第三章 かがやく藤壺

 長保元(九九九)年。藤原道長はさらに位を進め、正二位しょうにい左大臣となって廟堂に君臨していた。年齢も三十四を数え、権勢家にふさわしい堂々たる貫禄を身につけて他を圧していた。

 壮麗で名をなす土御門殿は、その主の飽くなき権勢欲を反映するかのように、ここ数年のうち南隣の邸宅を買収して拡張され、さらに広大な邸へと変貌している。対の屋の数や配置にはさほどの違いはないが、なんといっても人々の耳目を集めたのは、南北二町の敷地のうち南半分を占める広い庭であった。

 対の屋の割り当ては以前と変わらず、彰子の住まう東の対と女院の御所となっている寝殿とをつなぐ渡殿には泉が湧き出、それがり水となって庭のほぼ中央にある池へ注いでいる。池といっても尋常ではなく、敷地の三分の一ほどを占め、いくつもの中島を持つ巨大なものであった。その南には、やはり広大な馬場が設けられ、完成の折には、公卿殿上人のほとんどを招くような盛大な馬競べが権勢を誇示するように華々しく行われた。

 彰子は正月を迎えて十二歳となった。道長があらん限りの財力権力を注いで磨きに磨き上げた労が実って、既にどこに出しても恥ずかしくない、気品と才知にあふれた美貌の姫君へと成長している。手入れの行き届いた豊かな髪も、身の丈を四、五寸ばかり余るほどに伸び、充分成人の女性として通じる外見を整えつつあった。

 正月用に新調された衣が、大人びてきつつある彰子によく映え、より美しさを際だたせる。脇息に身を預ける姿もなかなかに艶めかしく、お付きの女房たちに溜め息をつかせ、乳母は満足げに見入っていた。

「本当に、よくここまでお美しくお育ちあそばして……桜の御衣がよくお似合いで。わたくしも、お育てした甲斐があったというものですわ」

 乳母の言葉に気恥ずかしいものを感じながら、彰子は脇息に身を傾けた。わずかな動きにも長い黒髪は流れるようにうねり、重ねた衣の裾が美しい色目を見せて散り広がる。品の良い衣ずれの音ともに、焚きしめた梅香が仄かに匂い立つ。

「梅の薫りは、やっぱり好きだわ。華やかで匂いやかで。花は桜の方が好きだけれど、あちらには薫りがないのが残念ね」

 彰子を取り巻く女房たちも、同じく正月用の新しい衣で出仕しており、それぞれの感性で衣を重ね合わせ、意匠を凝らした裳をつけて美しさを競っていた。その晴れやかな艶姿とともに、空焚きの薫りが部屋にそこはかとなく香って五感を愉しませてくれる。

 正月の晴れやかさとともに満ち足りた想いにひたりながら、彰子は、前に侍る女房たちを相手にとりとめのない話題に興じていた。

「もし桜に梅の薫りがあったら、他の花が霞んでしまうことでしょうね」

「まぁ。姫様は、面白いことをおっしゃいますこと」

「でも、藤の花もなかなかに見事でございますよ。やはり、それぞれに見どころがありますもの。桜には桜の、梅や藤にもその花にしかない独特の美しさがありますわ」

「それはそうね」

 思わず微笑む彰子に、別の女房がわけ知り顔でつけ加える。

「花も人も同じでございますわ。それぞれに善し悪しがあり、両方含めてその花なり人なりの面白さがあるものでございます。どんな人にも必ずどこか良いところがあって、同じように、どこか人に誹られるところがあるものですわ」

「あら! 姫様には、人の誹りを受けるところなんかおありではなくてよ。お美しく気品高く、才長けていらっしゃって、その上お人柄はまろやか。誹りを受けられるところが、どこにあられて?」

「嫌ぁね。私は一般的なことを言っただけよ。もちろん姫様は例外でいらっしゃるわ」

 あれこれと言い合っている女房たちから、いつの間にか彰子の心は離れていた。我知らず物思いにふけり、遠くを見つめる眼差しとなる。

『桜の美しさも梅の薫りも、両方を兼ね備えられている御方がいるわ。中宮様……あの御方こそ、なににも勝る宮中の花だもの。どんな姫君が妍を競おうと、あの御方にかなう者など居はしない……』

 あの怖ろしい地獄のような夜に、手ずから髪を切り落とし尼となった中宮定子。だが、定子をなににも代えがたく熱愛する帝は、出家を認めなかった。道長のどんな圧力にも屈せず、人の誹りをものともせず、自分の許しのない落飾は出家ではないと言い張った。

 伊周が京を追われた直後、中宮御所となっていた二条北の邸は不審な火が出て全焼している。身重の定子は母貴子ともに、母方の叔父の手狭な邸へと移った。そこで母を亡くし、間もなく出産。残念ながら姫宮であった。

 この同じ年、道長の同意を得て二人の女御が誕生した。大納言藤原公季の娘義子と、右大臣となった藤原顕光の娘元子である。それぞれ弘徽殿こきでんの女御、承香殿じょうきょうでんの女御と呼ばれている。だが帝は、相変わらず定子一人を愛し、新しい女御にはあまり関心を抱いていないらしい。

 その帝は、初めての子を見たい一心で尼姿の定子を強引に参内させた。尼が後宮に入るなど許されることではない。当然、道長の強硬な反対があったが、ここで他ならぬ女院が味方した。さすがに、定子の不遇に同情したものらしい。また、初孫への愛着もあったのであろう。

 この姫宮を連れての正式な参内で、それまで出家した后として扱われていた不安定な立場が元どおり復されることとなった。また、帝は仮住まいの定子を不憫に思って、内裏の外ではあるが大内裏の中の職御曹司を居として与えていた。やはり世間からは尼と見なされている者を、後宮におくことはできなかったのであろう。

 かの流罪となった伊周、隆家の兄弟も、女院が病となった折の恩赦を受けて帰京している。大臣の位が塞がっていたために准扱いではあるが、伊周の位も一応は元に復された。隆家も同様である。

 とにもかくにも、世間への憚りから密やかにであるとはいいながら、帝の定子への愛は以前よりも格段に深まってきていると聞く。ずっと沈んでいた定子も、ようやくにして元の明るい気質を取り戻し、平穏な日々を送っているらしい。

『良かったわ、本当に良かった。中宮様がお幸せでいられることが、わたくしにはなにより嬉しい……』

 彰子は、頬を上気させて心底からそう想った。このままなにごともなく、ずっと幸せであって欲しいと切に願う。自分に直接関わりのないこととはいいながら、定子の不幸は、やはり父道長に起因するものであったから――。

『今上の御子をお産みしたのだもの。もうお父様にも誰にも、なにもできはしないわ。中宮様には、なんといっても帝が付いておられるのだし……』

 長い物想いを終えて我に返ったとき、女房たちは宮廷の話に花を咲かせていた。やはり噂話が、女たちにはなによりの愉しみであるらしい。誰も彼も妙に生き生きとしている。

「それにしてもねぇ……後宮の女御様たちも惨めなものよねぇ。中宮様に気圧されて、見る陰もないっていうじゃない」

「本当に。いくらお美しくても尼になられた御方に負けるなんて、女人の恥というものよね」

 尼という言葉は気に入らないが、中宮が他の女御を退け、以前のように時めいているという話は、やはり耳に心地よい。彰子は、うららかな新春の日和と同じような、穏やかな微笑をたたえて聞いていた。

「あの承香殿の女御も、里に引き籠ったきりだし……」

「それはそうよ。あんなみっともない恥をかいて、今さら内裏には戻れないでしょうよ」

 みっともない恥――というのは、承香殿の女御元子が懐妊し、それによって一時は時めいたものの、周囲の期待を裏切って子を産めなかったことである。流産や死産ではない。元子は水を産んだのであった。前例なき奇異なこととして、帝の生母である女院からは不肖なことと忌み嫌われ、世の人々からは歌にまで歌われて嘲られたのである。再び内裏に戻るなどできるはずもなかった。

「懐妊を奉上して、意気揚々と里邸に退出したまでは良かったけれどねぇ……」

「ずいぶん得意げだったそうじゃない? ほら、『弘徽殿は、腹じゃなくて御簾が膨らむのか』っていう、あれ……」

「そういえば、そんなこともあったわね。退出の騒ぎを、弘徽殿の女房たちが御簾際に鈴なりになって見てたのを、承香殿付きの女童が馬鹿にして笑ったって話でしょ?」

「その憎まれ口を利いた女童、里に逃げ帰ったらしいわよ」

 こういう悪口にも似た話に限って、女房たちの口は軽やかになり、目が生き生きと輝く。彰子は呆れながらも、一人一人の顔を興味深く見渡した。

「殿がお渡りになられます」

 庇の端近にいた女房が早口で告げると、それまで沸き立っていた女房たちは、一斉に口元を抑えて押し黙る。ついで、そそくさと道長の座を設え始めた。

「我が麗しの姫君は、どこにおられるかな?」

 上機嫌で女房のからげる御簾をかいくぐり、道長が母屋へと入ってきた。『可愛い姫や』と呼びかけるのを聞かなくなって久しい。我が娘の成長ぶりに、幼い者へのような態度は憚られるようになったのであろう。

「おうおう。晴れの衣が良う似合うておる。この、内親王とも見紛うべき気品はどうだ。さすがに、この私の掌中の玉よ」

 座ったままの彰子を、矯めつ眇めつして満足げに頷く。廟堂でも、その顔色を窺わぬ者とてない強権の左大臣が、彰子にだけはひたすら優しく甘い。彰子を見つめる顔は、すっかり目尻が下がって口元が緩み、とても見られたものではなかった。

 相も変わらずの道長の溺愛ぶりに、女房たちは、扇の陰でにやにや笑っている。彰子もまた、手放しの親馬鹿ぶりが面映ゆくてしかたない。

「実は良いものが手に入ったのでな。新年の祝いに、そなたに上げようと思って来たのだよ」

「まぁ、なんでございましょう?」

 ついっと首を傾げる仕草を尚も満足げに見やりながら、道長は直衣の懐に手を入れた。取り出したのは一冊の薄い草子である。

「草子……?」

「うむ。家司の宣孝のぶたかがな、そなたの物語好きを聞いて届けてきおったのだ。あれは学者の娘を妻にしておるが、その妻が、結婚前に書きつづっていたものらしい」

「まぁ……宣孝殿の室といえば、漢才かんざえで有名な女人ですわね。幼い頃は、お母様とも親しかったとか」

 彰子は、女房を介して受け取った草子を、興味深い思いで見つめた。才女といえば、憧れの定子中宮の下にいる清少納言も、漢学の才で有名な女人である。同じ漢才の持ち主が、どんな物語を書くものか。表紙には『末摘花すえつむはな』と書かれていた。

「末摘花……紅花のことね。葉は怖ろしげだけれど、黄を帯びた赤い花びらで……とても愛らしい花だわ」

 彰子は、幼い頃に母に連れられた物詣での折に、女童が手折ってくれた紅花を思い浮かべた。あの鮮やかで愛らしい花の名を冠した物語。どんな美しい内容かと心が惹かれた。

「お父様は、お読みになりましたの?」

「いや。つい今しがた受け取ったばかりでな。姫と一緒にと思ってね」

「まぁ……それでは、さっそくに」

 傍らに侍る女房たちの中で声が美しく、朗読の得手な者を選んで草子を渡す。彰子は、そのまま脇息に身を預けて耳を澄まし、道長は、敷物の円座わろうざを西庇の端近に移させ、柱に背を預けて座った。

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