その夜、彰子は胸が躍ってなかなか寝付けなかった。しんと寝静まった東の対。几帳の向こうでは、乳母がすやすやと寝息を立てている。

『中宮様……もう、お文を読んで下さってるわよね。どう思われたのかしら……ああ、早く朝になればいいのに。早く、お返しのお文が読みたい。中宮様の御手蹟って、どんなにか素晴らしいのでしょうね。わたくし、きっと一生の宝物にするわ』

 胸をわくわくと躍らせ、興奮しきった頭には眠気など訪れるはずもない。朝を、父の帰りを待ちわびる心には、それまでの三刻あまりの間が果てしなく長く感じられた。

 それでも明け方近くになって、彰子はいつしか眠りに落ちていた。すっかり熟睡してしまい、ようやく目が覚めたのは昼に近い頃だった。

「姫様。今日はまた、ずいぶんとお寝坊でいらっしゃいますこと」

 洗顔のための角盥つのだらいを若い女房たちに運ばせ、乳母が几帳の内を覗き込む。彰子は、はっと我に返って飛び起きた。

「ねぇ、今は何刻? お父様は!?」

「もううま二つでございますよ。殿は、いつもより遅うございますようで、まだ戻られてはおられないようですけれど?」

「え……まだ? そうなの……」

 彰子は、気が抜けて茵にぺたんと座り込んだ。宿直の翌日はたいてい朝早くに戻るはずなのだが、政権をとって間もない道長には、幼子には窺い知れない煩雑な事情もあるのだろう。しばらく考え込んでいた彰子は、思い直して乳母に頼み込んだ。

「お父様がお戻りになったら、まっすぐこちらへ来て下さるよう、あちらの女房に言っておいて」

「なにかおありなのですか?」

「内緒よ。お父様とわたくしだけの秘密なのだもの」

「おやまぁ……」

「ね、お願いよ」

 彰子が幼子のような我が儘を言うのは珍しいのか、乳母は不思議そうにその顔を見ていた。だが、さすがに若い女房とは違って、まったく動じた風はない。

「はいはい。では、あちらの対へ使いを出しておきましょう。それより姫様には、まずはお顔を洗って朝膳あさのおものを召し上がって戴かなくては。そんな寝起きのお顔で、お父上様をお迎えなさるおつもりですか?」

「わかったわ……」

 彰子が几帳の外へ出るのを待ちかまえていたかのように、何人かの女房たちが手に手に道具を持って取り囲む。女房たちは手際よく、彰子の朝の仕度を済ませていく。その一方で、別の女房たちが寝所を取り払い始めた。

「ねぇ。お父様は、まだかしら?」

 朝膳を済ませて厚い畳を敷いた座所に座っていた彰子だったが、心はまるで落ち着かず、おそらくは公務で戻れないのであろう父に対し、どこか怨みがましい想いも抱かずにはいられなかった。

「ねぇ、大輔。もう一度、あちらへお使いを出しておいて。お戻りになったら、絶対に一番にこちらへ来て下さるようにって」

「……かしこまりました」

 彰子の落ち着きのないそぶりをずっと見ていた若い女房は、苦笑しながら一礼して下がっていった。

 それから四半刻も経った頃だろうか。ようやく中門のあたりに主の帰還を示す気配があったのは。ややしばらくして、昨日と同じ黒い束帯姿の道長が現れた。彰子の願いどおり、本当に一番に立ち寄ったらしい。

「姫や……宿直やら雑務で疲れているこの父に、あまり我が儘を言うものではないよ。いったいなにごとかね?」

 やましさのかけらさえ見せずに、道長は、わざとらしいほど大仰に疲れた素振りを見せて彰子の傍らへと来た。

「なにごとって……」

「わざわざ呼びつけるからには、用事があったからなのだろう? 私は疲れているのだよ。早く言っておくれ」

 自分が一日千秋の思いで、夜も寝つかれずに待ち続けていたというのに――彰子は、自分の真摯な想いがこうまで気軽に受けとめられていたのかと思うと、憤りを覚えずにはいられなかった。

「酷いわ、お父様! あれほどお約束したのに……中宮様にお文を届けて下さるって言ったのに。お父様、忘れてしまったの? わたくし、ずっと待っていたのに……」

「ああ、お文……ね」

 道長は今初めて思い出したかのように、感情のない口ぶりで言う。

「ちゃんと中宮様にお渡ししたよ」

「本当!?」

 それまで曇っていた彰子の顔が、雲間に日が射すがごとく一気に明るく輝いた。そのあまりの喜びようにたじろいだかのように、道長は、自分に向けられる無垢な瞳から反らした目を泳がせる。

「ねぇ、お父様。お返事は?」

「ああ……お返事ね。戴けなかったよ」

「え!?」

 道長はこともなげに言う。

「戴けなかったって……どうして? 嘘でしょう?」

 彰子は、その父にすがりつくようにして食い下がった。少し離れたところから、女房たちが常にない主人父娘の様子に驚いたように、おろおろと事の行方を見守っている。

「中宮御所をお訪ねして、そこのお付き女房に取り次いでもらったのだがね。中宮様は……私を誤解しておられるらしくてね」

「誤解……?」

「おそらく、亡くなった兄上と仲が悪かったという噂を信じておられるのだろう。お会いするどころか、声も聞きたくないと仰せられてね……」

「そんな……それじゃあ、お文は……?」

 彰子は一縷の望みに期待をかけて、眉をひそめている父に訊ねた。会うのを拒否するほど嫌っているのであれば、文など受け取ってもらえるわけもない。そう思いながらも、考えたくはないことだった。

「文だけでもと思って女房に無理に渡したのだが……中宮様は見向きもなさらなかったらしい」

「そんな……中宮様は、お文をご覧にもならないでお返しになったの……?」

「あ、いや……文は返してもらっていないが……」

 道長にしては、どこか落ち着きがない。だが、彰子は、そんな父の不審な素振りに気づく余裕もなく、あふれる涙を目に溜めたまま言葉を失っていた。愛娘のあまりにも悲痛な表情を前にして、さすがに良心がとがめたものか、道長は後ろめたげに目を反らした。

 期待に胸を膨らませていた彰子は、生まれて初めて味わう、挫折感にも似た大きな落胆に打ちひしがれていた。自分の中に生じた苦しく悲しい思いを、どう対処していいのか判らない。一昨日、父に取りすがって泣いたように泣きじゃくる気力もなく、ただ自分の意思とは関わりなく、涙が次から次へとあふれてきていた。

「姫……そのように泣くでない。もともと中宮は、そなたが慕うだけの価値ある女人ではなかったのだ。あの御方は、才あふれる分だけ、心の冷たい御方でいらっしゃる。他に姫にふさわしい友は他にいくらでもいるはずだ。この父が、もっと良い友を見つけてあげよう。だから、もう忘れるのだ」

 慰めるためにか、なんのためなのか。道長は、彰子の中の定子という偶像を壊すようなことを言う。その言葉が、さらなる追い打ちをかけて彰子の頭の中で空転し、こだまのようにいつまでも響き続けた。

 西北の対から倫子付きの女童めのわらわが渡ってきて、御簾際で取り次ぎを求めた。取り次いだ若い女房は、さわさわと衣ずれの音を立てながら、もめている二人の側へと近づいてきた。

「……殿。帝からのお使いが西の対に見えているそうです。すぐお戻りになられますようにと、上からのご伝言にございます」

「うむ、判った」

 短く答えて道長は、何も言わずにぽろぽろと涙をこぼし続けている彰子を見やった。重い溜め息を一つつき、その小さな頭に手を載せる。

「聞いたろう? 私は、もう行かなければならないが……いいね。あの御方のことはもう、きれいさっぱり忘れるのだよ」

 それだけ言うと、道長は立ち上がるべく膝を立てた。彰子は思わず衝動的に父の袖を掴んでいた。

「お父様……」

「姫、聞き分けておくれ。主上からのお使いだ。姫の側にいてやりたいが、私は行かなければならないのだよ」

 優しく諭しながら、袖を握って放そうとしない彰子の小さな手を解き、もう一度その頭を撫でた後で、ようやく道長は立ち上がった。そのとき、くるりと踵を返した道長の袖から、一枚の紅い花びらがひらひらと舞い落ちた。

 彰子は、さっさと逃げるように御簾をからげて出ていった父の姿など、まるで見てはいなかった。涙に濡れた目は、厚畳の高麗縁の上についた、染みのような〝紅い花びら〟に注がれていた。それは、蘇芳色の薄様紙の小さな切れ端だった。

 周りの者に気づかれぬよう、そっと扇で引き寄せてつまみ上げた。小さな掌の上の小さな〝紅い花びら〟を、それと確かめるように何度も何度も見た。やはり、自分が定子に贈ったはずの文に間違いない。

『お父様は……わたくしの文を破いてしまわれた……。中宮様にお渡ししたと嘘までついて……中宮様を冷たい御方だとまで言って……なぜ……!?』

 幼い心は、先ほどの落胆よりもなお、強く大きな衝撃に見舞われていた。誰よりも敬愛し、誰よりも絶対の信頼をおいていた父。その父との強い繋がりに、今はじめて罅が入りつつあった。信じていた父を疑い、否定することで、今まで見えなかった真実が彰子の目の前にはっきりと現れてくる。

『本当だったんだわ……お父様と伯父様との仲が悪く、憎み合っていたという噂は……。昔聞いた、あの弓競べのことも……そしてお父様は、中宮様やそのお兄様まで嫌っている……』

 幼いながらにも、真心と想いのたけを尽くした文。その踏みにじられた小さな切れ端を両手でそっと包み込み、胸に強く押しあてる。もはや涙は出てこない。ただ、救いようのない、果てしない空しさだけが幼い胸を吹き抜けていった。

 この日こそが、彰子にとっての自我の始まりであった。彰子はこの後何十年と、父の命が果てるまで、自らの生涯を終えるまで、この日のことを決して忘れることはなかった――

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