3
「どうして? どうして退出しなければならないの?」
二月の初め、彰子は女房の口から自分の里帰りを聞かされ、突然のことに驚いた。
「さぁ? 殿はただ……近いうちに退出するかもしれないから、その心づもりでいるようにとだけ仰せられて」
「理由は聞いていないの?」
「はい、申し訳ありません」
なにがなんだか判らない。彰子には納得できなかった。
「女御様には初めての内裏暮らしで色々と気疲れもおありだろうと、殿もお考えになられたのではないでしょうか?」
別の女房が見かねたように言う。彰子は、それ以上訊ねることをやめて脇息を引き寄せた。
『気疲れなんて……お里より主上のお側の方が、わたくしには心が安まるのに……。主上は昨夜、なにも仰せにならなかったわ。お父様が勝手に一人で決めたことなのかしら……』
昨日の昼間、いつものように訪ねてきたときも、昨夜、宿直で夜の御殿に上がったときも、帝はそれらしいことは一言も言っていなかった。ただ、ここ最近、なんとなく口と表情が重くなってきているような気がしてはいたのだが――
「主上がお渡りになられます」
先触れの後、しばらくして帝が現れた。例の馬の命婦を連れて、いつものように。
「どうしたのかね、変な顔をして?」
「いえ……」
彰子は気を取り直して、馬の命婦から猫を受け取った。
「よしよし……あなたはお利口ね。ちゃんと、わたくしのことを覚えていてくれているのね」
初めて〝命婦のおとど〟に引き合わされて以来、帝は、ときどきここへ連れて来るようになっていた。最初のうちは怖がっていた彰子も、しだいに慣れて今では自分から抱き上げるようにまでなっている。
命婦のおとどはごろごろと喉を鳴らし、彰子の胸に頭を擦りつけてくる。その背を撫でてやりながら、彰子は淋しくなって独り言のように呟いた。
「せっかく慣れたのに……お留守にしたら、わたくしのことなんて忘れてしまうのじゃないかしら……」
帝が辛そうに顔を曇らせる。だが、猫がじゃれついてくるのに夢中になっている彰子は、まったく気づいていない。
ひとしきり猫と遊んだ後、いつものように二人は塗り籠へと籠った。
「父が……わたくしの退出のことを申していたらしいのですけれど……ご存じですか?」
二人きりになるなり彰子は、そう訊ねた。脇息を引き寄せて両肘をついた帝は、ただ困ったような顔で答えようとしない。
「父が、またなにか……」
「………」
「十一日には中宮様が御参内なされるのでしょう? もしかして父は、それを嫌って……」
帝は、なにも答えてはくれない。ただ、淋しげな微笑を返すだけだった。
明日には中宮定子が皇子を奉じて参内しようという日。東北の対では、突然決まった退出の仕度に女房たちが慌ただしく動き回っていた。
『こんな風に突然、退出が決まるなんて……退出は主上のお許しなしにはできないはず。なのになぜ、主上は、なにも言って下さらなかったの……?』
彰子は知らなかった。近頃、都で囁かれている噂も、退出の真の理由が何なのかも。そして、藤壺の女御退出にあたって帝が下したものが単なる許可ではなく、正式な理由のある
「なぜですの? 内裏暮らしの疲れを癒やすための退出に、見知らぬ邸を里邸として使うなんて……これでは、落ち着いて休むこともできませんわ」
訳が判らないまま連れてこられた邸で、やっと現れた父を捕まえ、彰子は怒気の含んだ声で訊ねた。たった一人の心安まる相手から引き離されてしまったことが、なにより恨めしい。
「なにを言っておる。誰が慰労のためと言ったかね」
「でも、女房たちが……」
道長は、可笑しくてたまらないといった風に高笑いをした。それがひとしきり収まった後、上機嫌な顔で驚くべきことを言った。
「本日、とうとう正式に帝の宣命が下りたのだ。退出は、そのためなのだよ」
「宣命って……いったい、なんの宣命ですの?」
「そなたを立后すべき、との宣命に決まっておる」
「立后!?」
思わず叫んだ途端、近くに侍っていた乳母以下数十人の女房たちは顔を見合わせてざわめいた。寝耳に水の事態に呆然とする彰子の顔からは、すっかり血の気が引いている。
「昨年から重ねて奉上してきたのだが、先月の末に御内意を戴いたままとなっていた。それが今日、ようやくにして正式な宣命が下りたのだ」
道長は、その興奮が未だに収まっていないらしい。目の前にいる彰子の表情になど気づきすらしない。やや上ずった口調は尚も続いた。
「昨年の末に女院の御同意を戴いてな。女院のお口から主上にお勧めして戴いたのだ。主上も、なかなか御首を縦にはお振り下さらなんだが、ほれ、あの
頭の弁とは、例の屏風の色紙形を書いた当代一の能書家として名高い太政官兼蔵人の頭、藤原行成であった。また、道長の知恵袋として様々な相談事を受け、手足となって働くような、いわば道長子飼いの官人でもある。
行成は道長の依頼で昨年末以降、帝と女院の間を奔走していた。女院の強い意志を知って帝は困惑していたが、ことがことだけに良い返事はもらえなかった。それも道理、今上帝には既に中宮定子がいるからである。一帝に二后並び立つなどという珍事は、長い皇統の系譜にもまったく前例はない。
ここで道長は重ねて行成に相談した。行成が知恵を絞った結果、ある名案を考えついたのである。
――大原野神社の祀りは古来、藤原氏出身の后が奉仕することになっている。だが、皇太后詮子、円融皇后遵子、中宮定子と三后すべてが出家しており、祀りを行える者がいない。我が国は神国であるから、神事がなにごとにも優先される。中宮定子は正妃であっても、神事を行うことのできない身。殊恩によって、職を止めることもできないので重ねて后を立てる以外にはない――
これが、いわゆる大義名分であった。定子を廃后に追い込むことができない道長にとって、彰子を立后させるに、この上ない名分である。道長が行成を篤く労い、一生の恩人と感謝したのは言うまでもない。
彰子は、その次第を聞かされて、気が遠くなるような怖ろしさを感じた。
『ああ……お父様は、とうとうここまで……国の法を曲げてまで、ご自分の我を通されるのか。なぜ、わたくしは……このように怖ろしい人を父に持ってしまったのだろう……』
父の権勢欲、人を踏みにじって顧みない冷酷さ。今まで充分感じてきたことであったが、この上に、天下大法をものともしない唯我独尊のおぞましさまでもが加わってしまった。彰子の父に対する怖れは、今やはっきりと嫌悪の形に変わっていた。
「それにしても兄上は、良い前例を開いておいてくれたものだ。皇后の別称であった中宮を独立させ、四后並び立てるようにしておいてくれたのだからな。それが今、自分の娘の首を絞めることになろうとは思ってもみなかったであろうよ」
明確な侮蔑の色を見せ、道長は小気味よさげに高笑いする。その下卑た笑い声を、彰子は身も凍る想いで聞いていた。
翌日には、藤壺の女御立后の噂は内裏のそこかしこで囁かれていた。その暗い陰を引きずりながら、中宮定子は皇子の百日の祝いを行うために参内した。
道長に加担して彰子立后の後押しをした女院詮子もまた、皇子の顔を見るためと称して参内している。百日の祝いを宮中で行うことに賛同したのは、定子に対して、やはりやましい想いがあったからかもしれない。
「まぁまぁ、良く肥えられて……やはり、帝の御幼少のみぎりに良く似ておられる」
今内裏一条院の北の対のさらに北、二の対で、女院は中宮や二人の孫と対面し、若宮を抱き上げて喜んでいた。傍らでは、五つになった姫宮がもの珍しげに駆け回っている。
「女御はあまたいても、御子を奉ったのはあなた一人。帝の御寵愛の深さも、よく判ろうというもの。あなたたちお二人は、よほど深い宿縁で結ばれているようですね」
定子は、ただ微笑みを返した。藤壺の女御立后の噂も、女院がそれに力を貸したことももちろん耳にしている。その当人が目の前で自分の子を抱いている様が、なんとも不可思議であった。
「主上がお渡りでございます」
女房の声に、定子は緊張を覚えた。帝は本当に心変わりしていないのだろうか――そんな不安が心を過ぎる。
「宮……久しぶりだったね」
帝は嬉しげに声をかけると、定子と女院の傍らに座した。挨拶もそこそこに、ただただ定子の顔を見つめている。その目は恋慕に満ちあふれていた。
『ああ……主上は少しもお変わりではない。以前と同じように、わたくしを御覧になる……。藤壺の立后も、やはり主上の御心からではないのだわ。きっと……女院様のお言葉や、道長殿の力に抗しきれずに……』
自分への変わらぬ愛を喜びつつも、一方で、なにごとも意のままにできない無力な帝を気の毒にも思う。自分の身に起きたことは、なに一つ帝の責任ではないのだ――そう痛感した。
「母上、私にも若宮を抱かせて下さい」
帝は母から我が子を受け取ると、感無量の表情でじっと見つめていた。いつしか目に光るものがあるのを袖で拭う。ついで、姫宮が面白おかしく駆け回っているのを見つめて淋しく笑った。
「このように可愛い姫宮を、よくも長いこと見ずに過ごしてこられたものだ」
「主上……」
胸に熱くこみ上げてくるものを感じ、定子は口元を抑えて目を伏せた。
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