の刻となって、右大臣顕光や内大臣となった公季が、そして裳の腰結い役である祖父、元左大臣源雅信が老妻をともなって到着した。

『すべてが、わたくしの想いとは関わりなく、お父様の意のままに進められていくのね。わたくしには、些細な自由さえ許されないのだろうか。このまま一生、お父様の言いなりになって生きていかなければならないのだろうか……』

 決められた子の刻となり、彰子は女房に促され、母の付き添いで母屋に入った。南庇に近い両脇に父道長と祖父雅信の姿がある。さらに西の庇際の几帳の内に、祖母穆子の姿もあった。

 南庇の間際には女房たちが居並んで、御簾の下から美しい襲ね色目の袖や裾を外に押し出している。晴れの儀式のときの装飾を兼ねる、押出おしいだしという作法であった。

 倫子に導かれ、彰子は、高麗縁の畳に地敷と茵を敷いた座に着いた。やがて、髪上げして正装した女房が彰子の額髪を結い始める。頭頂で結われた瘤のような髷に、太皇太后から贈られた銀の簪が差された。理髪の役の女房が恭しく髪を梳り整える。

 紅梅襲ねの袿を重ね、二陪ふたえ織物の表着うわぎの上に丈の短い唐衣を着けた姿で、彰子は女房に導かれて中央の三畳の畳を並べた座に立ち、手にした衵扇あこめおうぎを広げて顔を覆った。

 次いで、腰結い役の祖父が彰子の前に跪く。女房の捧げる螺鈿の折櫃おりびつから取り出した裳を手に、雅信は彰子を見上げた。

『ああ……これで、わたくしは……』

 彰子は扇の陰で、どうしようもなく潤んでくる目を強く閉じていた。その腰に祖父の手で、成人の証の裳がしっかりと結びつけられるのを感じながら――


 二日後、朝廷から藤原朝臣彰子に対し、従三位じゅさんみの位が贈られた。入内する女御に対してでもなく、特別な功績があったわけでもなく、単なる裳着を迎えただけの十二歳の少女へのこの厚遇は、まさしく異例中の異例であり、その父道長の専横ぶりを如実に示すものであった。


 夏になる頃には、左大臣道長の大姫入内の噂は、既に噂ではなくなっていた。道長が方々に手を廻し、公然と入内の準備を始めたのである。もちろん、東宮にではなく、今上帝への入内のために。

 関白に等しい権勢を誇る道長に、おもねる者は大勢いた。既に、あからさまに楯突く者など皆無といって良い。上は公卿殿上人から下は地下じげ受領ずりょうまで、こぞって入内準備の協力を申し出た。

 諸処方々の国々から財宝が献じられ、都の搖任ようにん国守からは、きらびやかに仕立て上げられた贅沢な道具類が次々と届く。今まさに世の中心は、帝の住まう内裏などではなく、左京土御門大路の左大臣邸であった。

 広大な邸には、ありとあらゆる財宝が集められていく。それに比例するように内裏へ上がるお付き女房の志願者が、人を介し、つてを頼って詰めかける。

 そんな騒ぎの中、彰子は、宣孝の妻から届く草子に没頭していた。周りの者の浮き立つ様も自分についての都中の評判も、ただ煩わしいものでしかない。それを避けるためには、暇なし物静かな女房に草子を読ませ、じっと聞き入る風を見せなければならないのであった。

『やはりお父様は、わたくしを帝の御許に入内させるおつもりだったのね……。なぜ? お父様は、ずっと言ってらしたわ。わたくしの小さい頃から、后がね后がねと。なのになぜ、もう既にお后のおられる帝に、わたくしを入内させようとなさるの?』

 父の真意が測りかねた。もともと腹の底の読めない人物ではあったが、后への執着の強さは長年見知ってきたつもりである。それだけに今度の入内話は、どうしても彰子には納得できなかった。

 当然、父に対し、入内などは嫌だと抵抗は試みた。だが、あの道長が、そんな言葉に耳を貸すはずもない。世間知らずの姫の子供じみた我が儘と一笑に付して、すべて父に任せておけば幸せになれるのだと、まるで取りつく島も見せなかった。

『嫌……帝の御許へなんか上がりたくない。中宮様を押しのけるような真似だけは、絶対に嫌。……中宮様は、どのような想いで聞いていらっしゃるのかしら。きっと、わたくしのことを厭わしくお思いだわ……』

 ここ最近、寝ても冷めても、そのことばかりが頭から離れなかった。権力者道長の娘の入内は、必ず中宮定子の立場を悪くする。たとえ自分にその気は一切なくても、あの父のこと。中宮に対し、どんな非道な挙に出るか判ったものではない。そうなったとき、定子をどれほど苦しめてしまうことか。彰子には、それだけが気がかりであった。

『お父様は、わたくしの言うことなど聞いては下さらない。ご自分の権勢を固めることしか考えていらっしゃらない……。わたくしはもう、お父様の思惑通りに入内させられるしかないのだろうか……』

 この状況でのせめてもの救いは、中宮定子が二度目の懐妊を得たらしいということだけだった。なんとしても皇子を産んで、父の野望などに打ち勝って欲しい。皇子を産みさえすれば、中宮の立場は安泰。たとえ父の権勢をもってしても、もはや揺るぎはしないであろう。それが、彰子に残された唯一の希望であった。


 夏も終わりに近づいた六月十四日の夜のこと。内裏は、時ならぬ大騒ぎの渦中にあった。

「大変でございますっ! 宮様っ、お早くお支度を……火事でございますっ!!」

 顔面蒼白となった女房が定子の寝所へと飛び込んできて、早口でまくしたてる。

「火事ですって……!?」

「はいっ。武徳門のあたりで火の手が上がり、内裏の方へ広がりつつあるそうにございますっ。宮様も、お早くお逃げを!」

 定子は血の気を失いつつも慌てて飛び起きた。女房の手を借りて手早く着替え、塗り籠から外へと出る。

「姫宮はどこ?」

「乳母殿がお移し申し上げているはずでございます。北面に御車をご用意致しております。さぁ、お早くお移りを!」

 集まってきた女房たちに引き立てられるようにして、定子は北庇の妻戸を抜けて簀の子縁に出た。そのまま、押し流されるように輦車てぐるまへと入れられる。車の中には姫宮を抱いた乳母が先に待っており、定子の顔を見てほっと顔を崩した。

「お母様、火事ってなぁに?」

 眠たげな目を小さな手でこすり、四歳となった姫宮があどけなく訊ねる。定子は、思わず我が子を抱き締めていた。

『ああ、なんということ……お腹におられたときにも火事に遭い、今また、この幼ない御身で怖ろしい目に再び遭おうとは……』

 前庭で警固をしていた火焚き屋の衛士たちによって、薄幸の母子を乗せた輦車は、北の玄輝門より引き出されていく。女房たちも、起き抜けの崩れた顔で手近の衣を引き被り、輦車のあとを徒歩かちで従った。

 車の後ろの簾越しに外を窺うと、南西の方に火柱が見え、闇空を赤く染め上げている。火は少しずつこちらへと移動してくるようだった。内裏の南端が既に火に包まれているであろうことは、定子の目にもほぼ間違いないように見えた。

「主上は、ご無事でいらっしゃるかしら……」

「主上のお側には、近衛も滝口も控えておりますもの。きっとご無事でいらっしゃいますわ」

「そうね……」

 また帝と引き離される――定子は、それを痛感した。わずか数年前まで世の栄華も幸福も一身に集めていた自分が、なぜかくも運に見放されることになってしまったのか。あんなにも自分に優しかった運命が、今は掌を返したように冷酷に不遇へ不遇へと追いやっていく。

 あのとき――周りのすべてに絶望して髪を下ろし、世を捨てようとまで思いこんだ自分を帝の愛が救ってくれた。一度は、そのあまりの仕打ちに心を疑ったこともあった。だが、その後の帝は、それを補ってあまりある愛情を示してくれ、自分を守り支えてくれた。

 ようやく父の在世時ほどではないにせよ、夫の愛と子供の存在で、ささやかながらも幸福を噛みしめられるところまできていたというのに。運命は、またも自分を奈落の底に突き落とそうとする。

『内裏が焼けてしまえば……帝は、おそらくは女院様の所有する一条院にお移りになられる……。あのお邸は、道長殿が女院様に献上したもの。わたくしが帝のお側にいられるわけがない……』

 定子は自分の不運に泣きながら、赤く燃え上がる空を見つめた。


 「内裏が火事!? それは本当なの?」

 ときならぬ夜半の騒ぎに目を覚ました彰子は、御帳台から出て、庇際に群がる女房たちに訊ねた。半蔀を下ろしているために、外を見ようと妻戸から出ていく者もいる。彰子も、思わずそれに従っていた。

「殿の女房の話では、内裏の西南の修理職すりしきから火が出て、すぐに燃え広がったらしゅうございますわ。殿も帝の御身をご心配なされて、とるものもとりあえずお出かけになられたそうで……」

「それで、中宮様は……!?」

「は? ええ、ご無事に脱出なされたとか。帝は腰輿たごしにて大極殿だいごくでんにお移りあそばされ、中宮様は、また職の御曹司へ」

「そう……良かった」

 隣の寝殿でも、外の簀の子に人がたかっている。寝殿に住む女院にとっては、帝はただ一人の子。その女房たちが慌てふためくのも無理はない。おそらく母屋の奥では、母女院が、とりあえずの我が子の無事にほっと胸を撫で下ろしていることであろう。

 もちろん、ここから見えるのは仄かに赤い空だけであった。だが、出火から相当経っているはずなのに、まだ空の色が戻らないところを見ると、かなり激しい火勢なのであろう。

『中宮様は身重でいらっしゃるのに……神仏は酷いことをなされる。確か姫宮様がお産まれのときにも、火事で焼け出されておいでだったわ。なぜ、あの御方ばかりが、このような目にお遭いになるのかしら……』

 都の騒がしい夜空の下、今だに憧れてやまない女人は、どれほど心細い思いをしていることだろう。彰子は、定子の心を思うと胸が痛んだ。


 秋半ばとなって中宮定子は、出産のために中宮職大進だいじん平生昌の邸へ行啓することとなった。

 前回の出産のときから既に三年。あの頃よりも、いっそう天下は道長方に流れている。誰もが道長の顔色を窺い、中宮である定子に手を差し延べようとはしない。二条北の邸を失って里下がりする邸すらない定子を、わざわざ引き受けようなどという者がいるはずもなかった。

 大進は中宮職の三等官である。既に長官次官である大夫だいぶすけも道長に下って辞職し、他になり手のないまま空位となっている。生昌は殿上も許されていない地下人で、本来は中宮たる高貴な身を預けられるような身分ではなかった。定子の境遇は、そこまで逼迫しているのである。

 さらに道長は、今また、その定子の不遇に拍車をかけるがごとき態度を取ろうとしていた。せっかく后がねとして大事に育ててきた彰子が、ようやくにして裳着を迎え、入内の準備も滞りなく進んでいる矢先での定子の懐妊である。道長にとっては、まさに晴天の霹靂であろう。

 父を喪って後見に不安のある中宮を追い落とさんがため、最初の懐妊の折に兄伊周を失脚させたのは、すべて皇子誕生を危ぶんだが故である。その伊周が京に戻って、昔日ほどではないにせよ官位も復されている今、もし定子が皇子を産むことになれば、せっかく掴んだ権勢が道長の手から離れていかないとも限らない。道長にしてみれば、まったく面白くない状況のはずであった。

 八月九日の夕方には、中宮が生昌邸へ行啓するために、大内裏の職御曹司を出発することが定められていた。その前日のこと、道長は、内裏が焼亡したため、今内裏いまだいりとなった一条院へと参内した。ここは、道長が姉である女院に譲った邸である。道長にとっては、帝を懐に取り込んだに等しい。

「この一条院は、私が姉上に献上したのだ。たとえ皇子が生まれようと、中宮などに足を踏み入れさせてなるものか」

 道長は清涼殿に擬した北の対へと渡る途中で、憎々しげに呟いた。その清涼殿代に渡ると、帝は、内裏女房の右近内侍うこんのないしになにやら申しつけているところだった。

 道長の姿を認めた途端に二人は口をつぐみ、右近内侍は、そそくさと台盤所だいばんどころの方へと立ち去っていく。あとに残った帝は、動揺を隠そうとしてか、とってつけたような厳しい表情を浮かべていた。おそらく道長を憚って、密かに中宮の許へ使者を立てようとしていたのであろう。

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