仲秋となり、この頃では昼には暑さの名残りがあるものの、朝夕は涼しく過ごしやすい時期となっていた。

 彰子は邸の奥深く、常に変わらぬ日々の中で、浮き立つ周囲とは裏腹に物憂げな顔で香筥を手にしていた。あの裳着の日、中宮定子から贈られたものである。

 中宮にしてみれば単なる儀礼にすぎないのであろうが、やはり彰子には、この上なく嬉しいものだった。もちろん中宮手ずから選んだ訳もなかろうが、それでも彼の人のゆかりの品と思えば大切にしないわけはない。

 雅やかな香は優美な筥とともに、定子その人の姿を彷彿とさせる。こんな風に好意を示してくれた相手を、自分が入内という形で踏みにじることになってしまったことが彰子の心を苛んだ。

 そんな彰子の想いも知らずに、側に侍る女房たちは下らぬ噂を愉しんでいる。入内のためにと方々から人を集めたので、今までの倍近い数となっていた。その新参者も含めて、女房たちは既に彰子が女御になったかのごとく、他の女御たちに敵愾心を燃やしている。それは当然、帝の寵愛を独占し、今また二人目の子を産まんとしている中宮に対して、とりわけ激しい。

「中宮様の行啓のご様子ったら、見られたものじゃなかったらしいものね。いくらなんでも、供奉する公卿がたったの二人だなんてねぇ」

「威儀を整えるはずの御輿が、かえって惨めだわ」

 その言葉に、彰子の心中に怒りの炎が燃え上がった。卑しい噂をする女房たちに、ではない。父道長に対して――

『すべてお父様の汚らわしい嫌がらせ……。わざわざ行啓の日に宇治へ行くなんて……なんて浅ましい。あれだけ中宮様を追いつめて、まだ足りないとでも言うの……。わたくしは、お父様のお心が情けない。お父様に媚びへつらう殿上人も同じ。帝だって……帝ともあろう御方が、なぜお父様のするに任せていたりなさるの? どうして中宮様をお護りして差し上げないの? 中宮様をこの上なく愛されているというのに、よくもこんな酷いことをお許しになるものだわ』

 彰子の怒りとは関わりなく、女房たちのあからさまな悪口は尚も続く。

「だいたい、行啓先の大進の邸っていったらなあに? こちらのお邸の十分の一もないっていうじゃない」

「殿上も許されていない大進ふぜいの邸だもの。しかたないわよ」

「ああはなりたくないものね。そんな地下人の邸しか宿下がりするところがないなんて」

「そうよね。その上、大進の邸の門は板屋ですって」

「嫌だ。まがりなりにも皇族の輿が板屋門に入るなんて……前代未聞じゃない?」

「ああ……私、こちらに出仕できて幸せだったわ。間違ってあちらなんかに出仕してたりしたら、今頃どんなに惨めな想いをしたことか」

「中宮様も、あのまま還俗げんぞくなさらなければ良かったのにねぇ。そしたら、こんな目には遭われなかったでしょうに」

 それだけは言ってはならないことだった。彰子は日頃のたしなみも忘れて、手にしていた扇を女房たちの膝元に叩きつけていた。

「あちらへ行ってっ!! あなたたちの顔など見たくないっ!!」

「ひ、姫様……?」

「な、なにかお気に障ることでも……?」

「下がれと言ったのが聞こえなかったの!?」

 その剣幕に見るも無惨に蒼冷めた女房たちが、あたふたと局へ逃げ帰っていく。

「わたくしの周りは、なぜこうも心様の醜い者ばかりなの……? 情けない……」

 彰子は己の境遇への絶望と、定子の境遇への罪の意識とに苦しみ、その日は、ついに女房たちと一言も口を利こうとしなかった。

 この彰子の怒りと嫌悪の激しさに、道長は、せっかく集めた女房の大部分を入れ替えなくてはならなくなった。今度は愛娘の機嫌を損ねないよう、人選に人選を重ねて選び抜いた。その甲斐あってか、ちょっとした言動にも品の良さを窺わせるような、生い立ちよく見目良く才豊かな女房ばかりが数十人と揃い、この人選は入内のきらびやかな道具とともに、さらに左大臣家の威勢を世に知らしめることとなった。


 中宮定子の出産が押し迫った十月の末、彰子は入内に先立ち、方違かたたがえのために西の京の太秦連雅うずまさつらまさ邸へ移ることとなった。陰陽師の卜定ぼくじょうによれば、入内に決められた十一月一日は土御門殿から今内裏一条院への方角は方塞かたふさがり――つまり凶方となるらしい。

 既に入内道具の大半は、居所にあてられる一条院東北の対に運び込まれており、あらかたの室礼も済んでいるとのこと。この入内前の数日間は彰子にとって、ゆっくりとくつろげる最後の日々となった。

「姫様。殿のお使いが、これを。宣孝殿から届けられた草子だそうでございます」

「まぁ……新しい物語ができたのね?」

 彰子は、草子を恭しく差し出す女房に明るい笑みを向けた。新しく出仕することになった女房たちは皆品が良く、最初に集められた女房たちのように下卑た噂に興じたりはしない。その落ち着きが好もしく、彰子の心に平安をもたらしてくれてもいる。

「嬉しいわ。さっそく読んでちょうだい。局に下がっている女房たちも呼んであげるといいわ」

「そうでございますね。皆さん、姫様に倣って物語好きな方ばかりですから」

 やがて女童の使いで、女房たちはいそいそと集まってきた。あまり広くはない邸のこと。寝殿の母屋には庇際まで人があふれていた。主人の側近くには侍ることのできない、身分の低い下臈げろうの女房たちも、女童たちと一緒に御簾を隔てた庇に集まってきている。皆うち揃って本当に物語が好きらしい。

 そんな様子を見渡して満足し、彰子は声の美しい女房を選んで草子を渡した。脇息を引き寄せ、朗々と読み上げられる物語に引き込まれていく。

 それは、『空蝉うつせみ』という題の小編だった。身分高い貴公子が方違えで受領の家に行き、そこの主の年若い妻と儚い逢瀬を結ぶ。年若い妻は突然の貴公子の狼藉に一度は身を任せ、心惹かれるものの、再度の逢瀬には意を決して応じることはなかった。そして、貴公子が忍び入ってきたことに気づいた妻は、着ていた薄衣うすぎぬを残して身を隠した。貴公子は心の痛手とともに、手元に残った薄衣の移り香で妻を偲ぶ――

 水を打ったように静まり返っていた一同が、読み終えたあと一瞬の間をおいて、ほうっと溜め息を漏らす。どの顔も、うっとりと頬を上気させていた。

「なんて素晴らしい……」

「本当に美しいお話……雅で愁いがあって……」

 上臈中臈の女房たちは、文章の美しさを褒め上げた。

「その妻のきっぱりとして、それでいて女らしい拒絶のしかたも、なかなかのものですわ」

「ええ。受領の妻という身分にありながら、高い身分の貴公子の心を奪ってしまう……。この妻の振る舞いは本当にみごとですわね」

 こう言って、しきりに感心しているのは中臈下臈の女房たちである。

 女房たちにも、それぞれ出自によって身分の差があった。めったにいるものではないが公卿の娘は上臈、四位五位の殿上人や大国のかみなどの受領の娘は中臈、小国の受領や家司けいしなどの娘は下臈である。上臈中臈の女房は主人の側近くに侍り、話し相手や取り次ぎなど室内の雑用に奉仕し、下臈の者は御簾内に入ることは許されず、本当の意味での雑用を行う。

 そして、成人の女房の他に数人の女童をおくのが通例であった。成人でそれなりの身分のある女人は、下々の者に顔を見せることはない。だが、十歳前後の少女たちには、そのような慎みは要求されず、文の使いなど御簾の外での仕事が任された。

 道長は入内を華々しく飾ろうとしてか、選び上げた四十人の女房と六人の下仕えを彰子に付けた。女童については、女院など各所から遣わされ、六人が仕えることになっている。

 そのほとんどが入内直前ということもあって参集し、この狭い寝殿を埋め尽くしている。それぞれに品があり、美貌を誇り、なかなかの見ものであった。

「姫様は、どのようにお聞きになられまして?」

 境遇の違いからくる様々な観点の違う感想が面白く、興深い想いで聞き入っていた彰子に、側近くにいた女房が話を向けた。

「そうね。やっぱり、これを書いた女人はただ者ではないというか……毎度毎度、新しいものができあがるたびに驚かされてしまうわ。風物や、その場その場の情景描写の細やかさといい、女主人公の心の機微といい」

「まったくでございますわ。それにしても、この方違えの折に頃合いよく、このような物語が届けられるなど面白うございますわ」

「本当ね。まるで申し合わせたみたいで愉快だわね」

 彰子は小気味よく小さな笑い声を立てた。それに呼応するように、女房たちに華やかな嬌笑がまき起こる。

「でも、短編ばかりというのも、ちょっと淋しい気もするの。この人、竹取や宇津保のような、長い物語を書いてみる気はないのかしら」

「そうですわねぇ。この人の筆ならば、きっと面白いものができるかもしれませんわね。竹取などに並び立つような……」

「ええ。宣孝殿を通じて、お勧めしてみようかしら」

 寝殿で女たちが物語論に夢中となり、束の間の平安を愉しんでいる頃、対の屋では、入内の仕度の最後の詰めが行われていた。入内に持たせる調度のうち、道長が最も力を入れている屏風の制作である。

 屏風は四尺で六曲一双。それぞれの帖に四季に応じた美しい大和絵が貼られていた。この屏風絵は今は亡き名絵師飛鳥部常則あすかべつねのりの筆によるもので、当代では名画中の名画であった。

 そして、その各帖の色紙形には絵柄に合わせた歌が、これもまた当代の名筆家である藤原行成ゆきなりの手で書き込まれることになっている。だが、なにより世の人々を驚かせることになるのは、名画や名筆ではなく、詠歌者の名によってであった。

 道長は、帝寵篤く第二子を懐妊中の中宮に当てつけるように、彰子の周囲を古今東西の名品珍宝で飾り立てようとした。年の足りぬ姫を引き立たせようという心持ちもあるのかもしれない。

 そういう思惑でか道長は、世に名高い歌詠みと言われ、かつ一流の公卿である者らに屏風の歌を詠進させ、彰子の格式を高めようとしたのである。しかも歌の依頼は公卿にとどまらず、もっと高貴な人物にまで及んだ。花山法皇――位を降りて出家したとはいえ、かつての天皇である。

 人々は、ある者は眉をひそめ、ある者は驚嘆して道長の権勢をたたえた。私事に公人である公卿や、さらに法皇にまで詠歌を依頼するということは、まさしく道長の専横であり、真の権勢の証左でもあるのである。

 そして、その依頼された者の多くがこぞって歌を詠じたのであるから、朝廷の権威などあったものではない。唯一その権威を守ろうとし、道長に追従することを拒んだのは、やはり中納言実資であった。実資だけは、道長の再三に渡る依頼を気概をもって拒み通したのである。

 夜も更け、彰子は、その屏風制作に至る事情など知ることもなく、入内への不安を抱きつつもなんとか眠りにつこうとしていた。

『中宮様は、どのようにお過ごしかしら……もうご出産も間近なはず。わたくしの入内のことで、ご気分を害してご出産に障りがないと良いのだけれど……』

 あの明るく聡明な定子も、自分をことごとく蔑ろにする権力者道長の娘の入内とあっては、平静ではいられないに違いない。そんな想い悩みが、出産で衰えた気力体力に凶々しい影響を及ぼさなければ良いのだが。彰子は切にそう願った。

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