長徳二(九九六)年四月二十四日――

「都中に検非違使の侍たちがあふれ返っていて……それはもう、怖ろしい様子でした。私など、まるで生きた心地がしなくって、逃げ込むようにお邸に辿り着いたんでございますのよ」

 今でもその緊迫したさなかにあるかのように、年若い女房は、興奮しきった面もちで幼い女主人に報告した。

「内裏では御門という御門をすべて閉ざして、侍たちが厳重に警固しているそうです。こちらのお邸の門にも大勢、警固の者がおりましたわ。それはもう、ものものしい有様で……」

 彰子は、そんな報告を耳にしながら、都のことでもなく大罪人の内大臣伊周のことでもなく、ましてや父道長のことでもなく、ただ懐妊中の身で悲劇の真っ只中にある中宮定子のことだけを想った。

 ここ土御門殿の東の対からも、侍たちの掲げる無数の松明たいまつのせいで、都の空が仄かに明るく染め上げられているのが見える。広大な邸の奥深く、十重二十重に護られている幼い深窓の姫にも、都を支配する緊張がひしひしと迫ってきた。

『中宮様は、どんなにお辛い想いをしていらっしゃることでしょう。御子が御腹におられるというのに……帝は、なぜ中宮様をお苦しめするようなことをなさるの? あれほど中宮様をご寵愛されておられながら……帝もお父様と同じなのだわ。平気で酷いことをなさる……。平気でか弱い女人を踏みにじられる……』

 その道長は、ここ数日、帝をお護りすると称して内裏に詰めたきりで、戻ってくる気配はまるでない。今もその傍らにいるであろう帝を、彰子は、父と同じ冷酷な人間として忌み嫌わずにはいられなかった。彰子にとって、もっとも敬愛する憧れの定子中宮を不幸にし、蔑ろにする者はすべて嫌悪の対象であった。もちろん、父道長も例外ではない。

『わたくしのことを可愛い可愛いとおっしゃりながら、平気で騙そうとなさる……。お父様はもう、昔のお父様じゃない。わたくしの大好きだったお父様じゃないわ……』

 幼心にも彰子は、自分の父への強い信頼が、あの蘇芳の薄様とともに引き裂かれ、砕け散ったことを想わざるを得なかった。

 その暗い表情の女主人を慰めようとしてか、年輩の女房が気を引き立たせるように言った。

「さぁ、姫様。嫌なことはお忘れになって、物語でもお読み致しましょう」

「それが宜しゅうございますわ。姫様は物語がお好きでいらっしゃいますものね」

 別の女房が引き取って、彰子の機嫌を取ろうとする。返事も待たずにいそいそと二階厨子の方へ行こうとする女房に、彰子は顔をしかめて言った。

「物語なんて聞きたくないわ。もう何度も聞いて、飽きてしまったものばかりだもの。つまらないわ」

「まぁ、そんな……せっかく殿が方々に手を廻されて、姫様のためにとお集めになったものばかりですのに」

 だからこそ気に入らない。それに、古い物語は皆そろいもそろって苦難の末に幸せになるものばかり。しかも、女御后となるめでたさを高らかに歌い上げたものばかりであった。

 今の彰子には、〝后〟という栄華など空しいものでしかない。小さい頃から父や周りの者たちに后がね后がねと言い続けられて、自分でもそういう運命に生まれたのだと思ってきた。いや、思いこまされていた。

 后になるという夢は、父道長の夢である。彰子が自ら思い描いた夢ではない。そんな風に、自分で見るべき夢までも他人から押しつけられることの煩わしさを、幼いながらにも痛感していた。それもこれも、すべてあの〝蘇芳〟の件以来である。今となっては、后がねは父一人の夢でしかない。

『后なんかになったとして……なにが幸せだというの? 定子様は中宮になられたというのに、あんな悲しい目にお遭いだわ。わたくしは后なんて絶対に嫌! 帝なんて大嫌い!』

 幼い故の純粋さで、彰子は、名誉とか地位というものに果てしない不信を感じ取っていた。


 同じ頃、中宮定子のいる二条北の邸には、敷地を取り巻いた検非違使が今まさに踏みこまんとしていた。固く閉ざされた門を打ち破り、鬼神のごとき勢いで、ものものしく武装した侍たちが一気になだれ込んでいく。

「内大臣藤原朝臣伊周! 一つ、太上天皇を殺め奉らんとした罪。一つ、臣下の行いべからざる大元師の法を行いたる罪。一つ、国母たる女院を呪詛奉りたる罪。以上により、官位剥奪の上、筑紫へ配流するものなり。中納言藤原朝臣隆家も、右に同じ理由により出雲へ配流するものなり!!」

 庭へと押し入った検非違使は、邸の南面に立って声高に宣命を読み上げた。その瞬間、邸内からは絶叫に似た悲嘆の声が響き渡った。


 「ええいっ、なにを愚図愚図しておる! さっさと引っ立てて、罪人を配流せぬかっ。期日を延ばせば延ばすほど、朝廷の威信は地に堕ちるのだ!!」

 道長は殿上の間で、報告に来た武官を怒鳴り飛ばした。伊周、隆家への配流の宣命が下されてから既に何日も経っている。道長の苛立ちは、まさに頂点を極めていた。

 伊周も隆家も邸の奥深くに立て籠り、帝の宣命という絶対の命令にも素直に従おうとはしない。罪人の内大臣邸とはいえ、今は定子が里下りしていて中宮御所となっている。検非違使といえども、いたずらに踏み込むわけにはいかなかった。

「仮にも、中宮のおわします御所にござりますれば……」

「中宮は中宮、罪人は罪人じゃ。中宮を御車にお移し申し、罪人どもを引きずり出せ!」

 武官は、金切り声をあげる道長に畏れをなしたように、急いで馬を駆って二条北に馳せ戻った。

 既に門扉は破られ、庭中に侍たちが群れ集い、邸の入り口という入り口に張り付いて周囲を取り囲んでいる。

「朝廷の命により、邸内を捜索致す!」

 定子は、蔀を下ろして閉め切った薄暗い寝殿の奥深くで、その最後通告を聞いた。傍らには、老いた母貴子と弟隆家が蒼冷めた顔で座り込んでいる。

「おお、なんということ。ここは、仮にも中宮御所でございますのに……あのように、おぞましい輩が押し入ってくるなどと……」

 女房たちが悲嘆の声を上げる。次いで、またもや庭の方から検非違使が叫ぶ。

「御車をご用意しております! 后の宮様は、直ちにお移り下さりますよう!」

 母と隆家が泣きそうな顔を向けてくる。だが、定子が肉親を見捨てられずに戸惑うのを、お付きの女房たちは許さなかった。

「宮様っ、お早く!」

「今にも侍たちが押し入って参りますわ! あのような下賎の者たちに、尊い御姿をお見せになってはなりません。お早くっ、お早くっ!」

 哀れな母と弟から、女房たちは身重の定子を引き離す。

「お母様っ、隆家殿っ」

 二人は、目に涙を溜めて塗り籠へと駆け込んでいく。定子は、二人の後ろ姿に手を差し延べたまま、車寄せの方へと力ずくで引きずられていった。蒼白い顔を引きつらせながらも女房たちは、間違っても中宮の尊い姿を侍たちに見せてはならぬとばかりに、手に手に几帳を抱えてわらわらと群がってくる。

 定子は、急ごしらえの女車おんなぐるまに押し込められるようにして入れられた。乳母と上臈女房の二人が同乗し、血気にはやった侍たちの乱暴狼藉から護るように、目を血走らせた女房たちが取り囲む。

「あぁ……お母様……隆家殿……」

 乳母に取りすがり、定子は邸内に残された二人を想った。一族の斜陽を決定的にした当の伊周は、今ここにはいない。邸が完全に包囲される前に、一人密かに抜け出していた。最後に父道隆の墓参りに行くのだと言って――

『お兄様……せめて、最後の誇りをお示しになって……。卑しい者のように逃げ惑ったりなさらずに、お父様の名を辱めないよう潔く罰をお受けになって……。これ以上あがいて見せては、恥を重ねるようなものですわ……』

 邸内に侍たちがなだれ込む物音が、車寄せに接したままの車の中にも聞こえてくる。怒号。けたたましい足音。あちこちで妻戸や蔀を打ち破る音。この世のものとは思えない、怖ろしい地獄であった。

 美しいもの麗しいもののみに囲まれ、綺麗ごとの中で育ち生きてきた自分。誰にも手出しできぬはずの、中宮という最上の位に就き、ただ人でさえない自分。その自分が今、あらん限りの狼藉を加えられ、誇りを踏みにじられている。屈辱に耐えようとする心も、既に限界に近づきつつあった。

『主上……この騒ぎを……わたくしの今の境遇を……どのようにお考えですか? わたくしを哀れと思っては下さらないのですか……? これほどの目に遭っても、わたくしは……まだ耐えていかなければならないのですか……?』

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