「私の可愛い姫や。ご機嫌はいかがかな?」

 道長は、女房のからげる御簾を毎度同じ言葉で呼びかけながらくぐり、彰子の側へとやって来る。その顔は、一の人として表に見せる重々しい表情ではなく、妻倫子にさえ見せないような目尻を下げた満面の笑みであふれていた。

「少し大きくなったのではないかな?」

「まぁ、殿。昨日、お会いになったばかりではございませんか」

「いやいや……この年頃は、昨日よりは今日、今日よりは明日と日一日と成長するものだ。その証拠に私の大事な姫は、昨日よりもずうっと美しくなっておる」

 ほころんだ顔をすり寄せ、道長は腰を降ろして、彰子の幼い体を膝の上へと抱え上げた。

「お父様も、毎日毎日ご立派におなりよ。右大臣様ですものね」

「はっはっは、そうかそうか。私も立派になったか。これは良い!」

 愛娘の柔らかな頬に頬ずりしながら、高らかに笑う道長。女房たちは皆一様に、扇や袖で口元を隠して笑っている。彰子は、父のはしゃぎようをくすぐったく思いながらも、やはり定子のことが気になっていた。

『お父様……とってもご機嫌が良いみたい。お願いしてみようかしら……』

 彰子は、そっと父を見上げて顔色を窺った。いつも以上に機嫌は良いように見受けられる。三十の男盛りのふくよかな頬に、つやつやとした気持ちの張りが浮き上がっているようだった。

「あのね……お父様?」

「ん?」

「わたくし、お願いがあるの」

「ほう。姫が私にお願いとは……言ってごらん。今の私には、姫の願うことならなんだってかなえてやれるぞ。なにかね? 螺鈿らでん細工の桶に入れた貝合わせの道具かね。それとも、新しいひいな遊びの道具かね?」

「そんなことじゃないの。あの……」

 いくらか間をおいて、取り囲むようにこちらを窺っている女房たち。彰子は、ここで話して良いものか迷っていた。その目線を追って、道長は、願い事を言い出せずにいる理由を悟ったらしい。

「ああ、お前たち。下がっていておくれ。どうも姫は、お前たちに聞かれるのを恥ずかしがっているようだ。よほど子供じみたお願いとみえる」

「酷いわ、お父様。わたくし、子供じみてなんか……」

「よしよし……ささ、お前たち。早くあちらへ行きなさい」

 笑いながら手で合図され、女房たちは、吹き出しそうな口元を抑えて下がっていく。誰もいなくなった母屋に、彰子は父と二人きりになった。

「さぁ、これでよかろう。いったい、どんなお願いなのだね? 言ってごらん」

「あの……お父様は、中宮様のことをどうお思い?」

「中宮様?」

 それまで笑っていた道長の顔が一瞬ひきつる。彰子は、それを見逃さなかった。父の腕を払いのけるようにして膝から降り、正面に座る。

「お父様……やっぱり本当なの? お父様と……中宮様の亡くなられたお父君の関白様は、とても仲がお悪かったってこと……」

「誰がそんなことを?」

「女房たち……お母様や乳母の君もそう。わたくしが中宮様のお話をするのを嫌がるの。どうして? お父様も、中宮様がお嫌い?」

 まだあどけなさの残る美しい顔を歪ませ、泣きそうな声で問いかける彰子を、道長は困ったように見つめた。やがて表情を失っていた顔に、いつもの優しい笑みが戻る。

「なにを言っているのだか。すっかり大人びたと思っていたが、やはりまだまだ稚い童子ようだ」

 そう言って頭を撫でようとする父の手から、彰子は思わず逃れるように身をよじっていた。

「ちゃんと答えて下さらなくちゃ、嫌! わたくし、もう童子じゃないわ」

「やれやれ……」

 わざとらしく大きな溜め息をついて肩をすくめてみせた道長は、嫌がる彰子を抱き寄せ、また膝の上へと引き上げる。

「姫。私は、中宮様を嫌ってなどいないよ」

「本当?」

「ああ。お母様だって同じだ。誰が言ったのかは知らないが、きっと……口の悪い女房が姫に嘘を言ったのだよ」

「嘘……?」

 彰子は強張った顔を緩め、いつもと変わらない笑みを浮かべる父を見上げた。父の大きな手が彰子の豊かな髪を撫で、優しく背をさする。

「じゃあ、中宮様のお父様と仲がお悪かったっていうのも?」

「ああ、もちろんだとも。確かに私は、お役目の上で兄上やその子供たちと対立したことはあるが……それはあくまで公務でのこと。私たちは一緒に育った兄弟だし、子供たちも私にとっては甥姪なのだからね。第一、中宮様には私も長年に渡って一生懸命お仕えしてきているのだ。私が中宮大夫だったことは、姫も知っているだろう?」

 父の優しい目を見つめながら、こくんと頷く。中宮職の大夫といえば、中宮のために親身になって働く役どころである。まだ幼い彰子に、物事には表と裏があることなど理解できるはずもない。

「よしよし、姫は賢い子だ。それで? お願いというのはなんのことだね」

「あのね、お父様。わたくし……中宮様とお友達になりたいの。お父様が中宮様をお嫌いじゃないのなら構わないでしょう?」

「中宮様とお友達ね……。別に私は構わないが……だが、中宮様はもう立派な大人でいられる。姫のような幼子を相手にはして下さらんだろう」

 その言葉は、彰子の純粋な心を深く傷つけた。みるみる見開かれた瞳に涙があふれ、ぽたぽたと滴り落ちる。それを見た道長は、時の権力者とは思えぬほどに慌てふためいた。

「ひっ、姫! 泣かないでおくれ。悪かった。私が悪かった! 許しておくれ。中宮様はお優しい御方だ。きっと姫にもお優しくして下さるだろう」

「……お父様なんて嫌い!」

「そんなことは言わないでおくれ。なぁ、姫。機嫌を直しておくれ。せっかくの綺麗な顔が台無しではないか。ほうら、いつものようににっこり笑っておくれ」

「嫌っ、嫌っ!」

 道長は、自分の腕の中で泣きじゃくって暴れる愛娘に、ただただおろおろとしていた。よほど途方に暮れたらしく、やがて思ってもみなかったであろうことを口走った。

「姫、泣きやんでおくれ。中宮様は、姫の従姉であられる。きっと、姫とも仲良くして下さるよ。だから……そうだ! 姫、中宮様にお文を差し上げてごらん」

「え……?」

 定子に文を出す――その提案に彰子は、やっと泣き濡れた顔を上げた。

「お文……? お父様がお届けして下さるの?」

「あ……」

 道長は、やっと自分がなにを口にしたか気づいたらしい。困惑の色を浮かべて口籠る父を、彰子は激しく責め立てた。

「わたくしがお文を書いたら、お父様がお届けして下さるんでしょう? 中宮様に、わたくしとお友達になって下さるよう、お願いして下さるんでしょう? ねぇ、お父様!?」

「……判った、判った。判ったから、少し落ち着きなさい」

「ねぇ、いつ? いつ届けて下さるの?」

「いつって……それは……」

「お父様……やっぱり嘘をついたのね……」

 また泣きだそうとするのを、道長は慌てて押しとどめた。

「ああ……嘘ではない! 今日……いや、明日! 明日参内する折に、中宮様のところへもお伺いする。そのとき、文も届けてあげよう。だから、泣かないでおくれ」

「本当……? 本当ね、お父様?」

「本当だ……。約束しよう。だから、いいかげん機嫌を直しておくれ」

 やっとのことで愛娘の機嫌を取り結んだ後、道長は、ほうほうの体で引き上げていった。

「あら、姫様……なにをなさっておいでですの?」

 紙筥かみばこから色とりどりの料紙を取り出し、自分の周りに引き散らかせている彰子に、乳母は不審げに訊ねた。

「お文の紙を選んでいるの」

「お文……? 誰に差し上げるお文ですか?」

「内緒よ。ねぇ? 高貴な方に差し上げるなら、やっぱり薄様うすようの方が良いかしら」

「高貴な方って……姫様、まさか恋文をお書きになるおつもりじゃ……」

 目を丸くして呆気にとられている乳母を見やって、彰子は悪戯っぽく笑う。

「そうよ、恋文。大好きな御方に……女の方だけど」

「はぁ……?」

 乳母は、ますます呆気にとられている。それがおかしくて、彰子は鈴を転がすように愛らしい声で笑った。


 「姫……起きているかね?」

 朝早く――まだ夜も明けきらないうちに、正式の黒い束帯そくたい姿の道長が、蔀を下ろして閉め切った東の対の妻戸を叩いた。

「殿……? こんな時間に……まぁ、なんでございましょう」

 几帳を立てまわした彰子の寝所に添って、守るように側近くで寝ていた乳母は、主人の声に起きあがり、目をこすりながら袿を羽織った。半ば呆っとした顔のままで妻戸の掛け金を外すと、道長が待ちかねていたかのように押し入ってくる。

「殿……ご参内なさるのでは?」

「そうだ。だが、その前に姫との約束があってな。姫は起きているか?」

「まだ、お寝みでございますわ」

 奥へと踏み込んだ道長は、あどけない寝顔を見せる我が娘を几帳越しに見下ろした。

「まったく……姫にも困ったものだ。あのような者への文使いを、よりによってこの私にさせようとはな……」

 どこかいまいましげな口ぶりは、愛娘の彰子に向けられたもののはずはない。当然の如く、娘の慕う、政敵の要ともなるべき人物に向けてのものであろう。

「姫様、姫様。お起き下さいまし」

 乳母に揺り起こされ、やっと彰子は目を覚ました。こみ上げてくる欠伸を噛み殺しながら、小さな手で目をこすって乳母を見やる。

「なあに? もう朝なの……?」

「お父上様が……」

「お父様……?」

 夜明けの薄暗い光がかすかに射し込む室内を、まだ瞼の重い目で見まわした。ほの蒼い光を背にして、几帳の向こうに黒い大きな影が立っている。公卿用の黒い束帯は薄闇に溶け込んで、ほとんど人の姿には見えない。

「お父様……こんなに早く、どうなさったの?」

「困った姫だ。昨日、泣いてせがんで、この私に文使いの約束をさせたのはどこの誰だね」

「あ……!」

 定子への文。そのことが頭を過ぎった途端、すべての眠気が吹き飛んだ。

「ごめんなさい、お父様! ちょっと待ってね……」

 急いで枕元の螺鈿細工の厨子から文筥を下ろし、大切に納めておいた〝恋文〟を取り出した。白と蘇芳すおうを二枚襲ねにした薄様を使い、細く畳んで橘の枝に結んである。橘は常磐木ときわぎ。永遠にいつまでも変わらない親愛を表現したつもりであった。

「おやおや。まるで殿方に贈る恋文のようだな。だが、良くできている。紙の選び方も枝の選び方もなかなかのものだ。さすがは私の姫だな」

「本当、お父様?」

「ああ、本当だとも。これなら、あちらもきっと喜んで下さるよ」

「お友達になって戴ける?」

「ああ、きっとね。私からも、ようくお願いしてあげよう」

「ありがとう、お父様。お帰りになるの、夕方ごろ?」

「いや……今夜は宿直とのいなのだよ。明日の朝には帰れるとは思うが」

「そう……」

 彰子は多少がっかりしながらも、それでも明日には定子からの返事を受け取ることができるのだからと思い直し、あどけない笑みを父に向けた。

「では、私は出かけるよ」

「いってらっしゃい、お父様」

 疑うことを知らない素直な声に送られて、道長は東の対を後にした。西の対からのびる長い渡殿の途中に中門がある。そこに、大臣用の格式の高い檳榔毛びろうげの車が用意され、随身ずいしん供奉ぐぶの者たちが今や遅しと待ち受けていた。

 道長が乗り込んで入り口の簾が下ろされると、牛飼いにより手早く牛がつながれた。随身たちの先駆さきばらいの声とともに、牛車は重々しい音を立てながら、ようやく夜の明け始めた都大路へと進み出る。

「姫には、まだ世の中というものが判っておらん……」

 苦々しげに呟くと、道長は束帯の懐に手を差し入れ、先ほど預かった結び文を取り出した。文を解いて畳んだ紙を広げたが、簾越しに夜明けの青白い光が射し込むとはいえ、とても字が読めるほどではない。

「なんでまた、中宮とつき合いたいなどと馬鹿げたことを言い出したものか……困ったものだ」

 広げた文を二つに畳み、しばし手元を見つめていた道長は、おもむろにそれを引き裂いた。二つの紙切れをさらに重ね合わせ、また引き裂く。何度も繰り返して細切れになった紙片を、簾の隙間から少しずつ外へと打ち捨てた。紙片は花びらのように風に舞う。薄青い空気の中に蘇芳の鮮やかな花は散り、重い車輪と従者たちのいくつもの足で踏みにじられていった。

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