6
三月半ば、道長は傍目にも判るほど焦慮の極みにあった。ただ一人残る政敵、甥の伊周のこれ以上はない尻尾を掴みながら、未だ追い落とせずにいるのである。内大臣邸の家人を買収して情報を提供させ、まるで根拠のないことまで密告させて都中に黒い噂をばらまき、ありとあらゆる手を尽くしてきた。
そうまでしても、肝心の帝が罪料追求の宣命を出そうとしない。口では公私混同はせぬと言っているが、やはり中宮を庇おうとする想いが働いているのは明白であった。
だが、道長が苛立っているのは、それだけが理由ではない。昨日、職の御曹司にあった中宮が後宮には戻らず、二条北の里邸へ退出したことによる。退出の理由は〝懐妊〟であった。
道長が殊更ことを急ごうとしてきたのは、このような事態を得ても、不動の権勢を保たんとせんがためであった。今まで伊周の追求を渋ってきた帝のこと、この機に乗じてうやむやにしてしまわないとも限らない。
出仕しようともせず、朝から脇息に片肘を預けて鬼のごとき形相で考え事をしている道長を、女房たちは身をひそめるように遠巻きに眺めていた。あまりの怖ろしさに誰一人近寄ろうとはせず、もちろん声をかける者とていない。扇を弄び、開いたり閉じたりする音だけが、息を詰めた女房たちの上に鳴り響く。
やがて道長は
「女院様の御見舞いに参る!
「はっ、はいっ! ただいま……」
一番近くにいて道長と目が合ってしまった女房は、びくんと体を硬直させて平伏した。
先駆れを済ませて寝殿への渡殿を渡ると、さすがに祈祷の凄まじさが生々しく伝わってくる。読経の声が入り交じり、護摩に使う芥子の実の焼ける臭いがそこはかとなく漂う。
道長が寝殿の庇に座ろうとすると、女院付きの女房が中へ入るよう促しながら御簾をからげた。母屋の中央には御帳台が立てられ、その屏風を隔てた隣では、何人もの僧が護摩壇を立てて祈祷に熱中している。室内の空気は煙で白み、なんとなく息苦しい。
「道長殿。よく来て下さいました」
女院は御帳台の正面の帳を上げさせ、形ばかりの几帳をおいて、茵の上に身を起こしている。尼姿とはいえ、引き寄せた脇息にしなだれかかるその様は、往時の華やかなりしときを彷彿とさせ、なかなかに悩ましい。
「日々の忙しさに取りまぎれて、ずいぶんとご無沙汰してしまいました。ずっと心を痛めておりましたが、思ったよりお元気な御様子を拝察し、喜ばしい限りにございまする」
「ええ。とくに重いという訳ではないのですが、かといって良好ともいえない状態なのですよ。帝もご心配下されて、しきりにお文を下さるのですけれど……」
二人は一緒に育ち、心を一つにしてきた姉弟としての気安さで、とりとめのない話を続けた。帝の日常、政の動向。そして朝廷をないがしろにする大罪人の甥の処遇などを――。
「せっかく姉上に愛でて戴こうと庭の
「ああ……もうそんな季節でしたか。近頃は病のせいで、季節の彩りを愉しむことなど、すっかり忘れておりました」
几帳の脇から道長の肩越しに、女院は弱々しく庭の方を見やった。だが、室内にはものものしく屏風や几帳が立てまわされているため、庭の桜まで目が届くはずはない。
「外はすっかり花の季節だというのに……ここへは、香りも色も届かない。味気ないことです……」
女院は淋しげに笑う。このとき、道長の目が一瞬光ったことなど、病床の姉が気づくはずもなかった。
「それでは、こう致しましょう」
「……?」
「少々お待ち下され」
道長は優しげな声色を向けた後、傍らの女房に振り返った。
「職の役人どもを呼んで参れ」
「畏まりました」
女房は、さすがに教育の行き届いた作法で恭しく一礼すると、膝行して母屋を出ていった。
女院は皇太后の位にあるので、中宮と同じく専従の役所がつく。道長の邸とはいえ、この寝殿は皇太后の御所であった。
やがて前庭の方に下官が集い、簀の子縁に長官である
「女院様のお慰めに、桜をお見せしようと思うてな。庭の桜の枝振りの良いのを選んで参れ」
「はっ、畏まりましてございますっ」
大夫は再び見苦しいほどに平伏すると、振り返って庭の配下の者どもに指示を伝えた。下級役人たちが広大な庭の各所へと散っていき、満開に花開く桜を狩り集める。
「おう、それ。そこの枝もなかなか見事じゃ」
果ては道長自身が簀の子縁に出て、あれこれと指図をし始める。大夫はますます畏まって、自ら庭に降り、指し示された木に向かう。
「その木の下から床下近くまで小ぶりな花が咲いておるが、なんという花か?」
道長は高欄から乗り出すようにして、端近の桜の根本を指さした。
「はぁ、これは……〝ほとけのざ〟と申す草花でございまして、正月の七草粥などに用いるものでございます」
「ほう、〝ほとけのざ〟とな。良い趣向じゃ。それも集めて参れ。姉上の御病にも、御仏の御加護が得られるかもしれぬ」
近くにいた者を呼び寄せ、大夫は自らも這いつくばって、さして見どころもない草花を摘み始める。若い役人が
「おや?」
「おい、なにをしている。手を休めるな」
「は、はぁ……床下になにやら妙なものがありまして……」
「妙なものだと……!?」
大夫は顔色を変えて飛んできた。女院の御所に不備があれば、それを預かる役所の不備、ひいては長官たる者の責任問題となるであろうから、平静でいられるわけはない。自ら床下に這い込んで〝妙なもの〟を検分に行く。
「ややっ、これは……!?」
その叫びにも似た声を聞きつけ、道長は密かに会心の笑みを漏らした。やがて、泥まみれとなった大夫が〝妙なもの〟を手に飛び出してきた。
「うっ、右大臣殿っ! 一大事にございますっ!!」
今上帝の母后、東三条院の御所の床下から呪いの厭物が掘り出されたという天下の一大事は、その日のうちに皇太后宮職大夫の名で公にされた。
「母上を呪詛するとは……帝の生母をなんと心得るか。これは、国家と私への叛逆である。誰が呪詛したものか早急に調査せよ。いかなることよりもこれを優先し、厳しく調べ上げよ!」
帝は激昂した。固く握りしめた両の拳を震わせ、若き龍顔に青筋を立て、並みいる群臣に檄を飛ばす。文武に秀で世に賢帝と言われた青年が、初めて露わに見せる怒りの顔であった。
大路に
「内大臣殿ではないのか」
「あの方は高い位にありながら、軽はずみに過ぎる。花山院のことといい、大元師の法のことといい。おそらく今度も……」
「あの関白争いで女院が右大臣に味方したのを、酷く怨んでいるって話だ。内大臣は、あれ以来邸にこもって修法に明け暮れてるらしいしな。それに、あの高二位が付いてるんだから、こういうことをしたっておかしくないさ」
下火になりかけた伊周への誹謗中傷にまた一気に火が点き、今度こそは立ち消えにさせじと勢いよく燃え上がる。そんな気勢の下、またしても密告者が現れた。伊周の手の者から相談を受けたことがあるという、密教の修験者である。密告者は、はっきりと伊周の依頼だと断言した。
知らせを聞き激怒した帝は、満座の公卿を前に、ついに内大臣伊周の罪状を吟味するよう勅命を下したのである。御前の公卿に列して、ひとり薄笑いを浮かべる道長にはまったく気づかずに――
二条北の内大臣邸に里下がりしていた中宮定子は、几帳の向こうの兄を前に顔を蒼冷めさせ、責めるような鋭い眼差しで見据えていた。
「宮! 私を信じて下さい。私は無実なのです。私が、そのようなことをするとお思いですか?」
取りすがらんばかりに必死な形相で喚く兄に、定子は応えてやる気も起きずにいた。今さらながらに、内大臣という重職の身にありながら、卑小な器しか持たない兄を情けなく思う。
「確かに私は、女院をお怨みしたこともありました。しかし、呪詛などという畏れ多いことを、この私がする訳はないではありませんか。どうか……どうか、この兄をお信じ下さい」
伊周のこけた頬に涙が伝う。邸に閉じこもり続けていたために、顔は蒼白く翳りを帯び、目だけがぎょろりとして不気味に鋭い。かつて清少納言や、あまたの女人たちに絶賛された美貌の貴公子の面影は、もはや見る陰もなかった。
「たぶん……いや。絶対に道長の謀りごとです、私を陥れるための……。あの道長のことだ、そうは思いませんか?」
「もう……今となっては、真実など毛ほどの重みもございませんわ」
やっと口を開いた定子の言葉がこれである。面前の伊周も傍らで泣いていた老母も、そして女房たちも皆、一様にあまりに冷淡な言葉に絶句していた。定子は、もうなにも見てはいない。目線を宙空に向け、淡々と言葉をつないだ。
「かの菅公も、源高明公も……皆、無実の罪でした。真実はどうあれ、一旦その人の罪が人々の口の端に上ってしまえば……それで罪が確定してしまうのです。今やなんの力もないわたくしたちが、どう足掻いてみせたところで、時流や気運というものにはかないますまい」
なにごともなるようにしかならない。力のある者が世を動かし、力のない者は、それに従うしかないのである。前代の権勢家であった一族を、新たな当代の権勢家が追い落とすのは世の習いであった。
「宮! 主上のご寵愛はまだ失われてはおりません。あなたの御腹には主上の御子がおられるのです。宮がお取りなし下されば、きっと……」
「綸言汗の如し……一度出された勅命は、なによりも重いもの……わたくしなどに変えられるはずがありましょうか……」
定子の目から涙が滴り落ちた。それを見た女房たちが一斉に泣き崩れる。伊周はがっくりと肩を落とし、隣の対へと引き上げていった。やがて、いつにも増して凄まじい読経の声が、こちらの寝殿にまで響いてきた。
ひとり御帳台に閉じこもった定子は、魂の抜け落ちた死人のように蒼冷めたまま力なく座っていた。
『主上はまた、わたくしと女院様を秤にかけられた……』
脇息に載せていた手指に、我知らず力がこもる。このような情勢の中、公人としての帝が、情を捨てて厳しく臨むのは当然であった。だが、理性でそう思うのとは裏腹に、姑たる女院に負けたのだという苦い思いがこみ上げてくるのを抑えきれない。落ちぶれゆく元関白家の女主として最後の誇りを保つ術も知らず、定子の心は千々に乱れていた。
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