2
晦日を目前にした、ある日のこと。晩冬の寒さの中、火鉢の傍らで脇息に身を預けて眠っていた彰子を、乳母が揺り起こした。昨夜も〝宿直〟で、遅くまで語り明かしていたために、東北の対に戻って一休みしたものの、朝の仕度や朝膳を済ませた後でやはり眠気に襲われて、いつしかうたた寝をしてしまっていたのである。
「なあに……どうしたの?」
眠い目をこすり、ようやく身を起こした彰子に乳母は慌てたように言った。
「主上のお渡りです。お早くご用意下さいまし」
彰子にとっては気を許せる相手であるが、乳母やお付き女房には、そうはいかないらしい。慌ただしく室礼を整え、居住まいを正している。
やがて帝が現れた。いつものように供奉の者を庇に残し、御簾内に入ってくる。だが、一人ではなく、まだ年若い女房を連れていた。不思議な思いで、その女房を見やる彰子に、帝が側へ寄ってきて微笑む。
「乳母だよ」
「え……?」
どう見ても、帝より少し上くらいの年にしか見えない。彰子は訳が判らず、説明を求めて帝を見上げた。
「……ずいぶんと若い乳母のようですけれど……」
「あはは、私の乳母ではないよ。〝命婦のおとど〟の乳母だ」
「命婦のおとど……?」
なおも首を傾げる彰子に、帝は乳母に向かって合図する。乳母は恭しく拝礼すると、御簾の向こうの殿上人からなにやら受け取って、二人の側にいざり寄ってきた。
「ほら、これが〝命婦のおとど〟だ」
乳母から受け取ったものを、帝は彰子の目の前に掲げる。
「あ、猫……ですか?」
真っ白な猫であった。あまり大きくはない。手入れが行き届いているようで、白い毛はつやつやと輝いていた。
「わたくし……猫を見るのは初めてですわ。絵巻で見たことはありますけれど……」
「可愛いだろう?」
「そう……ですわね」
初めて間近に見る獣の姿に、なんとなく身構えてしまっている。彰子の顔はいくらか蒼冷めて引きつっていた。それに気づいたらしく、帝が笑う。
「なんだ、怖がっているのかね。大丈夫、怖くはないよ。ほら、抱いてみてごらん」
「えっ? あの、でも……噛んだり、引っかいたりはしないでしょうか……」
差し出された猫に身を引いて、しどろもどろに言う彰子を、帝はひたすらおかしそうに笑う。
「なんだ、あなたらしくないね。大丈夫と言っているのに。では、撫でてみてごらん」
尚も言われて、彰子はしかたなく恐る恐る手を出してみた。毛の感触が柔らかい。猫がぴくんと身を震わせたのに驚き、慌てて手を引っ込める。
「怖がりだなぁ。こんなに大人しい猫なのに」
「でも……」
「まぁ、初めてなら仕方ないかな。馬の命婦、猫を」
命じられて、乳母は猫を受け取って元の位置に下がっていく。
「馬の命婦?」
「そうだよ。あの女房の呼び名だ」
「まぁ……猫のお世話を馬の命婦がしているのですか?」
彰子は猫とその乳母を見比べて、思わず吹き出した。東北の対の女房たちも一斉に笑い出している。当の馬の命婦だけが照れたように下を向いていた。
「主上は猫がお好きなのですか?」
「ああ、動物は皆好きだ。でも、やはり猫は格別だね。私のあまりの猫好きに、あの猫が産まれたときには、あちこちから祝いの品が届いたくらいだ。そういえば、左大臣からも……」
「お父様が……?」
やっと収まっていた笑いが、またこみ上げてきていた。あの父道長が、猫の出産に大まじめで祝いを出すとは――父の顔を思い浮かべ、さらに猫の方を見ると我慢できなくなってしまって、身をよじるように笑った。
「そんなに可笑しいかな……」
「いえ。でも……あの父が、どんな顔でと思うと……」
結局、帝もつられて笑い出している。女房たちも同じらしい。扇で隠してはいるが、扇を持つ手も肩も小刻みに震えている。
可愛がるあまり猫に五位の位を与えたこと。人間の乳母をつけて世話をさせていること。帝は面白おかしく話して聞かせ、東北の対は、しばし笑いの渦に巻き込まれた。
「女御、こちらへ――」
猫と乳母を帰し、帝は彰子の手を取って塗り籠へと入った。夜の御殿での正式な宿直も、この毎日の昼間のお籠もりも、二人にとっては親密な語らいを愉しむためのものであった。だが、周囲の女房たちも殿上人たちも誰一人として〝夫婦〟の仲を疑う者はなく、忍びやかな笑いの素ともなっている。
塗り籠の中では、相変わらずの睦まじい会話が続いていた。〝兄〟の話に〝妹〟が興じたり、笑ったり、その逆であったりと。
「そうですわ。わたくし……ずっと考えていたのですけれど……」
「なにを?」
「新しくお生まれの皇子様のことですわ。
「百日の祝いを宮中で?」
身を乗り出して自分の名案を告げる彰子を、帝は呆気に取られたように見つめた。
「主上も早く御覧になりたいでしょう? それに、そうすれば中宮様も御参内になれますわ」
「しかし……左大臣がなんと言うか」
「父なんて、無視してしまえばよろしいのですわ」
子供らしい率直さで、彰子は気軽に言う。道長の専横を知ってはいても、その力が既に、帝をはるかに凌駕してしまっていることなどは理解できるはずもない。実際に常日頃、それを思い知らされているはずの帝は淋しげに笑った。
「左大臣を無視……か。できるものなら、そうしたいが……」
「そんなに父が怖ろしゅうございますか?」
「帝といっても、私にはなんの力もないのだよ。もう、いにしえのような親政は今の世では望めない。私なりに精一杯努力はしてきたつもりなのだがね」
彰子にはよく判らない。帝の権威があってこその左大臣の位、内覧の権力ではないのか。だが、その仕組みは判らなくとも、目の前の帝が自らに力のないことに苦しみ、歯噛みしていることだけは痛いほどよく判った。
「申し訳ありません。わたくし……過ぎたことを申し上げてしまいました……」
「良いのだよ。あなたにも、いずれ判るときがくる。そうなっても私を見捨てずに、私の心の慰めとなって側にいて欲しいが……」
「もちろんですわ。だって、わたくし……主上の〝妹〟ですもの」
帝の顔に安らいだ微笑みが浮かぶ。彰子は思わずほっとして、先ほどの提案をなんとか実現する方法はないものか、あれこれ考え始めた。
「あっ、名案がありましたわ!」
「名案? なんのかね」
「ですから、皇子様の……」
もどかしい想いで膝を進め、帝の手を握って顔を見上げる。
「女院様にお願いするのです」
「母上に?」
「ええ。女院様にとっては可愛い御孫ですわ。初めての皇子様ですし、きっとお会いになりたいはず。それに……父は、女院様のおっしゃることなら、なんでも聞くと思いますわ」
一気にまくし立てた後、相手の反応を気にして見つめる。帝はあらぬ方を見ながら、考え込んでいる風だった。
「いかがでございましょう?」
「……そうだな。確かに名案かもしれない。左大臣も、母上のお言葉なら耳を傾けずにはいられないはずだし」
「では……?」
「うむ。御機嫌伺いと称して、文を遣わせてみよう」
「良かった。きっと中宮様もお喜びになりますわ」
両手を合わせてはしゃぐ彰子を、帝は口元に笑みを浮かべて愛おしげに見ていた。
長保二(一〇〇〇)年。年が明けて間もなく、皇子の百日の祝いを宮中で行いたいとの旨が、帝から定子の元に伝えられた。
彰子の狙い通り、女院が宮中で祝いの儀を行うことに強く賛同したのである。さすがの道長も不快の色を打ち出しはしたが、大恩ある姉の意思には逆らえなかったらしい。
「よろしゅうございましたわね」
「やはり、若宮様がお生まれになったことで御運が向いてきたのですわ」
三条の宮では皆うち揃って、涙を浮かべつつも華やいだ顔で喜び合う。定子もまた、やっと帝に会えるとの想いで自然に心が浮き立ってくるのを抑えられなかった。
「主上は、いつでも宮様の御事をお考えなのですわ」
清少納言が定子の側近くで晴れがましげに胸を張る。この女房は、いつでも定子の立場に立って考え、感じてくれる。定子にとっては、不遇のときに声を合わせて不平不満を言ってばかりいた古い女房たちの誰よりも、心の支えとしてずっと頼りになる存在であった。
「なんだかわたくしよりも、あなたの方が喜んでいるようよ」
「いいえ。宮様のお気持ちを、代わりに表させて戴いているだけでございますわ」
「まぁ。それでは今、わたくしがなにを考えているかも判るのかしら」
「主上にお会いになられたら、なにをお話になろうか考えていらっしゃるのではございませんか?」
「……嫌だわ。どうして判るの?」
「御顔に書かれてございますもの」
定子は口に手を当てて朗らかに笑った。内裏炎上以来、絶えてなかった心底からの笑顔に、清少納言は目を潤ませて微笑んでいる。
『……初めに、なんと申し上げようか。どんなお話をしようか……。でも、きっと……お会いしたときには、そんなことはどうでも良くなっているはず。わたくしは主上のお側にいられるだけで良い。たとえ、ほんの短い間でも……』
本内裏と違って狭い一条院では、祝いの儀が済んだ後も長く留まれるとは思えなかった。だが、参内できる望みさえ持てなかったときのことを思えば、僅かの逢瀬でも幸せである。退出したら、もう後はいつ側に上がれるかも判らない。だからこそ、その僅かなひと時を大切にしたいと心から想った。
定子や清少納言から離れたところに侍う女房たちは、口々に勝手なことを言い合っている。
「百日のお祝いは二月の半ば……まだまだねぇ」
「そうねぇ。でも、いつ参内できるか判らなかったときのことを思えば、先に楽しみができただけでも良いわ」
「それにしても久しぶりよね、内裏住みは」
「だけど、私たちの知っている本内裏とは違うでしょう?」
「それはね。でも、どんなところでも内裏は内裏だもの。やっぱり独特の雰囲気があるでしょう?」
「それはそうと……やはり藤壺のお方とご一緒に、内裏住みと言うことになるのかしら」
「なにも遠慮することなんてないわよ。いかに勢力はあっても、こちらは后の宮。御身分が違うわ。それに、あちらはまだまだ幼くていらっしゃるけど、こちらにはお二方も御子がいられるのよ。その上、お一人は今上の一の皇子ですもの。あちらとは格が違うのだから、大きな顔をしていましょう」
そう気強く言う女房に全員が大きく頷いていた。まるで、改めて心構えをするかのように。
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