帝は、夜の御殿に閉じ籠ったまま、朝からずっと出てこようとはしなかった。

「宮、私の無力を許しておくれ……。身重のあなたに、このような非道な目を見せて……伊周の罪は、あなたには関わりのないことなのに……私には、あなたを救う力がない……」

 固く扉を閉ざした夜の御殿の外では、燈台に明々と照らし出される中、まるで帝であるがごとくに右大臣道長が、鬼気迫る表情で次々と指示を飛ばし、政敵を完膚なきまでに叩き潰さんとしていた。


 中宮の夜の御殿ともいうべき塗り籠にも、道長の命による探索という名の攻撃が加えられた。中宮の威信、尊厳、それらすべてを踏みにじろうとするかのように。

 扉は固く、容易には破れない。ついに苛立つ侍たちは、壁を打ち壊して蹴破った。五、六人の猛々しい男たちが勢い込んで突入し、中に隠れていた隆家を引きずり出した。泣いてすがる老母を突き放して。

 隆家が見るも無惨な筵張むしろばりの車に追い立てられ、そのまま配流先へと連れ去られた後も、邸内の捜索はひとしきり続いた。扉を蹴破り、屏風を打ち倒し、几帳を引き裂く。それでも足りずに、母屋の壁や床板まで引き剥がして徹底的に探し続けた。もちろん、内大臣伊周を捕らえるためにである。

 伊周が抜け出したことを検非違使の役人たちは知らない。あらん限りの探索を終え、やっと諦めて全員が庭へ降りた。そしてまた同じように、広い庭を隈なく調べ始める。

 邸から侍がいなくなって、ようやく定子は車から降りることができた。足を踏み入れた母屋は、既に見知らぬものとなり果てていた。美しい室礼のなされていた室内は狼藉の限りを尽くされ、荒れ果てた廃屋のようになっている。

 御簾は切り落とされ、几帳はずたずたに引き裂かれ、高価な調度も傷だらけで転がっている。床はところどころ板がはがされ、塗り籠の壁にも無惨な穴が空いていた。その穴の向こうに、我を失って座り込む母の姿があった。

「お母様……」

「宮……宮……」

 かつて才女の誉れ高く、高内侍こうのないしと呼ばれて内裏女房として重きをなした女人も、まるで見る陰がなく一気に老け込んでしまったかのようである。貴子は、定子にしがみついて泣き崩れた。

「よもや、このような年となって……これほどの憂き目をみることになろうとは……。帝も道長殿もあんまりななされよう……道長殿には、宮も息子たちも血の繋がった甥姪であるのに……あの方は、人ではない。人の顔をした鬼じゃ……」

 そのとき、騒がしかった邸の外が急にしんと静まり、ついでどよめいた。中の女たちは、蔀の破れ目から外を窺った。庭にいた侍たちが皆、一斉に東門に向けて駆け出していく。

「いったい、なにが……?」

「お兄様が……お帰りになったのでしょう……」

 女房たちの不審な声に、定子はぽつりと呟いた。母を初めとする女たちの顔に、動揺と畏れが走る。外の気配が変わるのを、全員が息を殺して待った。長い。果てしなく長く感じられる。やがて、誰かが中へ入ってこようとする、かすかな物音がした。

「誰っ!?」

「ここには中宮様がおられるのよ! 検非違使といえど、無礼は許されませんよっ!!」

 きっと目をつり上げて鋭く誰何すいかしながら、女房たちは定子を守るように集まる。

「私だ。宮、母上。ただ今戻りましてございます」

 伊周の声であった。

「伊周殿っ、よくぞご無事で……」

 貴子が、最愛の息子伊周に取りすがる。女房たちの顔に喜色が浮かんだ。皆ほっとしたように定子から離れ、伊周を取り囲む。

「殿……よく、ここへお入りになれましたね」

「ええ、本当に。検非違使の荒々しい侍ばらが囲んでおりますのに……」

 くちぐちに言う女房たちを相手に、伊周は得意げな顔で微笑んだ。

「私は、仮にも内大臣の高い位にある者だよ。あのような下賎の者になど、触れさせるものではないさ。私は門の前に車を止めさせ、悠然と降りてやった。検非違使たちは、高貴な者の気高さに気圧されて、なにもできなかったというわけだ。誰も私を追おうとはしなかったよ」

 その傲慢な自惚れに、定子はただ呆れていた。力量もなにもなく、己の稚ない無分別が引き起こした事態の重大さを、少しも考えてさえいない。

「伊周殿っ! すみやかに邸を出られ、宣命に従われるように! さぁ、邸から出て来て下され!」

 庭先で検非違使が叫んだ途端、それまで得意になっていた伊周は一気に蒼冷め、慌てふためいて定子の後ろに隠れた。

「お兄様……!?」

「嫌だ! 私は病の身なのだ。筑紫になど流されたら、死んでしまう……。そんな長旅には耐えられない!」

「お兄様……そのようにいとけないことを……」

 伊周は、呆れて顔をしかめる定子の衣に小さな子供のようにしがみつく。いつまで経っても出てこない罪人に、検非違使たちは宥めたりすかしたり必死の説得を始めた。

「主上の御命令にござりまするぞ! この上もまだ、朝廷を蔑ろになさるおつもりかっ」

「どうか、きっぱりと罪に服されて、潔いところをお見せ下さい。都人が、あなたの女々しさを笑っておりますぞ!」

 どんな説得にも耳を塞ぎ、伊周はいよいよ定子にしがみつく。それに老いた母までもが加わって、息子を守るようにかき抱いた。

「わたくしは絶対に離しませんよ。この老いた母から最後の望みまで奪おうなどと、そんな非道な仕打ちが許されるものですか!」

 外の声は次第に苛立ちを増していく。門の外にいた侍たちもしびれを切らしたのか、続々と庭の方へ詰めかけてきた。もとより荒々しい武辺の者たちは、我慢も限界を越えたらしく口々に罵り始める。

「朝廷に叛逆奉った大罪人なんだ。なにを遠慮することがある。とっとと押し入って、引きずり出してしまえ!」

「いやいや。中には、后の宮がおられる。ご無礼は許されんぞ。それこそ、帝への叛逆だ」

「しかし――」

 そこへ、内裏から戻った武官が騎馬のまま駆け込んできた。

内裏うちからの命令だ! もう猶予はならん。これ以上の遅滞は、我々の責任問題となる。ただちに罪人を引き出せ!」

 語気強く言い放つ武官に、侍たちは戸惑いの色を浮かべて顔を見合わせる。一人が遠慮がちに言上した。

「しかし……后の宮が側に付いておられるので……」

「右大臣殿の命は、几帳ごと宮をお離し奉れとのことだ」

 それを聞いた邸内の者たちは皆、色を失った。

「なんという畏れ多いことを……あのような者たちの手を、宮様のお体にかけさせようなどと……」

「右大臣様は、宮様のお立場をなんとお考えなのでしょう……」

 女房たちの悲痛な声にも、伊周は、ただただ定子にしがみついている。定子は兄の稚さが厭わしく、情けなくてしかたがなかった。蒼白な顔に我知らず涙が伝う。

「お兄様……これ以上、わたくしを苦しめないで下さいまし。大臣の位にあった者として、最後の誇りをお見せ下さい。お父様のお名前に、これ以上泥を塗らないで……」

 それだけ言うと胸にこみ上げてくるものに負け、定子は荒れた床に泣き崩れた。

「……あんまりですわ。子供のように駄々をこねて、わたくしの立場を少しもお考え下さらない……。お兄様は一家の主なのですよ。どうして潔い態度をお見せにならないのです。公卿殿上人だけでなく、下々の者にまで嘲られて……」

「宮、そのように泣かないで下さい……」

「お兄様は、ご自分の我が儘のために家を傾けてしまわれた……。この上、わたくしを辱めようとまでなさるのですか……」

「宮……宮……」

 伊周も、定子の悲嘆に合わせるように、さめざめと泣く。この様子が聞こえているのか、外の者たちは踏み込んでこようとはしない。ただ、再三に渡って脅迫めいたことを言ってくるだけである。

 やがて伊周は、涙を拭って立ち上がった。

「宮……お許し下さい。私の不手際で、宮のお立場を貶めてしまいました……。どうか、せめて御腹の御子を健やかにお産み奉りますよう……」

 泣きそうな顔で微笑み、若い罪人は外へと出ていった。たった一人、自分を捕らえようと待ちかまえる者たちの元へと――

「お兄様っ!」

 伏していた身を起こし、定子は思わず叫んでいた。だが伊周は、もう二度と振り返ろうとはしなかった。これほどの恥を塗り重ね、ようやくにして覚悟が決まったらしい。

「伊周殿! 待って……この老いた母も、どうぞ一緒に……」

 貴子は、押し留めようする女房の手を振りきって庭へ駆け下り、伊周の後を追っていった。下賎の者どもの目に触れることなど、まるで憚らずに。

 誰もが皆、半蔀の前に張り付き、破れ目から主人母子の姿を追う。定子はもはや泣くことも忘れ、ひとり母屋の奥に座り込んでいた。

「お父様……あのとき……わたくしもお連れ下されば良かったのに……。なぜ、このような無情の世に、わたくしをお残しになったのです……」

 職の御曹司にいる頃に休暇の許可をもらった清少納言は、里に帰ったまま戻っておらず、今この場にはいない。定子の直面する事態を知って、戻ろうと思わなかったはずはない。だが、たとえそうでも、検非違使が周囲を固めており、女房ごときが邸内に入れるはずはなかった。

 定子にとって一番支えの必要なときに、最も頼りとする女房がいなかった。この事実は、後々の定子の境遇に果てしなく暗い翳を落とすこととなる。

 半数が休みを得て里下がりしている時期だったとはいえ、側に残っていた女房は二十人あまり――その誰もが、目前の悲劇に心奪われ、目を奪われ、女主人の動向に気を配る余裕など持てずにいた。

「お父様……わたくしはもう疲れました……。もう、生きる望みも気力も失くしてしまいました……」

 半ば虚ろな目に、床に飛び散った様々な道具が映る。化粧道具、かんざしこうがい、毛抜き、草子や筆、そして――誰かが裁縫でもしていたのであろう。縫いかけの衣の側に、所在なげに転がる鋏が。

 定子は静かに手を伸ばした。ひんやりとした鉄の冷たさと、ずっしりとした重み。手元に引き寄せ、魅入られたように覗き込むと、鈍い光が自分を無常の闇から解き放ってくれるもののように思えた。

「主上……」

 手にした鋏を、見事に手入れされた美しい黒髪に押しあてる。

「楽しゅうございました……」

 十四の年で入内して、初めて会った帝――まだ幼さを残しながらも、理智の光を秘めた瞳は美しく、既に帝王の器を示していた。内裏で、後宮で、教え合い、学び合い、ともに成長してきた二人。六年の間の様々な喜び、楽しい日々、美しい想い出。離れていることの辛さ、愛を疑うことの苦しみ、そして、ともに歩むはずの道が分かたれてしまったことへの悲しみ……。

「これで……お別れでございます……」

 鋭い音が耳元で響き、長い黒髪が蛇のようにうねり落ちる。定子の白い頬を、一筋の熱い涙が伝い落ちた。

「ひぃっ!!」

 なにげなく振り返った乳母が、表情を凍りつかせて絶叫する。一斉に振り向いた女房たちは声を失い、色を失った。

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