中ぐっしょりと濡れている。彰子は肩で息をしながら、恐怖にかられた目を大きく見開いていた。

 夢とは思えなかった。おそらくは、あれが父道長の真の姿なのであろう。帝を押しのけ、中宮を叩きのめし、次代の東宮となるべき皇子をも亡きものとする。そうして、帝の代わりに廟堂に君臨し、己が娘彰子を后の位につけ、いずれ彰子に産ませた子を帝位に――それが、道長の描いた見果てぬ夢なのであろう。

 いや、見果てぬ夢などではない。既に帝の権威は十分に貶められ、定子を押しのけて彰子を立后するところまで漕ぎつけている。後は彰子が皇子を産むのを待って、その皇子を帝位につけるだけであった。

『それだけはさせない……。わたくしが、中宮様のお産みした皇子をお守りしなくては……。そうよ、第一わたくしに子ができるはずはないもの。お父様の夢は、ここで終わりだわ……』

 〝兄〟と〝妹〟の関係こそが、中宮定子とその皇子にとっての最後の護りの壁なのである。少なくとも、このときの彰子は、帝とのそんな関係が未来永劫不変のものであると信じていた。

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