三夜の務めが終わり、彰子はようやく、東北の対でのんびりと過ごすことが許された。とりあえず露顕ところあらわしの儀までは帝と会うこともない。三夜続けて召されたとはいえ、暗い寝所のことで、まだ一度も帝の顔を見てはいなかった。

 上流貴族の正式な結婚は、女方の両親の了解のもとで婿が三夜通い、その翌朝に露顕の儀と言って、初めて明るいところで相対する。そのとき、三日夜みかよの餅と呼ばれるものを固めとして食べて知人友人に結婚を披露し、饗応が行われる。これによって、世間にも正式に結婚が認められるのであった。

 帝への入内も臣下の例に倣い、女側が通うという変則ながら同様の経緯を辿る。入内の前に卜定して儀式の次第が定められ、それに沿ってすべてが行われるが、露顕の儀も三日目の翌朝が原則とはいえ、実際には物忌みの凶日を避けるなど何日もずれ込む場合が多い。彰子の場合は、四日後の十一月七日と定められていた。

 その束の間ではあるがゆったりとした生活の中で、彰子は何とか、心にもゆとりを取り戻すことができた。これまでの数日、自分のことで精一杯であったのが、やっと他のことにも心を向けられるようになっていた。

『そういえば中宮様……ご出産がそろそろのはずだけれど、どうなさっていらっしゃるかしら』

 彰子の華やかな入内に取り紛れ、本来ならば今上の御子出産という一大盛事のはずが、すっかり世の中から忘れられ、霞んでしまっている。中宮という至尊の位にある者の出産だというのに、あまりにも痛ましい。

 その中宮に対し、父道長が未だ有形無形の圧力を加え、蔑ろにしていることを彰子は知っていた。もちろん直接言ってくる者がいるはずはない。だが、時折り訪ねてくる殿上人や側近の女房たちの態度から、うすうす気づかざるを得なかった。

『お父様は、人のお心をお持ちじゃないのではないかしら……。中宮様の御境遇も皆、お父様が仕向けられたこと。もう、お父様に対抗する御力もないはずなのに、まだ……御安産のための祈祷も、僧が思うように集まらないと聞くわ。誰も彼も、お父様の顔色を窺って……公卿たちばかりか、俗世を捨てたはずの僧侶たちまで……なんて情けない……』

 たとえ直接の助け手とはなれなくても、自分だけは定子の味方なのだ――彰子は俗欲に満ちた人々を軽蔑し、一方では、不幸な定子をいっそう恋い慕った。


 庇の間で殿上人の相手をしていた女房のうち、手持ちぶさたにしていた者が一人、彰子の座所に近づいてきた。ごく古い者数人の他は、ほとんどが新参の女房である。この者もやはり新参の女房で、小左衛門こざえもんと呼ばれていた。

「姫様、ご退屈そうでいらっしゃいますね。草子でもお読み致しましょうか?」

「そうね。あなたは朗読が上手だものね」

 小左衛門は、いそいそと二階厨子から草子を取り出してきて、座所の傍らに侍した。

「ねぇ。中宮様は……どうなさったのかしら。なにか聞いていて?」

「まぁ、姫様。さすがに三夜のお務めを終えられて、ご自覚がおできになられましたのね」

「自覚……? なんのこと?」

「帝のお妃としてのでございますわ。それで、中宮様の御事をお気になされていらっしゃるのでございましょう? 大丈夫でございますよ。たとえ皇子がお生まれになったとしても、殿のご権勢をもってすれば、姫様のお立場にはほんの少しも障りなどはございませんわ」

 年若い小左衛門は、華々しい行列に続く入内の様に酔い、宮中に上がった晴れがましさに興奮しているらしい。妙にうきうきし、言葉の端々に誇らしげなものが読みとれる。

『ああ……やはり、わたくしの心を判ってくれる者など一人もいないのだわ。誰もわたくしを理解する者はいない……。ここにいる女房たちも皆、あの公卿や僧侶たちと同じなのかもしれない……』

 彰子は悲しかった。誰一人、心を分けられる者がいないことが。一人で良い。自分の心を理解して、支えとなってくれる者が欲しかった。


 十一月七日。この日は、彰子が正式な女御になることを決められた日であり、かつ皮肉な一日でもあった。

「宮様、しっかりあそばして」

「もう少しでございますよ」

 まだ夜の明けぬうち、中宮定子は二度目の出産を迎えようとしていた。二度目のせいか、思いの外軽く済んだ。ようやく朝が訪れたかという卯の刻、ついに今上帝の第二子が誕生した。

「宮様、宮様……男御子でございますよ。ご待望の皇子がお生まれになったのです」

 助産をしていた女房が、せき込んで定子に告げる。周囲は湧きに湧いた。それを告げた女房はもちろん、白い御帳台の外で今か今かと待ちかまえていた女房たち、兄の伊周や弟隆家も皆、嬉し涙で顔を輝かせた。

「そう。無事に生まれたのね……」

 定子は、やつれた顔に笑みを浮かべた。後産の方も滞りなく終わり、産所に集まった者たちは喜色を浮かべながら宮中への報告、誕生後の儀式の準備などで右往左往する。

『皇子だった……』

 大仕事を成し遂げ、定子は、やっと身を横たえて一息つくことができた。産所の外の慌ただしさを感じながら、現在の状況に思いを馳せる。

『今上の一の皇子……本来ならば、いずれ皇統を継ぐべき御子。でも……果たしてそれを、あの道長殿が許すだろうか。あの人にはもはや、わたくしの中宮の位などものの数ではない。主上ですら、道長殿に御遠慮なされているぐらいなのだから……』

 中宮の位、第一皇子の出産。本来ならば、これ以上はない身の安泰である。これによって世の人々からは尊重され、宮中での重みも格段に増す。だが、今の状況では、それは甘い夢でしかない。

『今はまだ良い。でも、他に皇子が生まれたとしたら……たとえば、道長殿の血を引くような……。道長殿の姫は、一日に入内したと言う。既に三夜も終えて……そろそろ正式に女御の宣旨も下されることだろう。女房たちは、いかに権勢を笠に着ているとはいえ、十二ではまだまだ相手にはならないと侮っているけれど……それも数年のこと。わたくしは、もう二十三。その姫が大人の女人として主上の前に立つとき、わたくしはもう……容色もなにもかも衰え、きっと惨めな想いをすることだろう……』

 周囲にはいつでも明るく振る舞いながらも、人には見せぬ心の内で、やはり暗いことばかりを考えてしまう。第一皇子誕生の事実も定子の慰めにはならなかった。


 この日、都は騒然となった。第一皇子の誕生を喜ぶ者、それを疎む者。また、道長の権勢を懼れ、顔色を窺う者などが入り乱れた。

 昼までの間に帝は、皇子誕生の報せを受けてすぐ守護刀を遣わし、また御湯殿おゆどのの儀など誕生にまつわるあらゆる儀式のためにと、宮中から多数の女官を遣わせた。天気快晴――帝の機嫌は近来になく最高に良かったと言う。

 一方での喜びは、当然他方での恨みつらみとなる。同じく帝に侍る女御たちは、その後見ともども平静ではいられなかったに違いない。もちろん、この事態を最も危惧していたはずの道長も――

 だが、そんな騒ぎには関わりなく、あらかじめ定められた儀式の次第は卜定通りに行われなければならなかった。新女御の補任である。

 夕方、露顕の前提として、まず帝から彰子に後朝きぬぎぬの文が遣わされた。臣下では床をともにした翌日、自邸に戻った男から女へと文が届けられるものだが、入内の場合には形骸的なものでしかない。

 後朝の文の使いとなって彰子に文を届けた蔵人の頭藤原行成に、道長が酒杯を渡して禄を与えた。この後、行成は彰子の返書を携えて戻る。これを受け取って、帝本人が東北の対へ渡ってくる手筈となっていた。

 返書を渡してから、四半刻ばかりが経った。

「主上がお渡りになられます」

 女官の先触れに、母屋の御簾内では一瞬にして空気が張りつめる。彰子は一人、儀式の行われる塗り籠の中にいた。

『主上……どのような御方なのかしら。人の口に上るように本当に才色を備えられた御方なのか、それとも……。わたくしが存じ上げているのは、ほんの少しのお声と御体に移った香の薫りだけ……』

 定子のことで帝に反発する気持ちと、曲がりなりにも夫となった相手にどこか期待するような気持ち。この二つが彰子の中で、いつの間にか共存してしまっていた。

 内裏の中とは言っても、帝の移動はかなり仰々しい。御剣を奉じた武官が先導し、帝の背後には公卿殿上人がうち続く。帝の一行は清涼殿から続く渡殿を進み、途中、切馬道きりめどうに渡された打橋を渡って東北の対へと到着した。

 西の孫庇、南庇に集った殿上人の拝礼の中、供奉の者を庇に残して、帝は女房のからげる御簾をかいくぐって母屋へと入る。御簾内の女たちも一斉に拝礼して出迎えた。

 塗り籠の南側の枢戸は開け放たれているが、四尺の几帳を置いているので、彰子のところからは帝の姿は見えない。だが、水を打ったような静けさの中、耳に鮮やかな衣ずれの音が聞こえ、その到来を知ることができた。

 夜の御殿の薄暗い燈明とは違って露顕であるから、この塗り籠の中にはいくつも燈台が立てられ、内部を明るく照らし出している。その火は、一日目の夜に夜の御殿から運ばれてきたもので、油を継いで灯され続けてきたものであった。

 彰子もまた、帝を迎えるために拝礼した。間もなく衣ずれの音が中へと入ってきて、自分の正面に立ったのが判った。しばし華やかな正装に身を包んだ彰子を見下ろしていた様子だったが、やがて座所へと向かって腰を降ろした。

「いい加減に顔をお上げ。私は、あなたの顔を見に来たのだから」

 初めて聞くような声だった。夜の御殿で聞いたのは、二言三言程度。あのときには暗く重く感じた声が、今は別人のもののように明るく響く。そして、その口調はどこか優しげでもあった。

 深窓の姫君は人に立ち交わることをあまりしない。同じ女人でさえ、顔を見せるのは肉親やお付き女房などのごく近しい者ばかり。男性に至っては、父や祖父、せいぜいが幼少の頃の兄弟くらいなものであった。それ以外の男性に顔を見せることは、そのまま、その妻になるに等しいというぐらい、高貴な育ちの女人にとっては重大なことなのである。

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