「あの……中宮様の御出産は、いかがなされたのでしょうか?」

 なんとか勇気を奮って、彰子は外の者に聞こえぬよう、小声で直接帝に訊ねてみた。帝は戸惑いの色を浮かべながら、外に控える女官に命じて塗り籠の扉を閉じさせた。外の男たちの間では、忍びやかな下卑た笑いが交わされる。

 帝は扉が閉められたのを確認した上で、相変わらず戸惑いを露わにして言った。

「今朝方、無事に生まれた。皇子であった」

「まぁ……」

 彰子は思わず顔を輝かせていた。出産で命を落とす者は数多い。定子が無事に、しかも皇子を産んだという事実は、ここ数か月の間の心配と悩みを一挙に晴らしてくれるに充分であった。

『良かった……。わたくしのことで御心を弱められて、もしものことがあったらと心配申し上げていたけれど。それも皇子だなんて……。これで、中宮様の御立場は御盤石。もう、お父様にもどうすることもできないわ。良かった、本当に良かった……』

 我知らず顔がほころび、気分が浮き立ってくる。そんな彰子を、帝は不思議そうに見つめていた。

「中宮が皇子を産んだことが、そんなに嬉しいのかね?」

「ええ、もちろんでございますわ」

「なぜ?」

「え?」

「左大臣にとっては、中宮は最も邪魔な存在のはずだが」

 帝の顔が、憤りに似た色を帯びて暗く曇る。

「だからこそ、でございますわ」

「よく判らないが……」

 彰子は父の裏切りに心を閉ざして以来、秘め続けてきた想いを初めて人に話した。声が外に漏れないという気安さもあったが、なにより中宮定子に最も近い存在だからこそ、話す気になったのかも知れない。

「わたくし……小さい頃から、ずっと憧れて参りましたの。中宮様の御事を。中宮様は、わたくしの御従姉でもあられますし、なにより主上との御仲のよろしさは都中の評判でございましたもの」

 驚いたような顔で、帝はじっと聞き入っている。

「今でもまだ、わたくしにとって中宮様は憧れの御方なのですわ。でも、もしかしたら――」

「もしかしたら?」

「憧れではないのかもしれませんわ。なんだか……物語で読む、人を恋する気持ちに似ているような気も致しますの」

「これは良い!」

 上機嫌で笑い出す帝を、今度は彰子の方が驚いて見つめた。

「わたくし……なにか、可笑しなことを申し上げましたか?」

「いや、可笑しくはない。ただ……きっと、昔の私の気持ちに似ているのではないかと思ってね」

「まぁ、主上の?」

「私は、あの人に初めて会ったとき、まだ十一だった。今のあなたより、もっと幼い。あの人は十四で、それはもう美しい人だった……。私の周りは、それまで年寄りばかりでね。そのせいもあってか、私の目には、まるで天女のように映ったのだよ」

 恋人の噂を聞くかのような想いで、彰子は胸を躍らせながら聞いた。自然、膝が進み、いつしか前に乗り出すように身を動かしている。帝は、それを嬉しそうに見つめながら先を続けた。

「あの年代では、三歳も上だと果てしなく大人に感じられるものだ。その上、あの人は美しいだけではなく、才知に富んだ人だったからね。私は自分の幼さ、拙さに歯噛みしたものだった。あの人に追いつきたい、あの人にふさわしい男になりたい。そればかり思って、必死に修練を積んできた……」

「まぁ……主上が? きっと、人々の噂以上に素晴らしい御方なのでございましょうね。一度でいいから、わたくしもお会いしてみたい……」

 夢見る想いで、遠い彼の人の姿を脳裏に描く。天女のように美しい女人。肌は抜けるように白く、漆黒の髪は豊かに流れる。宝玉のような美しい瞳に、赤く艶やかな唇――だが、どんなに思い描いてみても想像は想像でしかない。彰子は淋しく笑った。

「わたくし……八歳の頃に一度、中宮様にお文を差し上げようとしたことがありましたの」

「ほう、文を?」

「ええ。どうしても、お友達になって戴きたくて……。あの頃、わたくし……父を信じ切っていましたわ。女房たちは、父と中宮様の御父上との仲が悪いと申しておりましたし、母も中宮様のお話をするのを嫌っていて……。それでもわたくしは、父はそんな人ではない、父は優しく気高い人のはずだと信じて疑いませんでしたの。それで……」

「それで?」

 思わず口ごもるのを、帝が優しい瞳で促してくれる。彰子は、それに応えるように微笑むと、先を続けた。

「父は中宮職の大夫でしたから、中宮様の御前に上がることも多いと思いまして、お文のお使いをお願いしましたの。わたくし、その御返事を夜も眠れない想いで待っておりましたわ。そうしたら父は、中宮様は会って下さらなかった、女房に文を渡したが御返事を戴けなかったと言って……」

「嘘だったのだね?」

 いつの間にか目が潤んでしまっているのを、帝は目に留めたらしい。彰子は小さく頷く。その途端、涙が一粒、握りしめた手の上にこぼれ落ちた。

「父が立ち去るとき、袖から蘇芳の花びらが一枚、ひらひらと落ちたのです」

「蘇芳の花びら?」

「お文ですわ。わたくし……蘇芳の薄様を使いましたの。父は、それを破いておいて、わたくしに嘘を……それも、中宮様を貶めるようなことまで言って……」

「そう……。ずいぶん傷ついたことだろうね、一途な幼心に……」

 その言葉に、初めて自分の心を理解してくれる者を見出した想いがして、彰子の胸に熱いものがこみあげてきた。

「辛かったのだね、可哀想に……」

 帝は彰子の体をそっと抱き寄せた。その瞬間、彰子の瞳から堰を切ったように一気に涙があふれ出した。

「お父様なんて……お父様なんて、嫌い……大嫌い……」

 いつしか彰子は、それまで大人びた仮面で隠し、ずっと抑え続けてきた感情を、初めて人前で露わにして泣きじゃくっていた。帝は幼子にするように、背中を撫でさすって慰めてくれる。

「よしよし……今までずっと一人で耐えてきたのだね。誰にも言わずに心に秘めておくのは辛いことだ。今度からは、嫌なこと辛いことがあったなら、なんでも私にお言い。私ならば遠慮はいらない。人に言えない想いも全部、私が聞いて上げるから……」

 長年、内に秘めてきた哀しみ、苦しみをすべて吐き出すのには時間がかかった。それでも帝は、ずっと抱き締めたままで慰めてくれていた。

「申し訳ありません……。わたくし……」

 やっと興奮が収まって、自分のはしたなさに気づいた彰子は、慌てて身を起こそうとする。

「良いのだよ。私だって、あなたと同じだ。私の立場では悩み苦しみを人に話すこともできない。私は男だし、あなたよりもずっと年上だ。なのに、あなたは女のか弱い身で、その年でずっと一人で耐えてきたのだからね」

「主上……」

 彰子は涙を袖で拭って、帝の優しい顔を見つめた。

「……ずいぶん時間も経ってしまったようだな。そろそろ引き揚げなくては」

「もう、戻られてしまいますの?」

「今頃、庇の者たちは私のことを笑っているよ。好き者だとね」

「……?」

 意味が判らず、彰子はきょとんとする。その手を握りしめて、帝は諭すように言った。

「良いね。本当になにかあったら、なんでも私に言っておくれ。どんなことでも、人に話してしまえば心は軽くなるものなのだから」

「はい」

 帝はにこりと微笑んで、目を合わせたままで立ち上がろうとする。

「あ……」

「なにかね?」

「あの……ありがとうございました」

 また優しく微笑むのを見上げて、彰子は恥じらいながら言った。

「失礼をお許し下さいましね。わたくし……なんだか、お兄様ができたような気が致しますの」

「お兄様か、それは良い」

 帝は高らかに笑う。

「兄弟の誰一人としていない私に、この年になって、こんな可愛いらしい妹ができるとは思わなかったな」


 清涼殿へ戻った帝は、すぐに女御の宣旨を下し、蔵人に持たせて東北の対へと送った。それへの感謝の意味で、道長以下の藤原氏の公卿殿上人は弓場殿で拝舞し、帝から禄を賜った。従三位藤原朝臣彰子は、このときをもって正式な女御となったのである。


 翌日、の刻の朝膳を済ませた後、彰子は脇息に寄りかかって、一人密かに昨夕のことを思い出していた。

『主上があんなにお優しい御方だなんて、思いもよらなかったわ』

 ふいに、帝の胸を借りて泣きじゃくった自分の姿が脳裏を過ぎる。

『わたくしったら、子供みたいに泣きじゃくってしまって……あんなみっともない……。主上は微笑まれていらっしゃったけれど、本当は呆れていらっしゃったのではないかしら……』

 恥ずかしさのあまり、思わず両手で顔を覆う。誰かに見られてはいないかと心配になり、そっと周囲を窺ってみたが、女房たちの半数近くが局に下がっていた。昨日で入内の儀もすべて完了したので疲れが出てしまったのかもしれない。残っている者は少なく、皆、殿上人の誰が良い彼が良いといった話に夢中で、こちらを見ている者はいなかった。

 ほっとした彰子は、また物思いに耽り始める。

『大人ぶったことを言っておきながら、あんな子供じみた真似をするなんて……恥ずかしい……』

 今さらながらに自分の行いが悔やまれる。だが、〝兄〟と〝妹〟という形で二人の関係が落ち着いたのであるから、見逃してくれているかもしれない、などとも思う。

 そう無理に思いこもうとしていた矢先、帝の来訪を告げる先触れがあり、彰子は、あまりの決まりの悪さに慌てふためいた。

『嫌だ、どうしよう……。主上の御顔、恥ずかしくてまともに拝せそうもないわ……』

 おろおろしているうちに、帝が供奉を引き連れて到着した。目の前に現れた帝は、裾を長く引いた小葵文様の白いお引き直衣を身につけ、立纓りゅうえいを頭に戴いて優美そのもの、威厳という言葉そのものの姿であった。

 その姿のあまりの畏れ多さに、彰子はよけいに恥ずかしくなり、身の置きどころのない心地で俯いていた。

「女御様、いかがなされました?」

 帝の顔を見ることもできず、几帳の陰に隠れるようにしている彰子を、年配の女房がそっと覗き込んでくる。

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