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「中宮様への御見舞いでございますかな?」
すべてお見通しと言わんばかりの道長の射抜くような眼差しに、帝は、あからさまに不機嫌な顔となった。
「そなたに私のすることを、あれこれと咎めだてされる謂われはない。それとも私を見くびって、蔑ろにしようとでも言うのか」
「蔑ろなどと、これは心外でございますな。でしたらなにも、私に隠れてこそこそなさらず、堂々と御文をお遣わしになれば宜しいではありませぬか」
帝の顔に、みるみる怒気が浮かんでくる。道長は悪びれもせずに続けた。
「私は一臣下に過ぎないのでございますからな。この世は、主上の御ためにあるのです。なにをなさろうと主上の御自由。私は、それに従うのみでございまする」
綺麗ごとでしかない。名目上はともかく実際に国を動かし、臣下を動かしているのは、帝ではなく摂関家の一族であった。代々の帝が実質上の権力を失って久しい。既に皇位は、単に尊重されるだけの有名無実なものと化していた。この若い帝は、その時勢に反発し、己の無力さに歯がみしている。いかに帝が権威を示そうとしても、対抗するには北の藤波は力を持ちすぎていた。
「私の内覧も左大臣の位も、すべて主上がお認め下さったからこそ。我が姫も、主上のご同意なしには入内とてかなうものではございますまい。それを主上は、あの幼い姫に従三位の位までお与え下さり厚遇して下さる。心からありがたいと思わせて戴いておりますぞ」
「私の意志ではない。そなたと母上の意志ではないか。母上に私を説得させ、承諾せざるを得ないようにしたのは、そなたではないか」
「それでも! 主上のお許しがあったればこそ、でございまする」
帝をも威圧する威勢をその体からまざまざと発し、道長は不敵な笑みを浮かべる。
「気分が悪くなった。私は休む!」
扇を昼の御座に打ち付け、帝は、不快な表情で立ち上がって背を向けた。両者の会話に怯えながら傍らで控えていた内裏女房が、慌ただしく奥の御帳台の帳をからげる。
道長は、御帳台へと入っていく帝の背を平伏して見送った後、嘲るような色を浮かべて殿上の間へと移った。
殿上では、右大臣藤原顕光が公卿や殿上人たちと談笑していた。
「これは左大臣殿。ささ、こちらへ」
顕光は凡庸な人物であった。父親ほども年上であり、自らも右大臣の身でありながら、道長の傘下に与することに甘んじているような者である。右大臣の位まで昇れたのは、門地と、なにより道長の強い推しがあったからでもある。
道長にとって顕光は、敵となるだけの器のある人物ではなかった。毒にも薬にもならず、高い位を与えたからといって、道長に対抗しようとするような気概を持たない人間なのである。
その証拠に顕光は、娘を帝の女御として奉っている身でありながら、同じ帝に娘を配そうとする道長に全面的な協力をしている。我が娘の敵となるべき彰子のために、入内の準備まで手伝うような権力に弱い人間であった。
「女御殿は、いかにしておられる? 中宮が里下がりなされる折、帝をお慰め申し上げなくては困るではないか」
「はぁ……なにぶん、体の具合が優れない日々が続いておりまして。私も参内を勧めてはいるのですが、やはりその……」
顕光は皺の多い顔を苦しげに歪めた。顕光の娘とは、かの不肖出産で世の誹りを受けた承香殿の女御元子である。あれ以来、元子は体調を損ない、精神的にも深く傷ついて、里邸の奥深くに籠ったまま世に出ようとしないという。
「それは残念なことだ。弘徽殿の女御もくらべやの女御も寵を得られなんだが、そちらの女御は、帝の寵も並一通りではなかったというに」
「いやいや。寵を受けたといっても、中宮がおられないうちのこと。中宮が戻られてからは、やはり気圧されてしまって、この頃では主上の御文もとんと絶えてしまいました」
「なれば、中宮が御前を離れられる今こそ、再び帝の御許へ上がる良い機会ではないのかな」
顕光父娘を立ててのことではあるまい。おそらく道長の腹の底にあるのは、帝の中宮への思慕を、今のうちに少しでも削いでおこうというものであろう。もともと道長が他の大臣たちに娘の入内を勧めたのは、彰子が成人するまでの間、定子を牽制せんがためのもののはずであった。自己の栄華のためには平気で他人を踏みにじり、利用するだけ利用する。それが、摂関家の男たちの中でも、より強く藤原の血を受け継いだ道長のやり方であった。
「そうそう。実は最近、故重信公の北の方から宇治の別邸を手に入れたのだが、ようやく修理も終わってな。ついては、公卿殿上人を招いて盛大に宴を催したいと思っているのだが……」
それまで二人の会話を黙って聞いていた殿上人らが、宴と聞いて興深く話に加わってきた。
「私も是非、その宴へお招き戴きたいものです。重信公と申せば、なかなかの趣味人。さぞ、山荘も趣深いものでございましょう」
「うむ。訪れる者は誰であろうと喜んで迎えよう。美しい女房たちを集めて、音曲を愉しみ、酒肴を愉しみ、大いに騒ごうぞ」
「それはそれは愉しみにございますなぁ。それで、いつ宇治へ?」
若い殿上人らが目を輝かせて取り巻く。そのいつ、との問いに道長は一瞬、酷薄な笑みを浮かべた。
「明日の朝早く、夜明けを待って出発しようと思う」
「えっ!?」
誰もが驚いて顔を見合わせる。ついで、全員の顔にありありと戸惑いの色が浮かんだ。
「しかし、明日は……」
「もちろん、あなた方も供奉してくれような?」
反論しかけた殿上人の言葉を遮って、道長は、目に有無を言わさぬ強い光をたたえた。完全なる強要である。居並ぶ殿上人たちも、この傲慢にして不遜な権力者の前には、黙って跪く以外はなかった。
八月九日、
「中宮様が帝の御子をお産み奉るために里下がりをなさるというのに、誰も供奉に来ないとは……。殿上の方々はなにをなさっているの!?」
「もしやまた、左大臣側の嫌がらせでは……?」
ざわめく女房たちから離れて、清少納言は座所の定子の側にいた。
「行幸や行啓の常ではございますが、このたびもやはり遅れてしまいそうですね」
「そうね。あまり遅くならないと良いのだけれど……」
既に仕度の整った定子は、口とは裏腹に脇息に身を預けてゆったりとくつろいでいる。出産を三月後に控え、膨れ上がった腹を気にしながら。
「今度こそ、皇子をお産みになれるとよろしいですね」
「皇子……お兄様も隆家殿も、あなたたちもそう言うけれど……わたくしは皇女の方が良いと思っているの」
「なぜでございます? 皇子であられれば、今上の一の宮として次代の東宮、果ては帝にもなられる御方でございますのに」
「あの道長殿が、黙ってそれを許すわけはないわ。わたくしはもう争いごとはたくさん……。わたくしには主上の御愛情だけあれば、それで十分なの」
「でも……それで伊周様は、もとのお力をお取り戻しになれますのに」
定子は清少納言の顔をじっと見つめた。この清少納言は、早くから道長の器の大きさを感じ取り、礼賛してきた人間である。それが他の並の女房たちと同じような、つまらないことを口にするのがおかしかった。
「あなたには判っているはずよ。お兄様には、道長殿を抑えて国を治める力などありはしない。もし皇子が生まれて、お兄様がそれを頼みに力を回復しようとすれば……今度こそ、完膚なきまでに叩きのめされてしまうことでしょうね」
「そこまで、お考えに……」
「でもね、少納言。わたくしは、決して道長殿には屈服しないわ。政治的には不遇でも、いつでも豊かな心を失わずに高い心を持っていましょう。わたくしたちなら、きっとそれができるわ」
「ええ……ええ。もちろんでございますわ……」
清少納言は涙を浮かべながらも嬉しげに微笑む。権勢では道長方に及ぶべくもないが、定子の周りは、未だに都の文化の中心として人々の関心を集めているのである。若い殿上人たちは、かつて定子の君臨した後宮の輝きが忘れられずに、道長を憚りながらとはいえ割に頻々と訪ねてくる。政治上は道長方の者がほとんどであり、中には道長の養子格の者までいた。それだけ定子と、それを取り巻く女房たちに捨てがたい魅力があると言えよう。もちろん、そこで清少納言の果たす役割の大きさは計り知れない。
「道長殿がなにをしようと、たとえ道長殿の姫君が入内して圧されてしまおうと、わたくしにはもはや関わりのないこと。わたくしはもう、毎日を楽しく生きることしか考えないわ」
「はい、宮様。宮様ならば、きっとそれがおできになりますとも」
「ええ」
そこへ、年配の女房が慌てふためいていざり寄ってきた。
「宮様、どういたしましょう。刻限が近づいているというのに、供奉の者が誰一人集まらないのでございます」
「そう……困ったわね」
「左大臣様のせいですわ。なんでも今朝早くに殿上人をあらかた引き連れて、宇治の山荘とやらに出かけられたとかで……」
「それでも何人かは残っているでしょう? まさか全部が全部、都を空けたというわけではないでしょうに」
清少納言が口を挟むのに、女房は憤りを露わにして首を振る。
「それが……残っている方は皆、自邸に引き籠って参内しようとしないらしいの。左大臣様を怖れてのことだわ。宮様、これは左大臣様の嫌がらせでございますわ!」
女房は定子の座所に取りつかんばかりにして膝を進め、尚も続けた。
「左大臣様も、あまりななされよう……なにもこのような日に……いいえ、宮様の行啓をご存じないわけはありませんもの。わざと邪魔なさろうとしているのですわ。もし宮様に皇子がお生まれになったら、左大臣様とていっぺんに気圧されておしまいですもの。それで腹を立てられて……」
皇子が生まれたら――の言葉に、定子は小さな溜め息をつき、清少納言と顔を見合わせる。だが、道長のこういう挙は予想できたものの、出産を控えている身で宮中から退出しないわけにはいかない。このまま放っておくわけにもいかなかった。
「しかたないわね。主上にお願いしましょう。お使いを立てなさい」
「はい、畏まりました」
その女房が出ていくのを見計らい、定子はまたも重い溜め息をついた。
「果たして、主上の御命令に従う者がどれだけいるものか……」
「宮様……」
「悲しいことだけれど、主上ですら道長殿には太刀打ちできないのが現状ですものね」
淋しく笑う定子に、清少納言は暗い顔で頷いた。このような状況で、後見の力がないのはやはり痛い。頼みの兄伊周は懐妊と聞いてまたもや祈祷に明け暮れ、その肝心の妹の世話など念頭にはないらしい。弟隆家も、今はそれをするだけの力はない。
一刻ばかりも経って、ようやく帝の命に応じた公卿が二名現れ、行啓の手配をしてくれた。このうちの一人が今や道長を公然と批判する唯一の者、『小右記』の藤原実資であった。
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