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「なぜでございます!? なぜ、厳しく処分なさらないのです。太上天皇に矢を射かけるなど、朝廷の権威をないがしろにする所行ですぞ! 盗賊や田舎侍ならいざしらず、矢を射たのは内大臣と中納言……朝廷の重職にある身。これを放置して、朝廷の威信が保たれましょうや!?」
清涼殿の孫庇に甲高い声が響く。帝は昼の御座に着いたまま、御簾の向こうを見やって顔を曇らせた。孫庇では、黒い束帯で威儀を正した右大臣道長が、額に青筋を立てて喚き散らしている。
「帝! なに故、放っておかれます。よもや、内大臣が中宮の御身内だからと仰せられるわけでは――」
「私は、公事に私情を挟むような愚か者ではない!」
鋭い語調できっぱりと言い切られ、道長は一瞬鼻白んだ。だが、すぐに気を取り直して、また詰問し始める。
「私情ではないと仰せられるなら、理由をお聞かせいただきましょう。このままでは、私は納得致しかねます」
帝は重い溜め息をついた。御簾の前に陣取る道長は、納得できる理由を聞かぬ限りは梃子でも動きそうにない。
「帝!」
「……理由は、院からの訴えがないことによる。正式な訴えのない以上は、ただの噂に過ぎぬ。噂を裁くわけにはゆかぬであろう?」
朝廷で、このような会話が交わされているとも知らず、都は不穏な空気に押し包まれていた。
「あの右大臣が、このまま指をくわえている訳はないさ」
「そうさね。政敵を永久に葬る最高の機会だものな。このままで済むわけはないよ」
そこかしこで、そんな囁きが漏れる。都の人々は上も下もこぞって、門を固く閉ざした二条北の内大臣邸に関心を集めていた。いつか、今日か明日か――都中で、伊周兄弟の処遇が噂された。
次第に噂には尾ひれがつき、近くなにかが起こると人々の顔は緊張と不安に彩られ、都を凶々しい重苦しさが支配していった。
道長は、帝の対応に歯噛みしていた。確かに、事件の被害者である花山法皇自身が事を公にしたがらないのは、大きな難点ではある。正式な訴えがないであろうことを見越して、配下の者に方々へ噂の種をまき散らさせた張本人であるから、その点を指摘されると反論の余地はない。
土御門殿の西の対。その簀の子縁に出て、道長は、高欄の下に密かに控えている侍に低い声で命じた。
「もっと噂をまき散らせ。世の趨勢を動かすのだ。帝が、ご詮議せざるを得なくなるほどにな」
「はっ」
侍は不気味な笑みを浮かべて闇の中で畏まる。実際に謀りごとを実行するのは、公卿殿上人などの高貴な者という訳にはいかない。やはり、このような無頼の輩がどうしても必要となる。腹心の家司が密かに回してくれた侍だったが、そういう意味ではなかなかに有能であった。
既に事件発生から一月近く経っている。このままでは伊周兄弟の処分も、うやむやになってしまわないとも限らない。伊周の失脚を望む道長にとっては、千載一遇の機会である。だからこそ、どうしても有効に利用しなくてはならないはずだった。
道長は一段と声を低めて、侍の方に乗り出すようにして言った。
「あちらの床下に
侍の目に驚きの色が浮かぶ。だが、それも一瞬のことだった。すぐに元の冷酷な表情を取り戻し、承諾の意を伝えるかのように一礼して、闇の中へと溶け込んでいった。
「院のことでは冷淡であられた帝も、今度は冷静ではいられまいて……」
祈祷の声の鳴り響く寝殿の方をちらりと見やって、道長は低く呟いた。ここのところ寝殿に住む女院は、さほど重いというのでもないが、体調を損なって床に就く日が多くなってきている。もちろん祈祷は手厚く行われ、薬師の手配も怠りないが、特に悪くなるということがない代わり、さして良くもならないという状態が続いていた。
天孫の帝が住まう内裏は神聖な場所である。特に、神事のあるときには穢れは忌み嫌われる。そのため神事を前にして、父の喪中である定子は後宮にいられなくなり、内裏の東隣り、大内裏の中にある
公的に伊周兄弟を処罰するという話はまだ出ていないが、内裏中いや都中に、このまま捨ておくのは許さないといった機運が高まりつつあり、それが定子の身辺を間接的に圧迫していた。
当の伊周は相変わらず二条北邸に引きこもり、門を固く閉ざして外へ出ようとはしない。例の祖父高二位が側にぴったり張り付いているため、邸内からは凄まじい祈祷修法の声が鳴り響き、不気味な空気をまき散らしている。
ただでさえ不穏な色に染まりつつある情勢を、さらに決定的にしたのは、ある密告だった。伊周が
だが、帝はそんな機運を知りながらも、まだ黙して語らない。道長の苛立ちは目に見えて激しくなってきている。
内裏の外に出てしまった定子は、もちろん帝に会うことはできなかった。帝自身の口から今後の対処について聞き、最低限の覚悟だけはしておきたいと思うものの、どうすることもできはしない。前途に不安を抱いたまま、ただ漫然と日々を送るしかなかった。
「少納言。近頃は草子を書いていないようね?」
定子は女房たちを不安がらせぬよう、努めて明るく振る舞った。男たちの政争は、自分たちにはまるで関わりのないこと。そう思いこませようとしていた。
「あなたの草子は、なによりもわたくしを愉しませてくれるわ。いつ新しいのができるかと、ずっと待っているのよ」
「はぁ……申し訳ございません。近頃は里下がりをしていないもので」
「やっぱり里でなければ書けないものかしら……それでは、内裏に戻って落ち着いたら、しばらく骨休みをしてくるといいわ」
「はぁ、でも……」
どこか煮え切らない。そんな清少納言の態度に、定子は昨今の事情を思った。圧倒的に道長優勢の天下で、有形無形の圧迫を受ける自分たち。それに反発する女房たちの中には、清少納言のような、かつての道長礼賛者を槍玉に上げる者もいる。だが、定子自身は清少納言の忠誠を露ほども疑ってはいない。
「疲れてもいるようだし……。里でゆっくりして戻ったときには、以前のように楽しい話をたくさん聞かせてもらうわ。もちろん、あなたがいないと淋しいから、長いお休みは困るけど」
「宮様……お気遣い、ありがとうございます。きっと、面白いものを書いて参りますわ」
清少納言は定子の想いを察したらしく、かすかに微笑む。だが、定子が気を遣えば気を遣うほど、他の者たちの嫉妬は増し、清少納言への風当たりは強まるのであった。
当の定子と清少納言の他は誰もが皆、道長の動静に神経を尖らせ、なにかあるたび些細なことで一喜一憂する。最近では表だって口にする者もいなくなったが、心の内では伊周の処分と、それによる中宮の立場への影響ばかりを考えているのが手に取るように判る。
「すべて神仏の決め給うこと。わたくしたちがあれこれと気を揉んでも、なるようにしかならないわ。どうせなにもできないのなら、開き直って楽しく一日を過ごした方が余程ましだわ」
これが、近頃の定子の口癖だった。悲劇の中心である当の女主人がこんな様子であるから、女房たちも不安を口には出せないのであろう。また、無理にでも明るく振る舞おうとする定子に触発されて、皆それなりに落ち着いた日々を送れているのかもしれない。
「宮様、お文でございます」
上臈女房が近づいてきて、紅白の薄様を使って桜
――短い間のことだというのに、あなたに会えないことがたまらなく淋しい。今までなんども離れたことはあったけれど、今ほどあなたが恋しいと思ったことはなかった。
辛く心細い想いをしていることだろうが、どうか私を頼りと思ってほしい。あなたは、この私の后。たとえどんなことになろうと、あなたの地位は不動のものなのだ。それを忘れずに、心を強く持っておくれ――
そう言いながらも周囲を憚って、密かに文を遣わせてくることがたまらなく悲しい。人の噂よりもどんなことよりも、帝のこの態度こそが、〝罪人の妹〟という烙印を押されたような気分にさせる。
『わたくしをお慰め下さるのなら、なぜ堂々と御文をお遣わしにならないの……? なにをしても許される御身であられながら、それほどまでに右大臣殿を畏れていられるのか……』
先が見えたような気がした。おそらく道長の圧迫に抗しきれずに帝が折れるのも、時間の問題であろう。あの関白争いのときのように。それほど遠くはない時期に、伊周も隆家も、帝の名によって裁かれることになるに違いない。
定子は女房たちの手前、抑えに抑えてきた悲憤が今、一気にあふれ出そうとしていることを知った。涙が留めどなく流れ落ち、つい嗚咽してしまいそうになる。
『駄目……泣いては駄目。わたくしが泣いたら、せっかく明るさを取り戻してきた女房たちがまた……』
両手で口元を覆い、泣き声を漏らさぬよう必死で耐える。胸が張り裂けそうだった。そのとき、なにかが几帳の帷の裾から差し込まれた。綿を入れた厚手の袿であった。
「言わで思ふぞ――」
袿を差し込んだ者は小声で囁くと、すっと離れて行った。言わで思ふぞ――「言わで思ふぞ 言うに勝れる」からであろう。はるかな昔、女房たちとの確執で疲れて里に引き籠ってしまった清少納言を、定子が呼び戻そうとしたときの言葉であった。
『少納言……』
定子は、また感情が昂ぶり涙がこみ上げてくるのを知って、慌てて袿を引き寄せて頭から被った。
やっと泣きやんだ頃を見計らってか、清少納言が目立たぬよう戻ってきて、そっと几帳の中に滑り込んできた。手に、化粧筥を持っている。
「あなたほど……わたくしを理解してくれている人はいないわね。きっと、この世で一番だわ」
「もったいのうございます」
清少納言は微かに頬を上気させ、定子の崩れた化粧を直し始めた。白粉を塗り、紅を差し、目がいくらか赤いことを除けば、今まで泣いていたことなどまったく判らないほどに整えてくれた。
「もう大丈夫。もう決して泣かないわ。だから、心配しないで」
白い肌、紅い唇、いくらか赤い美しい瞳。夜の灯りにきらめく絹のような長い黒髪――艶然と微笑む定子の顔には、若干の面やつれがあるものの、それがかえって峻厳の美を際だたせていた。
このときにはまだ誰もが、いや当の本人でさえ、面やつれは気苦労によるものと思いこんでいた。
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