『事ここに至ってはもうどうしようもないけれど、わたくしは……できることなら入内などしたくはない。このまま、どこかへ逃げてしまうことができるなら、どんなに良いかしら。入内することで、わたくし自身が幸せにはなれないことも、人をどれだけ不幸にするかもよく判っているのだもの……』

 幼い頃、憧れ続けた後宮。その夢を彩ったのは中宮定子であった。定子そのものが夢の後宮であった。定子の存在がなければ、あれほど後宮に夢を描き、憧れることなどなかったに違いない。

 定子に憧れ、確かに自分もそのようになりたいと願った。だが、決して定子を越えてなどという夢ではなかった。それが今、自分は夢そのものであった定子に敵対し、その立場を脅かすべく後宮に入ろうとしている。彰子の中では、幸福の代名詞であったはずの後宮への夢は、とうにおぞましく不吉なものへと変わってしまっていた。

 帝がどういう人間であるか彰子は知らない。彰子にとって今上帝は、定子の夫でしかないのである。これから自分の夫にもなるのだという事実がまったく理解できず、認識さえも未だにできていなかった。

『どうしてなのかしら……。帝は、中宮様をこの上なくお愛しになられているというのに、どうしてわたくしの入内をお許しになったのかしら。お父様が無理に決めたのかもしれないけれど、お嫌なら拒まれることもできたはずなのに……それとも帝という御方は、それさえもおできになれないほど無力な御方なの……?』

 考えれば考えるほど帝に対する不審は募る。賢帝という人の噂などただの噂に過ぎず、実は凡愚な無能力者なのではないかとまで思えてきた。そういう人間の元へ行かなければならない自分が、いよいよ不幸に思えてしまう。

「姫様、まだ起きていらっしゃいますか?」

 乳母の声であった。

「なあに? なにかあったの」

「ええ、ちょっと失礼致します」

 そう言って乳母は御帳台の中に入ってきた。手に紙燭しそくを持っている。外に燈台が立てられてはいても、一つ二つでは充分なわけはない。その薄暗かった帳の内側が、紙燭の火によって仄かに明るくなった。

「どうしたの?」

「ご入内の前に、姫様には是非ともご覧戴かなければならないものがございまして」

「……? なにも、こんな遅い時刻に……明日、起きてからでもいいでしょう?」

「いえ、昼間にご覧になるものではございませんので」

 ますます判らない。不審に思う彰子をよそに、奥まで入って枕元の灯台に火を点けている。やっと相手の顔が見極められるまでに明るくなった。乳母は紙燭の火を消しつつ、彰子を起きあがらせ、隅に追いやられていた脇息を引き寄せて前に据えた。

「いったいなんなの?」

ねやのお作法にございます」

「閨のお作法って……?」

 訊ねるのには答えず、乳母は懐中から一巻の巻物を取り出し、脇息の上に広げた。

「嫌……なんなの、これ……?」

 絵巻であった。しかも、常日頃見慣れているような美しい物語絵などではない。あからさまな男女の秘め事であった。呆然として言葉も出ない。そんな彰子に、乳母は事細かに説明を加えていく。貴族の子女の結婚にあたって、性教育は乳母の仕事の一つでもあった。

 物語に著された男女の恋は、ひたすら美しいもの。もちろん彰子も、幼い頃からそういった恋物語に胸ときめかせ、乙女心に憧れを抱いてきている。そんな稚ない認識には、現実はあまりに過酷で衝撃的であった。

 このことは、ただでさえ入内に気後れを感じていた彰子を、いっそう憂鬱にさせた。


 長保元年十一月一日、いよいよ入内の当日――西の京、太秦連雅の邸には十人あまりの公卿を始め、あまたの殿上人が群れ集っていた。他に二十人近い左大臣家の家司も押しかけ、ますます盛大な賑わいを見せる。

 その騒ぎを、彰子は寝殿の奥で聞いた。眼前には、このときとばかりにきらびやかに着飾った女房たちが居並び、傍らには、三日間入内に付き添うことになっている母倫子がいる。

 今、彰子の体には、道長がこの日のためにと用意させた華麗で豪奢な衣が、次々と着せかけられようとしていた。

 昨日、沐浴を行って清めた素肌に白い小袖を着て、長袴を着ける。長袴はきぬたで打って張りと艶を出したもので、目の覚めるような緋色であった。

「袴の色……いつもと違うのね」

「姫様は、これから入内なさるのですからね。いわば、帝とご結婚なされるようなもの。ですから袴は、人妻の証である緋色にしなければならないのですわ」

 人妻――どこか面映ゆい心持ちにさせる言葉である。彰子は、自分の腰にしっかりと結びつけられた人妻の色に、改めて今日から自分が変わってしまうのだと感じた。

 幸菱のさいわいびし白い単の上に羽織った八枚の袿は、それぞれ入子菱いりこびしの地紋を織りだしてあり、真紅から一枚ごとに色を薄いものにして最後に白を加えた〝くれないの薄様〟と呼ばれる襲ね色目である。そして艶のある赤い打衣うちぎぬ三重襷みえだすきを繁紋にした地紋の上に、向蝶を別糸で織りだした二陪織物の真紅の表着。さらに、その上に亀甲の地紋に向蝶を重ねた二陪織物の赤の唐衣を羽織る。もちろんすべて絹であった。

 最後に白綾の裳が結ばれる。三重襷の地紋の上に小葵紋を織りだした二陪で、その引き腰には雲立涌紋くもたてわくもんを織りだした錦を使っている。彰子にとっては二度目の正装であった。だが、今回の装束は最上の品で、裳着のときのものなどとは比べものにもならない。

「お美しゅうございますわ。姫様」

 着衣の仕度をした女房が、助手の女房から衵扇を受け取り、目映いものを見るような眼差しで恭しく捧げた。

 檜でできた扇には、山々に紫の雲がかかる美しい大和絵が施され、その両端には三尺以上もある鮮やかな飾り紐が垂れている。正式の装いに正式の扇を手にして立つ彰子は、まさしく一人前の貴婦人であった。

「姫や、仕度はできたかね」

 御簾をからげて奥へと入ってきた道長は途中で足を止め、まじまじと我が娘の晴れ姿に見入った。

「おう、これは……これはまた、なんという艶やかさじゃ。さすが我が鐘愛の姫。これほど美しい姫は、この世に二人とおるまいて。幼い頃より、后がねとかしずいてきた甲斐があったというものよ」

 ほとんど涙ぐまんばかりである。その道長を、傍らにいた倫子が咎めた。

「まぁ、いけませんわ。晴れの日に、涙は不吉でございましょう?」

「おう、そうであった。だが、我が姫のこれほどまでの成長ぶりには、さすがのこの私も胸が熱くなってな……」

 言っているうちに、本当に熱いものがこみ上げてきたらしく、道長はしきりに目元を袖で抑えている。

『お父様のお人柄のすべてが、今わたくしに見せて下さるようなお心で満たされていたのなら、わたくしはなにも思い悩む必要はないのに……』

 彰子は、父母のやりとりを複雑な想いで聞いていた。日頃の小袿姿こうちぎすがたとは違い、体を締め付ける裳や唐衣などが息苦しく、いっそう煩わしい想いにかられる。

「内裏より、お使いが見えましてございます」

 女房の奉上で、道長は弛みきっていた顔を引き締めて威を正した。帝からの正式の使いと知って、一同は礼を取る。

 太政官だいじょうかん右中弁うちゅうべんが奉じてきた宣旨書を、帝の伝宣を職務の一つとする蔵人が読み上げた。彰子に輦車の使用を許すとのものである。内裏の内部へは牛車は入れない。勅許を受けた者だけが、輦車という人力の車で通行することができるのである。これは、大変に名誉なことであった。

 道長や倫子、お付きの女房たちの晴れがましい顔。その中で彰子は、自分にそこまでしてくれる帝の思惑が、ますます判らなくなっていた。

 やがて定められた刻限となり、上臈女房に手を取られて、彰子は寝殿近くまで引き入れられた唐車へと乗り込んだ。続いて母倫子が乗り込んでくる。女房たちも延道を渡って、用意された小八葉紋こはちようもんの牛車へと向かい、序列に従って次々と乗り込んでいく。

『いよいよ……帝のおられる今内裏へ……』

 牛がつがえられ、ゆっくりと動き出した車に、彰子は思わず感慨を深めていた。唐車を先頭に、女房たちを乗せた女車が次々と門を抜け、都大路へと出ていく。


 重々しくきらびやかな大臣用の正式な唐車。それに続く女車の列。女車は、女房たちの美しい衣の袖を簾の外に押し出した、いだし車である。その華やかな出し車が何十台と打ち続く。これに騎馬で供奉するのは当代一流の公卿殿上人たち。さらに家人たちが、明々と松明を照らして付き従う。権力者道長の栄華をあますところなく世に見せつけた、華々しい入内の行列であった。

 西の京から一条院への通り道、大路という大路は暮れかかる空をものともせず、物見車が立ち並び、見物人であふれ返る。まさに道長の得意絶頂の一場面と言えよう。

 長い時間をかけて威勢を世に示しつつ、行列が今内裏一条院へ到着したのは、酉の刻になってのことであった。

『これが……内裏?』

 なんとなく拍子抜けがした。彰子が想像していたものとはまるで違う。本内裏が焼失したための仮内裏なのだから仕方がないとはいえ、仮にも内裏であるにしては、あまりにも規模が小さい。彰子の生まれ育った土御門殿の広大さには、もちろん及ぶべくもなかった。だが、やはり内裏であるというだけで、なんとなく厳かで神聖な場と思えてくるから不思議なものではある。

 一条大路に面した北門で、彰子は倫子とともに輦車に乗り換え、内裏の内側へ初めて足を踏み入れた。白砂を敷き詰めた上を、輦車は衛門府の八人の武官に引かれ、ゆっくりと居所にあてられた東北の対を目指していく。五十人近い女房、女童などは、その後ろから徒歩で付き従った。

 輦車が築垣に隠された東北の対の西面に付けられ、武官たちは女君への礼をとり背を向けて控える。彰子は、そこで待ち受けていた女官と従ってきた女房たちに護られるようにして車から降り、殿舎の中へと入った。

 東北の対では庭に篝火が幾つも焚かれ、母屋の庇の吊り燈籠にもすべて火が灯されて、華やかな明るさを放っている。母屋のうちへ入ると、彰子を迎える室礼はすべて済んでおり、あちらこちらに燈台が立てられていた。

「まぁ……」

 東西に渡って横向きに置かれた東北の対の母屋は、東の二間が塗り籠で、その横に御帳台が南向きに立てられており、さらにその傍らに座所が設えられている。母屋の周囲は真新しい御簾が巡らされ、北面には美しく染め上げられた壁代が下げられて、例の六曲一双の屏風が立ててある。

 美麗几帳、屏風の襲木おそいぎに至るまで、細工できるところにはすべて蒔絵まきえや螺鈿が施されていた。厨子ずし文机ふづくえなど調度という調度が、よそでは見られないような華美な名品ばかりであった。

 足を踏み入れた途端、そこはかとなく薫る空焚そらだきの香もまた並のものではなく、名香と名高い最高級のものが使われていた。

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