――ある生まれの尊い美貌の貴公子が、父を亡くして古式ゆかしく侘び住まいをしている宮家の姫の噂を耳にする。貴公子は高貴な血筋と不遇な身の上に心惹かれ、同情し、姫君との逢瀬を望む――

 道長は、熱心に聞き入っている彰子や取り巻く若い女房たちから離れた場所で、物語に耳を傾けている風を装いながら、傍らの乳母に低い声で囁いた。

「ところで……どうじゃ、まだしるしは現れぬか?」

「殿……毎日毎日、同じことをお聞きになられて。何度も申し上げておりますように、まだまだ早うございますわ。姫様は、やっと十二になられたばかりですのに」

「十二ならば、決して早くはなかろう。十か十一で訪れる者もおるというではないか」

「それは、ごくごく稀なことでございましょう」

 乳母の苦笑に、道長は落胆の色を浮かべた。もう半年ばかりも前から、二人の間には日を空けずして同じ会話が続いている。彰子の体に初潮が訪れたかどうか――と。ここ半年というもの、道長は神仏に祈願までして、一日でも早い訪れを待ち望んでいるのであった。

「他の家に、皇子ができてからでは遅いのだ……」

 厳しく顔を引き締め、暗い溜め息をつく。目を向けた先では、見た目には充分に大人びて女としての艶やかさを示しつつある彰子が、無心に物語に聞き入っていた。

 ――貴公子は、ただならぬ誠意を示して熱心に姫君を誘う。だが姫君は、衝立を隔ててなにも答えず、その愛を受け入れようとはしない。ある日、たまりかねた貴公子は、ついに手ずから衝立を押しやった。そのとき、風が吹き込んだのか燈台の火が消え、二人は暗闇の中で結ばれる。あくる朝、明るい陽の下で見た姫君は、この世の者とは思えぬほどの醜女しこめであった。その鼻は不気味なほどに長くて鼻先が赤く、まるで普賢菩薩ふげんぼさつの乗る象のような――

「まぁ、普賢菩薩の……」

 彰子は、思わず口元を抑えて吹き出した。同じように女房たちも体を折り曲げるようにして笑っている。ひとしきり笑いが収まった後、道長は、また円座を移させて彰子の傍らに来た。

「どうかな? 物語の出来は……」

「素晴らしい物語でしたわ、お父様。こんなに笑ったのは初めて……」

「そうか、気に入ったか」

「ええ……でも、お話の面白おかしさだけではありませんわ。この人の文章は、なんというか洗練された美しさがあって……そこはかとなく、もののあわれを感じさせるような。とても、素ばらしい才覚を持った人だと思いますわ」

 彰子は、藤原宣孝の妻がどんな女人なのかと、興味を引かれずにはいられなかった。やはり、あの清少納言のような愛すべき才女なのであろうか。

「お父様。宣孝殿にお願いして下さいませ。他にもまだあるのなら是非譲って下さるように」

「ほう? そなたが、それほど気に入ろうとはな。物語に造詣の深いそなたにそこまで言われれば、宣孝も妻も喜ぶことだろう」

 道長がそう言い残して去った後、女房たちは我先に、草子の書写をしたいと願い出ていた。


 新年最初の子の日のこと。寝殿の女院から女童数人が遣わされ、東の対の前庭で小松引きを行った。本来は都から離れた野に出て行うものであったが、女院が姪彰子のためにと手近な庭先でさせたのである。小松や若菜を引き抜いて、その根の長さを長寿をかけて競う遊びであった。

 彰子は東の対の西南にある唐庇からびさしに座を設けさせ、七、八歳の尼削ぎにした女童たちが楽しげに庭を駆け回るのを、一重の御簾越しに見つめていた。

『うらやましい……。わたくしは、物心もつかぬうちから后がね后がねと厳しく育てられ、あんな風に庭を駆けることも許されなかった。お父様の娘という重い枷を外して、自由に飛び回れたらどんなに幸せかしら……』

 どれほど大事にされ、かしづかれていても、自由のない身は空しく哀しい。

『同じ摂関家の姫でも、中宮様はお幸せ……心より愛し、愛される殿方に巡り合われて。わたくしはいったい、どんな生涯を送るのかしら……。中宮様にとっての帝のように、わたくしにも、そんな殿方が現れるのかしら……』

 物憂い溜め息が、ひんやりとした孟春の空気に交わる。ふと、なにかが体の中を流れるような感覚を覚え、ついで下腹に鈍い痛みが走った。

「あっ……」

 短い叫びを上げ、彰子は腹部を押さえながら脇息に身を伏せた。異変に気づいた女房たちが慌てていざり寄ってくる。

「姫様、どうなされました!?」

「どこか、お体の具合でも……?」

 ただちに年配の者の指図で、彰子は女房たちに抱えられ、御帳台の中へと移された。

「姫様、大丈夫でございますか……?」

「誰か、乳母の君をお呼びして!」

 大騒ぎの中、重ねた衣を脱がせようとする女房の手を、彰子は思わず振り払っていた。

「嫌っ! あちらへ行って。皆、向こうへ行って! わたくしを放っておいて!」

 その剣幕に女房たちは顔を見合わせ、戸惑いの色を浮かべる。御帳台の帳を下ろして外から見守り、一方で乳母を呼びに走る。彰子は年の割に老成しており、このようにいわけない態度をとることなどなかっただけに、余計にお付き女房たちの動揺は大きいのであろう。

 その彰子は、ひとり閉じこもった御帳台の中で、小袿をかき合わせて体を覆い、茵に丸くなって震えていた。

『嫌……大人になんてなりたくない……。わたくしは、今のままでいいの。このまま、子供のままで静かに暮らしていたいのに……』

 既に、それなりの知識は得ていた。自分の体に訪れた変調がなんなのか、すぐに判った。この日を境に自分が今までとは違っていくだろうことが予想され、そうなってしまった体が厭わしい。

「姫様、失礼致します」

 乳母は、有無を言わさず中へと押し入ってきた。母よりもなお親密な間柄の相手にさえ、彰子は、我が身を隠そうと茵に突っ伏そうとする。

「姫様、どうなさいました?」

「嫌っ、触らないで! 出ていって!」

「まぁまぁ、いわけない幼な子のように……いったい、どうなさったというのです?」

 さすがに若い女房たちのようには動じない。乳母は赤子をあやすように、彰子の背を撫でて引き起こそうとする。その手から逃れようと身をよじったとき、衣の裾が乱れてめくれ上がった。

「まぁ、姫様……?」

 彰子は、慌てて衣をかき寄せ背を向けた。乳母の顔が、みるみる驚きから喜びへと変わっていく。

「まぁまぁ、姫様。なにも怖れられることではないのですよ。女人ならば誰でも、年頃になれば迎えることなのです。むしろ喜ばしいことなのですよ。これで姫様は、一人前の女人になられたのですから」

 乳母は誤解していた。彰子の怯えが、初潮を迎えた年若い娘にありがちな、単なる感傷めいた動揺だと思いこんでしまっている。

「すぐに、お手当を。殿にも早くお知らせしなくては……」

「嫌……お父様には、お話ししないで! お願いだから、誰にも言わないで……」

「なにをおっしゃられますやら。殿は、この日を今か今かと待ち望んでおられて……もう半年も前から、気にかけておいでだったのですよ」

「嫌っ……嫌っ!」

 まるで駄々をこねるように泣きわめく彰子。乳母は、呆れたように溜め息をつく。

「お聞きわけのないことを。姫様らしくもない。とにかく、お手当を致しませんと……」

 彰子の思いを少しも測ろうともせずに、乳母はいそいそと出ていく。残された彰子は、いよいよ悲しくなって、いっそう身を屈めた。

 不安であった。自分の身に起きてしまったことが、なにか良くないことの前触れのような気がして。根拠もなにもないが、得体の知れない不気味な不安と怖ろしい予感とが交錯して、押しつぶされそうな心地であった。


 二月九日。例の日から一月と経たずに彰子は裳着を迎えた。裳着は、男子にとっての元服にあたるものであった。この日、初めて裳を腰に結うことで一人前の女人として認められ、成人の仲間入りをするのである。

 姫君が裳着を迎えたということは、そのまま結婚の用意が整ったことに他ならない。権門の一族において、嫡流の姫君の裳着は多くの場合、入内を目算に入れて行われていた。

 夕方さるの刻となって、公卿殿上人など招きを受けた貴賓たちが、ぞくぞくと土御門殿に詰めかけていた。主を中門に降ろし、空になった牛車が西の四つ足門の外にずらりと並ぶ。貴人に従ってきた随身の侍や従者が車の周りを取り囲み、祭りのような賑わいを見せている。それらの手にする松明は無数に上り、門前が昼間のように明るく見えた。

 広大な庭には篝火が焚かれ、そのみごとな池や樹木の様を美しく浮かび上がらせている。儀式の場である西の対では、貴賓の席となる南庇のすべての吊り燈籠に火がともされ、饗宴を待つ人々の顔を照らし出していた。

 様々な高貴どころから豪勢な贈り物が届けられ、天下の左大臣家の盛事に華を添える。なかでも皇族からの品が目を引いた。女院からは装束しょうぞく二揃え。太皇太后からは、かもじや額飾りなどの髪上げの道具を。そして中宮定子からも、香筥こうろ一双が届けられていた。

 道長は、そうそうたる祝いの使者に、目を憚るほどの上機嫌さで豪華な禄を手渡した。白い重ね袿と袴をすべての使者に、である。装束一揃えで一財産と言われるほど、衣の財産的価値は高い。道長の昂揚ぶりが窺われるというものだった。

 儀式の場の西の対ではの室礼を改め、晴れの室礼となっている。母屋の周囲に降ろした御簾の内側に、南面を除いて壁代を引き回してあった。北庇との間には六曲の屏風が二双立てられ、その前に主役たる彰子の座が設けられた。東側には理髪の調度が置かれ、西側には結髪の座が設けられる。

 彰子は控えの間にあてられた北庇で、これから始まる盛儀とは裏腹に暗く打ち沈んでいた。

『都では、わたくしの裳着を入内を控えてのことと噂しているらしい……。女房たちも皆、そのつもりで浮かれているわ。入内なんて……帝の御許には二人も女御が上がっているし、なにより寵愛を一身に集めておられる中宮様がいらっしゃるのに。それともお父様は、東宮様にとお考えなのかしら。東宮様だって、中宮様の妹君をなにより代えがたく愛されていると聞くわ。それに、もう一人の女御には沢山の御子がいらっしゃるし……。本当にお父様は、わたくしの入内をお考えなのかしら……』

 父道長ならばやりかねない。相手の意向などまるで意に介さず、邪魔立てするものは力づくで撥ね退け、すべて自分の思い通りにことを運ぶ。それが四年前の幼き日、彰子が悟った父の本当の姿であった。

『どちらに入内しても、わたくしは幸せにはなれない……。帝の御許に上がれば、中宮様をお苦しめすることになってしまう。絶対に、それだけは嫌。東宮様の方がまだ良いのかしら……。でも、既に沢山の御子がおられる御方の許へ上がるなんて……幸せになれるわけがないわ。お父様は、わたくしを可愛いと思っては下さらないのかしら……』

 考えれば考えるほど彰子の心は乱れ、いっそう暗い淵へと沈んでいく。

「姫、どうしたというのです? そんな浮かない顔をして」

 裳唐衣もからぎぬで正装した母倫子が、彰子の肩に手をかけ、不思議そうに覗き込んでくる。倫子は、高貴な血筋と豊かな財力のある家に生まれてなに不自由なく育ち、深窓の姫君から一の人の正室となって、夫からも誰からも重んじられている。なに一つ思い煩うこともない境遇で、ここまで生きてきた。悩み一つないはずの人生は、その生来のおっとりした気質を損なうことなく、そのまま保ってきたのであろう。その母が、彰子の苦しい心中、前途の不安などを推し量ることなどできようはずもない。

 母の顔には、晴れの日を迎えたというのに娘が暗く打ち沈んでいるのが、まったくの意外であると言わんばかりのものがあった。

「宮様方や公卿方まで馳せ参じて下さって、都中が祝ってくれているというのに、おかしな子だこと。それとも、まだお父様やわたくしに甘えたい気持ちが残っているのかしら? そのように大人げない様子では、人々に笑われてしまいますよ」

 空しかった。母は自分とは別の世界にいる。生涯、自分を理解してくれることはないであろう。そんな想いが、悩み苦しむ彰子の上にさらに重石のようにのしかかる。

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