7
彰子は、異常なほどの父の力の入れように呆れながらも、美々しい室礼に目を奪われていた。座所に着き、脇息に身を預けて周囲を見まわすうちに、ふと北面の屏風が目に留まった。
「これは……」
屏風の
「お父様があなたのために用意した、一番のお道具ですよ。ご覧なさい。そうそうたる顔ぶれでしょう。公卿の皆さんが、あなたの入内を祝ってお歌を詠んで下さったのよ」
倫子は屏風の方にいざり寄り、十二帖あるうちの一つを指し示した。色紙形には詠み人知らずとある。
「このお歌、どなたからだと思って?」
「…………」
「憚りがあって、お名前を記すこともできないような畏れ多い御方……太上天皇であられる、あの花山院がお寄せ下さったものなのですよ」
「法皇様が……!?」
「そうですよ。これはもう、大変に名誉なことです。臣下の姫の私事に、このようなお志を戴けるなんて――」
頬を紅潮させ、我が夫我が娘の栄華に酔いしれる倫子。その母の言葉は、もう彰子の耳には入っていなかった。
『なんということを……院がわざわざ、ご自分からなされたことのはずはない。また、お父様が……権勢を笠に着て強要なさったに違いないわ。それに公の位にある公卿の方々にまで……お父様は、どこまで傲慢になられていくのだろう……』
我が父の奮う傍若無人な権力が今さらながらに怖ろしい。彰子は、背筋が凍るような身の震えを感じずにはいられなかった。
「花山院のお歌は――ひな鳥を養いたてて松が
倫子は蒼冷めている彰子には一向に気づく様子もなく、屏風の各帖、各歌を満足げに見渡しながら尚も続けた。
「ほら。これなどは、入内のめでたさを最も良く歌い上げているものですよ。お父様も、このお歌を一番お気に召していらっしゃるわ。あの公任卿がお詠みになったのです。――紫の雲とぞ見ゆる藤の花 いかなる宿のしるしなるらむ――これは、屏風づくりのお席で皆さんの拍手喝采を浴びたとか。なるほど良くできていますこと」
紫の雲とは暗に后のことを差す。また、藤の花とは藤原一族の姫、つまり彰子のことである。公卿の身でありながら、あまりにも権勢への追従はなはだしい。
『いったい……公卿ともあろう方々が、なぜこうもお父様の顔色を窺わなくてはいけないの……? 朝廷の権威は、そこまで堕ちてしまっているの……?』
ますます暗い想いで胸を塞ぐ当人をよそに、きらびやかな美しい女房たちが集い、さらに南庇にも西庇にも、祝いに駆けつけた公卿殿上人が鈴なりとなって賑々しい活況を見せる。そこへ左大臣道長の登場で、場はいっそう盛り上がった。
「この度は、我が姫の晴れの日に労を取っていただき、誠にありがたいことと喜んでおりますぞ。後に私より心ばかりの禄を差し上げるが、まずは
女房の陪酌で、道長が土器に注がれた酒を三杯飲み干し、公卿の最上席の者へと盃を渡す。同じように三杯飲み干した後、次々と同じように上位の者から下位の者へと盃が流れていく。
盃が一巡りしたところで、それを待っていたかのように、清涼殿から
「従三位藤原朝臣彰子の伺候を許す」
一同はまた喜びに湧き、口々に祝いの言葉を述べる。それを受ける道長の顔は、酒の酔いも手伝って喜色が露わに浮かび、すっかり崩れてしまっていた。
「さぁ、姫。定められた刻限です。早く御前に上がらなくては」
倫子が気の進まない彰子をさかんに促し、手を取ってせかす。供をする女房たちもいそいそと仕度を始めた。
やがて彰子は自らの意思にはまったく関わりなく、帝の妃となるべく東北の対を出て、一条院の中殿――清涼殿代へと向かわなくてはならなかった。
東北の対から中殿への渡殿に打橋がかけられ、一行はしずしずと夜の御殿を目指して進んでいく。まず、夜の御殿に隣接する控えの間、上の御局に入る。女房たちはここに残り、先に倫子が夜の御殿へと入っていく。帝の
女官の手で、塗り籠の枢戸が重々しい音を立てて開かれた。彰子は、その音に身を固くし、胸が潰れるような不安におののいた。乳母の手で裳が外され、唐衣とその下の袿がまとめて取り払われる。白の小袖と緋の長袴だけになった彰子の緊張は、さらに高まっていった。
『中宮様……どうか、お許し下さい。わたくしが望んだことではないのです……。どうすることもできなかったのです……』
憧れの人への裏切りに、心は暗く沈んでいく。そして今、見知らぬ世界へ足を踏み入れようとすることへの懼れが、緊張の極みにある身体を震わせた。
やがて女官に促され、乳母に付き添われた彰子は夜の御殿へと足を踏み入れた。四隅に燈台を立てた内部は仄かに明るい。御帳台の前の畳には、燈火の世話をする女官と倫子が座っていた。女官の顔には、彰子の姿を認めた途端、その幼さに戸惑うような色がありありと浮かぶ。
倫子の手には帝の沓があった。この後、上の御局に戻り、その沓を抱いて寝るのである。臣下の結婚で女方の親が婿の足が遠のかないよう願って行う、
「ご心配なさらなくてもよろしいのですよ。なにごとも、主上の御心のままに……」
小声で囁く乳母に対しかすかに頷いてみたものの、やはり震えが止まらない。彰子は促されるままに、女官のからげる御帳台の帳をくぐった。
御帳台の中は東枕の側に厨子が二つ、反対側に
だが、彰子には、御帳台内部の室礼などに気を留める余裕などはなかった。薄暗い中、茵の上に人の姿がある。じっと座ったままで身じろぎ一つせず、彰子を見ているようにも思えた。そんな気配は判るものの、外のかすかな灯りだけでは、中にいる人の顔の判別すらできない。
「さぁ、姫様。どうぞ、もっと奥へ」
気後れして入り口に座り込んだままの彰子の背を、乳母が容赦なく押しやる。彰子は仕方なく奥へと進み、帝らしき人の傍らに座った。
「よろしいですか?」
母倫子が一声かけて、夜具の
帝は彰子の体を茵に横たえて、自らも横になった。その上に倫子が重々しく衾を引きかける。役目を終えた倫子が立ち去り、女官の手で帳が下ろされて、とうとう御帳台の中は二人だけになった。
相手にも聞こえるかと思うほど、彰子の胸の鼓動は高まっていた。緊張した身体は、金縛りにでもあったかのように身動き一つできない。ほんの僅かな時間が果てしなく長く感じられた。
かすかな衣ずれの音を立て、身を起こした帝は、しばし彰子を見下ろしていた。やがて、その手が、そっと彰子の胸元に差し込まれる。
「!」
彰子は突然のことに驚き、いっそう身を固くした。素肌に直接、人の手の温かい体温が伝わってくる。まだ十分には膨らんでいない乳房に触れた手は、なぜかそのまま動こうとはしない。
「……十二、か。このような幼き姫まで政権の具とするか……。哀れ、愚かな権勢の虜よ」
帝が低く呟いた。
『帝……? 政権の具……権勢の虜……わたくしと、お父様のことを言っておられるの……?』
その声に憤りと深い哀しみを感じ、彰子は思わず帝の顔を見上げていた。だが、あまりにも暗く、その表情どころか顔すら良く判らない。しばらくして、素肌が外気に触れたかと思うと、相手の温もりと重みが直接伝わってきた。
朝方早く、まだ夜も明け切らぬうちに彰子は、乳母とともに夜の御殿を出た。そして、上の御局で待っていた倫子や女房たちと、東北の対へと戻った。昨夜、庇に鈴なりとなっていた男たちは既に一人もおらず、父道長の姿もない。あまたの女房たちだけが、彰子の周囲を取り囲む。
「お眠うございましょう。少し、お休みになられた方がよろしゅうございますわ。まだ二夜のお務めがございますから」
臣下の婚礼に倣い、入内の場合も三夜続けて同衾するのが定めである。女房の勧めに従い、彰子は衣を脱がさせて御帳台に入った。
身を横たえた彰子に衾をかけ、女房は静かに帳を下ろす。やっと一人になることができた彰子は、天蓋を見つめながら重い溜め息をついた。あまり眠っていないはずなのに、まるで眠気というものがない。生まれて初めての経験に、まだ緊張と興奮が収まらないのであった。
『わたくしは……とうとう中宮様と同じ、帝の妻になってしまった……』
脳裏に昨夜のすべてが甦る。帝の呟いた言葉、肌の温もり、体の重み――二十歳となって既に一人前の男性となっている帝の手慣れた愛撫も、いかに思慮深く大人びているとはいえ、やはり幼い身には煩わしく厭わしいことでしかなかった。
『これからずっと……あんなことをしなければならないの……?』
そう想ううちに涙があふれてくる。心の傷は深く、体に残る痛みと相まって眠ろうとしても眠れない。ようやくにして眠りに落ちることができたのは、それから一刻ばかりも後のことであった。
二度目の務めを終えた翌日。彰子は東北の対に戻って昼近くまで眠った後、やっと御帳台から出て洗顔と身繕いを終え、食事を済ませた。
「本当に、あなたは幸せですよ」
倫子が物憂く脇息に身を預けている彰子に、噛んで含めるような口調で言う。倫子は三夜の衾覆いをして、婚姻の正式な成立を見届けた後、土御門殿に帰ることになっている。
「わたくしも、あなたと同じように后がねとして育てられたけれど……わたくしの場合は運が悪かった。わたくしの娘の頃には、御年の釣り合う帝も東宮もいらっしゃらなかったから――」
その言葉に、彰子ははっと母の顔を見上げた。
「――でも、今上は御年二十歳であられ、あなたとは調度良い釣り合いというもの。殿のお話では、才色ともに欠けたるところのまったくあられない御方で、それはもう素晴らしい殿方でいらっしゃるとのことです。そのような御方の妃になれるなど、これ以上の幸運はありませんよ。あなたは、この世の幸せという幸せ、栄華という栄華を一身に浴びるよう生まれついたのです。本当に羨ましいこと」
そう言う母の顔には、我が娘に対して羨望のような色が浮かんでいる。彰子は思わず訊ねていた。
「お母様も……やはり入内なさりたかったのですか?」
「それはそうですよ。帝の妃となって時めくことは、女にとって最高の栄誉であり、幸せですからね」
「そうでしょうか……。では、お母様は、お父様と結婚なさったこと……悔やんでおいでなのですか?」
「そうね、母上のご一存で結婚させられたときには……。あの頃のお父様はまだ
倫子は、権勢家の妻としての心驕りをありありと見せて微笑む。
『そんなものなのだろうか……。いいえ、違う。お母様は、お父様の得られた権勢に目が眩んでいらっしゃる……。どうして地位とか名誉とか、そんなことばかりを気になさるの? そんなものが真の幸せだなんて……わたくしには思えない』
やはり母は、自分とは相容れない対極の位置にいた。彰子は、ただただ空しいものだけを感じていた。実の母とはいえ、貴婦人と言うものは乳母にすべてを任せて手ずから育てることはない。そのような母に、子の悩み苦しみ、不満などが判るはずもない。そして、それが上流貴族の、ごく当たり前の母子の姿というものであった。
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