第四章 草葉の露

 慌ただしかった長保元年も、ようやく最後の月を迎えようとしていた。かつて暮らした内裏の華やかさも世の人々の好意も、ここにはなかった。三条の宮――地下人、中宮大進平生昌の邸宅に身を寄せる定子の耳には、それなりに威儀を正して次々と行われる皇子誕生の祝賀の騒ぎも、ただ空しいものとしか聞こえてこない。

『今上の第一皇子をお産みしても、なんの栄えもありはしない。浮かれているのは、この三条の宮だけ……。世の人々は、誰も喜んでなどいないわ。わたくしには主上の御寵愛だけが頼り。それなのに、皇子をお産みしたわたくしの居る場所が主上のお側にはない……』

 産後の体の衰えの中、外から聞こえてくるのは〝かがやく藤壺〟を讃える噂ばかりであった。道長の権勢で新女御の威勢がどれほどのものか、初めから予測はできていた。だが、頼みの綱の帝こそが、年端もいかぬ藤壺の女御に夢中になっているとは――

『ときおり戴く御文では、変わらぬ御愛情とお優しさを示して下さる。御文を信じていいものか、噂を信じるべきなのか……。もうわたくしには、なんの分別もつかなくなってしまった……』

 弱った体は、さらに心までをも弱くする。定子は、その心の支えをどこにも求められないまま、また絶望の淵を彷徨っていた。

『お会いしたい……。主上にお会いして、直接、御真意をお聞きしたい……。それさえも、今のわたくしには許されないのだろうか……』

 こう思い悩む折には、ふと目を上げた先に必ず清少納言の姿があった。いつも自分を見守るように、励ますように見つめてくれている。今もまた、目が合ったことに気づいた途端、自分を叱咤激励するような表情を浮かべている。

 ――お約束をお忘れですか? 決して、権勢には屈しないと仰せられたではありませんか。心を豊かに持って誇り高く生きるのだ、と――

 そう言っているように定子には思えた。だが、それに応えてやるには、今の境遇はあまりにも過酷すぎる。定子は淋しく微笑むことしかできなかった。


 同じ頃、道長は土御門殿の寝殿を訪ねていた。寝殿の女院は、間もなく三十九歳を迎えようという今、ひたすら静かに仏道に励んでいる。その顔にも、ようやく容色の衰えが目立ち始め、かつて美しかった髪には白いものが混じりつつあった。

「女院様、御機嫌のほどはいかがでございますか」

「そうね。天下泰平なにごともなく、わたくしも心静かな日々を送っておりますわ。帝も御立派に御成人あそばされて、お側にはあなたのような力強い支えがあって、その上、ようやく皇子にも恵まれて……」

 皇子にも――という言葉に、道長は一瞬不快な色を漂わせた。だが、すぐに平静な顔に戻り、にこにこと頷いてみせた。

「中宮はどうされているのでしょうね。若宮の祝い事も、つつがなく済んでいるのでしょうか?」

「帝が万事率先されて、滞りなく行わせておられるようですな」

「そう、それは良かったこと」

 女院は几帳の陰から身をずらしながら、延々と中宮所生の皇子の話ばかりをする。

「主上に似ておられるのかしらねぇ。あぁ、一度お顔を見たいものだわ」

 遠い昔、中宮定子への冷遇を為したことなど忘れてしまったかのような口ぶりである。あまたの女御后に、誰でも良いから皇子を産んで欲しい、その産んでくれた人を贔屓にすると公言して憚らなかったことを、世上の人々に噂されて久しい。やはり、それが念頭にあって中宮にも好意を抱くようになったのだろうか。

「姉上。実はですね――」

 道長は、尚も皇子への愛着の言葉が延々と続く気配なのを、たまりかねたように遮った。

「――今日は、大事な御相談があってお伺いしたのです」

「相談? なんでしょう。あなたの頼みであれば、わたくしに出来る限り協力いたしますよ。あなたは、わたくしの可愛い弟。それに、あなたにはずいぶんと良くして戴いていますものね」

 それを受けた道長は、今少し膝を進めて神妙な顔つきとなった。

「実は……はっきり申しまして、私は、どうしても納得できないのです」

「納得……?」

「姉上は、この現状をいかがお考えでしょうか? 中宮は出家なされた御身なのですぞ。それを帝は出家を認めないと仰せられて。だが、中宮が御手ずから御髪をお切りになられたのは、動かしようもない事実。これが許されましょうか。帝の御意とはいえ、あまりにも理不尽ではありますまいか」

 切々と訴える道長に、女院はただ困惑の色を浮かべていた。その場に侍る数人の女房たちも、驚いたように顔を見合わせている。道長は、そんなことには委細構わぬ風で、ひたすら理を尽くして訴え続けた。

「なんと誤魔化し、表面を取り繕われても、神仏はすべてお見通しであられますぞ。御在世中の帝に尼の后など、あまりにも不吉なこととは思われませぬか?」

「不吉……帝がですか?」

 女院も、さすがに我が子のこととあっては平静ではいられないらしい。不吉と聞いて、その顔色が変わる。道長の話に関心を持ち始めたのは明らかだった。さらに道長は畳みかけるように話を続ける。

「しかも! 今度お生まれの皇子は、御出家後の皇子ですぞ。先の皇女は、御出家前の御懐妊であられましたから仕方がないとはいえ、今度の場合は事情が違います。尼の御身で内裏に参入なされ、その上、帝の寵をお受けになるなど言語道断。私は、帝が中宮の御参内をお許しになられたときにも異を唱え、そのような非道は許されませぬと何度も申し上げました。が、お聞き入れ下さらなんだ……」

 そう言って肩を落とす道長の顔には、皇室の前途を憂慮する真摯な想いが満ちあふれていた。少なくとも傍目にはそう見えた。女院は心を打たれたように目を潤ませて頷く。

「そうですわ。その通りです。わたくしもあの折には、前代未聞のこと故、あまり良いこととは思いませんでしたが……帝の御熱意につい打たれてしまって……」

「皇統は、いにしえは神につながる神聖なもの。仏門に入った御身で帝にお仕えするなど不遜も甚だしい。内裏は八百万の神々が降臨し給える神聖にして不可侵の場。その主たる帝の后に、尼君はふさわしくござりませぬ!」

 あまりにも鋭い言及に、女院は言葉を失くしていた。押し黙ったまま蒼い顔を几帳越しに覗かせていたが、ようやくにして、ぽつりぽつりと口を開いた。

「確かに……道長殿の言う通り……。しかし、出家したからといって他になんの落ち度もない中宮を、廃后とするわけには参りますまい」

 道長の顔が苦しく歪む。古い時代に、不祥事を起こして后位を廃された例は確かにある。だが、兄弟の不始末はあっても、中宮定子自身にはなんら落ち度はない。現役の后妃が出家したからといって、咎める法はどこにもないのであった。

「わたくしも円融院が亡くなられて仏門に入った身。ですが、出家したとは言え、わたくしは皇太后として未だ后位にあるのです。出家を理由に中宮を廃するならば、わたくしや、同じく出家されている円融皇后も廃されなくてはなりますまい」

「確かに。では、こうしたらいかがでございましょう」

 道長は両の目をぎらりとさせて、身を乗り出した。


 既に今内裏に入って一月以上もの日が経とうとしている。あれだけ疎んじた入内であったが、思いの外、内裏住うちずみは楽しかった。様々の宮中行事、殿上人たちの来訪。毎日が面白おかしく華やいでいた。なにより入内相手の帝が、あまりにも優しく好もしい人物であったことが、彰子の心を温かくしてくれた。

 〝兄〟と〝妹〟の関係は健在であった。帝は毎朝、待ち遠しいといった様子で彰子の東北の対を訪れる。道長が入内に添えた数々の名品珍宝に接するのを楽しみにしているらしく、また、当の彰子との語らいを心の慰めとしているかのようでもあった。

 もちろん女御として入内したのであるから、宿直を命じられて夜の御殿に上がることも多い。だが、そこでも帝は〝兄〟と〝妹〟としての態度を崩そうとはしなかった。

 入内の儀以来、最初に召された夜のこと。帝は渋々御帳台に入った彰子に、そっと小声で囁いた。

「入内の夜から三夜のことは儀式だから仕方がなかった。だが……私には、今のあなたを女人として見ることはどうしてもできない。あなたは私の可愛い妹……本当に、そう思っているのだよ。だから……判ってもらえまいか」

 つまり、妹としてしか見ることのできない少女を、他の女御のようには扱えない。そういう意味らしい。彰子は、かえってそれを喜んだ。まだまだ男の愛を受けるには、心も体も充分に成長してはいないのである。

「わたくし、主上をお兄様としてお慕いしておりますわ。……背の君としてお見上げするのは、わたくしには無理でございます。それに、ああいうことは……わたくし、好きではありませんの」

 ああいうこと――そう口にしたときの彰子は、まるで怒ってでもいるかのように嫌悪を露わにしてしまっていた。それを目の当たりにして、帝は困ったように苦笑していたが、敢えて咎めることはしなかった。

 女御は、妃とはいっても本来、最高位の女官のようなものである。皇嗣を得るために寝所に伺候するのが務めなのである。それから考えれば、この彰子の発言はいくら幼いとはいえ、とんでもない我が儘であった。

 もし道長が知ったとすれば、どんなにか怒り狂うことであろう。あらゆる手段を使って周囲を蹴散らし、踏みにじってまで我が意を強行してきたのは、すべて彰子に皇子を産ませ、その皇子を皇位につけて外祖父の地位を手に入れんがためなのだから――

 このことは、本人たちに自覚はなくとも専横の道長に対する有効な抵抗であり、復讐であった。一日千秋の想いでいくら待ち望んでいても、彰子の腹に帝の子が宿ることは有り得ないのである。

 そういう〝兄〟〝妹〟の純粋で温かい交流は、親元にいたときよりも彰子をのびのびとさせた。彰子は唯一の心の理解者を得て、あの〝蘇芳〟の件以来、初めて満ち足りた幸福な日々を送ることができていた。

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