10

 「こちらの殿舎は、本当にみごとなものばかりが揃っているね」

 几帳の向こうでは、帝が立ったまま物珍しげにあちらこちらと見回し、しきりに感心していた。

「昨日は室礼に目を向ける余裕がなかったから、よくは見なかったのだが……」

 その言葉に、南庇に侍う供奉の者たちが一斉に忍び笑いをする。別の意に取ったらしい。帝はまるで気にかけた様子もなく、尚も室内を見回しながら彰子の側へ来た。

「女御になったあなたとは、初めての対面だね」

 そう言って昼間の陽光がいくらか差し込む中、微笑みをたたえながら、しげしげと彰子の顔を見つめてくる。寝殿造りの殿舎は採光は充分ではない。だが、それでも夜に燈台の灯りでものを見るのとは、やはり格段の違いがある。彰子は自分の姿を包み隠さず見られてしまったことで、いっそう恥ずかしくなって横を向いた。

「私には四歳になる姫宮がいるが、このように育てたいものだ」

 庇際に向かって帝が言うと、新参の女房までもが、まるで自分が育てたかのごとくに得意げに微笑んでいる。もちろん、実際に育てた乳母が得意満面でいるのは言うまでもない。

 ようやく座所に着いた帝は、いつまでも横を向いている彰子をちらりと見て、笑いながら言う。

「あまりに可愛らしくて、側に寄ると、自分が七十のおきなになった気がしてくるよ。ああ、恥ずかしい」

 その冗談めかした物言いに、御簾の内でも外でも一斉に笑い声が上がった。

「今日は、ずいぶんと無口なのだね」

 頬を赤らめて俯いている彰子に、帝は小声で囁く。昨夕、初めてまともに話したときの打ち解けようから考えれば、不思議に思うのも無理はない。判っていながら彰子は、ますます固くなってしまう自分をどうすることもできなかった。

「……このような明るいところでは……わたくしの幼さが露わとなってしまうので、恥ずかしいのでございますわ……」

「なにを言うかと思ったら。昼間見られて困るのは、物の怪と三十女だよ。あなたのような若い人がそんなことを言っていたら、ほら! あそこの女房などは皆、頬かむりしなくてはならないではないか」

「まぁ……」

 思わず笑い出しかけた彰子だったが、帝と目が合ってしまい、また慌てて顔を伏せる。帝がかすかに溜め息をついた。

「私の話はお気に召さないようだ。それでは言葉ではなく、笛の音で試してみることにしよう」

 言うなり、お引き直衣の懐から笛を取り出して口に当てた。たおやかな笛の音が、美しい室礼の中を流れ、若い女房たちをうっとりとさせる。彰子もまた横を向いたままで、じっと耳を澄ませていた。

「女御。せっかく、あなたのために吹いているのだから、こちらを向いて見てごらん」

「御笛は……お見申し上げるものではなく、お聞きするものでございますわ……」

 そう言って彰子は、帝に顔を向けようとはしない。

「これはまた手厳しい。それでは、幼子と笑われても仕方がないよ。このような七十の翁を平気でやり込めるようではね」

 わざと年寄りのような仕草をするのに、東北の対には再び笑いの渦が巻き起こる。ひとしきり笛を吹いた後、帝は彰子の手を取って言った。

「まだ打ち解けてはもらえないのかな。では、あちらへ行って二人きりで話をすることにしよう」

 言うなり、手を取ったままで塗り籠へ向かおうとする。庇の間では、年配の公卿たちが笑いながら口々に言い合った。

「よほど主上は、こちらの女御がお気に召されたと見える」

「まったく……他の女御たちは皆、帝よりお年上だから、お若い女御がお可愛くてしかたないのかもしれませんな」

「そりゃあ、散りかけた花よりは蕾の方が良いに決まっておるわい」

 そんな下卑た会話も知らずに、塗り籠に入った二人は静かに向き合っていた。それでもまだ下を向いている彰子に、帝は優しい口調を崩さず訊ねてくる。

「いったい、どうしたというのかね? 昨日はあれほど、私に打ち解けてくれていたのに」

「あの……申し訳ありませんでした。わたくし……昨日は、つい取り乱してしまって……あんな、はしたないところをお見せして……」

「はしたない?」

「主上が、どう思われたかと思うと……わたくし、恥ずかしくて……」

 ひたすら身を縮めるのを見やり、帝はぷっと吹き出した。

「なにを言うかと思えば……私が、あなたをはしたない者だと思ったと言うのかね? とんでもない。私は、そんなあなたを見て、ひたすら愛らしいと思っていたのだから」

 彰子は、やっと少し顔を上げて、上目使いで帝の笑顔を見つめた。

「嘘ではないよ。昨日も言ったろう? 私に可愛いらしい妹ができたと。あなたのような人が内裏へ来てくれて、私は本当に嬉しく思っているのだよ」

「本当でございますか……?」

「本当だとも。こんな優しいお兄様の言葉を、信じてはくれないのかね?」

「まぁ……」

 口元は抑えたが、つい笑い出してしまった。勝手に悩んで変に意地を張っていたことが馬鹿らしくも思えてくる。いつしか昨夕と同じように、気楽な気分を取り戻していた。

「やはり子供なのだね、あなたは。あっと言う間に、もう機嫌が直ってしまった」

「はい、お兄様」

 しばし声を立てて笑い合った後、彰子は、素直に甘えたい気持ちでいっぱいになっていた。

「主上と二人きりのときは……わたくし、背伸びしたりせずに、生のままでいてもよろしゅうございますか?」

「つまり子供のように、ということかな?」

「わたくし……父に不信を抱いて以来、誰にも甘えられなくなってしまいましたの。でも、とても辛くて……思うままに振る舞えたら、どんなに気楽かしらといつも思っておりました」

「おやおや。私にできたのは〝妹〟ではなく、〝娘〟だったらしいね。いいよ、この父にうんと甘えなさい」

 まるで父親が幼い子を抱きとめるように両手を広げてみせる。そのいかめしく作った顔がひたすらおかしく、彰子は思わず吹き出していた。

 しばらく話し込んだ後で、ようやく二人は塗り籠を出た。彰子の手を引いて座所に座らせた帝は、ふと後ろの屏風に目を留めた。

「ああ、これか。噂の屏風は……」

 帝の相貌には、なにげない風を装いながらも、憤懣やるかたないと言った怒りにも似た色が浮かんでいる。父の専横に日ごろから胸を痛めていた彰子には、その想いがよく判った。

「わたくし……あまり好きではないのですけれど……」

 周囲に聞かれないよう低く呟いたのに対し、振り返った帝の顔からは、先ほどの怒りの色は消え失せ、優しい微笑みが戻っていた。

「あなたが気にすることではない」

 帝もまた声を低め、もう一度屏風の方を見た。目は四月の帖の藤の花の咲き乱れる絵に注がれている。

「藤……か。あなたには藤の可憐さが似合うかもしれないな。造営中の新内裏が完成したら、あなたの曹司そうし飛香舎ひぎょうしゃが良いかもしれない」

「飛香舎……?」

「庭に藤を置くのが古例でね。藤壺ふじつぼと呼ばれる殿舎だよ。そうだ、それが良い。藤壺の女御……あなたに良く似合う名だ」

以来、彰子は、まだ本内裏の後宮に入ってもいないうちから、藤壺の女御と呼ばれることとなった。

 また、天下の財宝珍宝を集めてきらびやかな室礼を誇るあり様と傍から見ての帝の寵愛ぶりをも合わせて、藤壺の女御彰子とその住まいたる殿舎を、人々は羨望を込めて〝かがやく藤壺〟と呼んだ。

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