長徳二(九九六)年正月――新年の大臣大饗たいきょうが、右大臣道長の権勢をあますところなく誇示するかのように、土御門殿の西の対で華々しく繰り広げられていた。公卿殿上人は言うに及ばず、まさしく百官が右大臣家に群れ集った。

 誰もが世の趨勢、時流に添おうとし、時の権力者に我先にとおもねようとする。かつて、それほど遠くはない昔に、故関白道隆をもてはやした群臣のほとんどが、掌を返すように道長側に与していた。道隆の子女たちは確かに世にあり、名のある存在であるのに、権勢におもねる者たちは敢えて口を閉ざし目を閉ざして、この世に無きがもののように無視した。

 たとえ人の好意は集まらなくとも、もはやただ人ではない皇族の身である中宮はまだ良かった。ただ一人の今上帝の后であり、臣下と隔絶された地位にある中宮定子は、たとえ道長といえども直接に手出しすることの叶わぬ存在である。それ故、全盛時に比べればいささかの見劣りはあっても、ある程度の格式は保たれていた。

 一方で見る陰もないのは、その兄の内大臣伊周である。昨年の正月には、まだ父道隆は存命中であった。その大饗には、誰もが先を争って駆けつけたものである。それが、半年も経たぬ内に内大臣家に出入りする者は目に見えて減り、新年を迎えていっそう無惨な有様となっていた。

「新年のお慶びとともに、大臣おとどの末永い栄華をお祈り申し上げます」

「この新しい年は、新しき大臣の世となって、末永く世に語り継がれることでございましょう」

 西の対に所狭しと居並ぶ群臣の拝賀を受け、口々に述べられる我が世のめでたさに、道長は高らかに笑い、得意絶頂の上機嫌な酒をあおった。

 だが、いかに時勢の流れが傾こうと、まだまだ仮の栄華。完全とはいえない。栄華を極めるということは、先の道隆が成したようなものではなかった。

 いかに関白となって子を昇進させ姫を后に立てようと、また世の人々を我が下に従えようと、今上の皇子を孫に持って次代の帝と為すことができなければ、どんな栄華もうたかたの夢でしかない。それが良い証拠に、道隆の死より一年と経たずに、その子女の勢いは昔日の面影すら残していないではないか。

「あとは、姫君のご成長を待たれるばかりでございますな。いやはや、羨ましい」

 誰かが杯をあおりながら高らかに言う。それを受けて道長は、御簾を隔てた向こう、さらに寝殿の彼方を見透かすように視線を定めた。土御門殿の東の対。そこでは道長の掌中の玉が、いずれ来る栄光の日のために、たゆまず磨き上げられるようにして育てられている。

 大いに騒ぎ、飲み、食らい、栄華を具現化したかのごとき盛大な祝宴は、夜半過ぎまで打ち続いて都の夜を賑やかに彩った。

 宴の果てた後も西の対に残った道長は、庇に座を設けさせて一人庭を眺めながら、酒肴を愉しんでいた。新春を迎えたとはいえ、まだまだ夜は肌寒い。だが、かなり酒が入った体には、寒気など気にもならないのであろう。

 庇の寒さを嫌う女房たちを下がらせ、一人火照った肌を夜風に晒して独酌で酒杯を重ねる。周囲に誰もいない気安さと、酒に酔っての無防備さもあってか、道長は、自分の心中を吐露するような独り言をさかんに口にした。

「くそ、目障りな者どもめ。あの長兄と同じで、まったくもって気にくわん」

 提子を持ち上げ、空になった土器かわらけに酒を注いで庭の立木を見やる。冬の到来で葉を落として眠っていたかのような木々も、ようやく生命の息吹を取り戻しつつあった。花もなにも咲いているわけではないが、冬の間とは違って生命の活力というものが、やはり幹や枝の端々にあふれて見える。これから栄華を極めんとする右大臣家の活気と、どこか似ていた。

「長いことかけて、やっと掴み取った幸運だ。決して放したりするものか。そのためには、どんな障害があろうと誰が立ち塞がろうと、どんなことをしてでも蹴散らしてくれるわ! おお、そうだ。たとえ中宮、内大臣といえどもな」

 憎々しげに言い放ち、杯の酒を一気にあおる。酒気とともに熱い息を勢いよく吐き出しながら、今まさに飛びかからんとする雄牛のように、前方を鋭く見据えて肩を上下させた。

「もう少し姫が大きくさえあったなら……あの中宮など、一気に押しのけてくれるものを。だが、今はまだどうすることもできん。家が落ちぶれようが、后は后だからな。当面の問題は、あの伊周だ。内覧の宣旨を戴いて蹴落としてやったものの……中宮がおる以上は、また盛り返してこんとも限らぬ。もし今、中宮の腹に皇子みこでもできようものなら、大勢はまた一気に逆転する……」

 道長は、手にしていた干魚を腹立たしげに簀の子縁に叩きつけた。

「なにか良い手はないものか。あの伊周めを失脚させ、廟堂から追放してやれるような良策が……。後見が無くなれば、たとえ中宮に皇子ができようと次代の東宮となる心配はなし……私の権勢も揺るぎはせん。とにかく、時を稼がねばならぬ。私の姫が裳着もぎを迎えるまで……」

 だが、事立てて良策を講ずる必要はまったくなかった。このとき、道長の最大の政敵は、自滅に向けてわざわざ歩みを進めていたのだから。


 正月十八日。内裏の正殿である紫宸殿ししいでん西庭の弓場殿ゆばどので、正月行事の賭弓のりゆみが行われていた。

 紫宸殿と校書殿をつなぐ広い渡殿に帝の座所が設けられ、その左右に大臣公卿が居並んだ。渡殿の前にある弓場に、近衛府や兵衛府の武官たちが交代で立ち、永安門の手前に設けられた的に向かって矢を放つ。

 一射一射に歓声があがり、武官が矢をつがえるたび、その場は水を打ったようにしんと静まり返る。

 理知と教養に恵まれ、まれに見る賢帝として天下に仰がれる帝は、まだ年若い青年らしく猛々しいものを好むところがあった。

「ほう……あの左近中将が、これほどの腕とは知らなかった。歌詠みの得意な文人気質の者だと思っていたのだが」

 ときおり隣に座る道長に声をかけ、また矢の行方を追って目を輝かせている。帝といえど、やはりまだ十七歳の若者である。ここ最近の、生母と愛する后との板挟み、さらに幼い頃よりの友からの怨みなど、この高貴な青年には、気の張ることが多かったに違いない。それを打ち払うかのように帝は、弓競べの観覧を無心な様子で愉しんでいた。

 宮中での公式行事だというのに、内大臣である伊周は物忌ものいみと称して参内していない。帝も不満げであったが、周りの者たちは密かに、関白になれずに拗ねているのだと嘲笑った。

「右大臣殿……ちょっとお耳に入れたき儀が」

 道長は、息のかかった殿上人の一人に囁かれて小さく頷いた。目立たぬように席を外し、そっと清涼殿の殿上の方へと足を向ける。

 さすがに帝殿上人こぞって弓場殿の方へ行っているので、清涼殿はいつになく静まり返っている。女官たちも密かに賭弓を覗きに行っているのか、控えの間で休んででもいるのか。人影はまったく見えない。ときおり、弓場殿の方から歓声が漏れ聞こえるくらいだった。

「なんだ、耳に入れたいこととは」

「は、実は――」

 腰巾着のように道長に与し、いろいろと情報を仕入れては報告するなどして点数を稼ごうとする者が、この頃ではとみに増えてきている。まだ若い殿上人は扇を開いて道長の耳元に顔を近づけ、声を低めて囁いた。

「――内大臣様が、とんでもないことをやらかされまして……」

「なに、内大臣が?」

 道長は、伊周への対処に頭を悩ませていただけに、ぎらりと目を光らせて顔を引き締めた。

 ――ここ最近の内大臣伊周は、帝を怨み生母である女院を怨み、怪しげな修法に打ち込む一方で、不満の捌け口を女色に求めていた。

 もう何年も前に死んだ、ある大臣の忘れ形見の二の姫を訊ねて通っていた。ところが、その同じ邸へ、かつて道長の父兼家の策謀で退位に追い込まれた先帝の花山法皇が、四の姫を目当てに通っていたのである。それを伊周は、勝手に恋敵と勘違いしてしまった。

 その伊周に相談を受けた弟隆家は、血気盛んな気性も手伝って、あろうことか通ってくる法皇を待ち伏せて、矢を射かけてしまったのである。もちろん単なる威しのつもりであったのだろうが、矢は法皇の袖を射抜いてしまった――

「なんと! それは真か?」

 道長は声を低めるのも忘れ、大声をあげて密告者に噛みついた。

「もちろんですよ。法皇の従者が、私の従者に直接打ち明けたことでして」

「しかし……花山院からは、なにも訴えてこられてはおらぬが」

「それは、そうでございましょう。出家された法皇の御身で、女の元に通われていたなどと知れましたら、やはり具合がお悪いでしょうからねぇ」

「それは、そうだな。つまり院は、公にされるおつもりはないということか……」

 独り言のように呟きながらも、道長の目は鋭く光り、口元には冷酷な笑みが浮かんでいた。


 それから数日のうちに、都中を怖ろしい噂が駆け抜けた。公卿殿上人は慌てふためき、そこかしこの貴族の邸で、その噂が人の口の端に上った。

 男たちの政の世界からは隔絶された女の園、内裏後宮の登花殿へも、日を得ずして噂は伝わる。

「なんという……なんということを……お兄様は……」

 女房の口から事件の概要を聞かされた中宮定子は、そう呟くなり、座所に座ったまま崩れ落ちるようにして気を失った。

「あっ、宮様!?」

 慌てて女房たちがいざり寄る。皆一様に顔を蒼冷めさせ、定子に取りすがった。御帳台の中へと定子を運び込み、誰もが我を失う。

「ああ……内大臣様は、なんということをなされてしまったのでしょう……」

「院がお悪いのよ。出家なされた御身で、女通いなどなさるから……」

「理由はどうでも院に矢を射かけるなんて、とんでもないことだわ……」

「ああ……内大臣様になにかおありになったら……宮様はどうなられるの……? 私たちは……?」

 口々に嘆き動揺してざわめくのを、定子は一人、御帳台の中で聞いた。ここ最近、体の調子が優れないのに加え、今回の兄と弟の不始末で、蒼冷めたままの顔色は一向に戻らない。

『なんということを……とうとう、わたくしの案じたとおりになってしまった……。こともあろうに院を射るなど……朝廷が許すわけはない。きっと厳しい処罰が下される。たとえ主上がお許し下さったとしても、あの道長殿が放っておくわけはない……。ああ……これでもう、わたくしたちは終わり……お父様の築かれた栄光も、完全に砕け散ってしまった……』

 定子は茵に伏したまま、顔を覆って声を殺して泣いた。こうまでなっても、いやこうなったからこそ、自分が一家の柱石とならなくてはならない。罪を犯した兄弟はともかく、せめて父を喪って悲嘆にくれている母や妹たちだけでも、自分が支えていかなければならない。そのためには、たとえ女房たちにであっても、自分の弱さを見せるわけにはいかなかった。

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