第二章 二筋の藤の花
1
長徳元(九九五)年五月――内覧の宣旨を受けた翌月のこと、道長は右大臣に昇り、一時は甥の伊周に先を越されていた官位も、ようやくにして長幼に見合った状態へと復された。
今年の初めに猛威を奮った流行り病のせいもあり、公卿の席次は短い間に一変してしまっている。帝の意地で関白は置かれず、道隆が死して後は太政大臣は空位が続き、左大臣も空いたまま。事実上の最高位が右大臣の道長、次いで内大臣の伊周。以下の大納言には、道長の叔父にあたる藤原
伊周、隆家兄弟が公卿に加わっていても、あとは道長の息のかかった者が大半を占めており、関白の地位は得られないとはいえ、内覧の権限を有した上に今や最上席にいる右大臣道長は、実質的には関白となんら変わることはなかった。
八月に入って、道長の父兼家の
今、事実上の関白となって政治の実権を握り、さらなる権勢の強化に乗り出そうとする道長の前途に立ちふさがる障害は、かつての勢いこそ失われたとはいえ、やはり中宮定子というこの上なく強大な楯を持つ、内大臣伊周のはずであった。
「お兄様は、少しもご自分の立場をお判りでない……」
定子は、女房たちから聞かされた話に蒼冷め、御帳台に引きこもって両手で顔を覆った。
――先頃、議定を行う陣の座で、伊周と道長が激しく言い争ったという。今や父道隆の在世時と同じく、時の権力を一身に集めつつある叔父に対し、日頃から不満を抱いていた伊周が一気にその鬱積を爆発させたのであろう。
満座の公卿たちが驚くほどの大声で怒鳴り合い、緊迫極まる様相を呈した。これによって道長の、兄の遺児たちに対する憎悪はいや増したことだろう。後見をなくした定子にとっては、ますます不安材料を抱えることになってしまった。
「后の宮、主上がお渡りになられます」
帳越しに上臈女房が声をかけてきた。定子は慌てて濡れた目元を拭い、衣の乱れを直した。年上の妻として帝をこれまで導いてきたことを思えば、見苦しいところを見せるわけにはいかない。それが定子の誇りでもあった。
従えてきた若い殿上人らを庇に残し、帝は一人御簾内に入ってくる。帝が常に変わらぬ優しい笑みを浮かべたまま、奥の中宮の座所を覗いたとき、ちょうど定子は、御帳台から出て座ろうとしていたところだった。
「なんだ。夜はまだ浅いというのに、もう床についていたのかね?」
「あ、いえ……ちょっと捜しものを……」
「そう? 実は、しばらく後宮での宴もなかったから、今宵は管弦でも奏して愉しもうと思ってね。若い者たちを連れてきた。皆、ここの美しい女房たちにも会いたがっていたようだったしね」
「まぁ、嬉しゅうございますわ。女房たちも退屈していたようですし、良い気晴らしとなりますわね。お心遣い、ありがとうございます」
定子には帝の気遣いが痛いほど判った。女房たちの顔の暗いのは退屈していたためではない。皆、道長に政権が移ったことが主家の浮沈に大きく関わるであろうことを危惧し、打ち沈んでいたのである。
殿上人の多くも同じであった。中宮の女房たちとの会話を愉しみ、親しい仲となっている者たちも数多くいたが、やはり道長の目を憚からずにはいられないらしく、すっかり間遠となっていたのである。訪ねたくても訪ねられない――そんな空気を推し量って、帝みずから引き連れてきたのであろう。帝の誘いの上であれば、道長を憚る必要もない。
「そういえば、もうずいぶんとあなたの琵琶を聞いていないね。是非聞かせてほしいものだ。誰か、琵琶を」
帝は定子の返事も待たずに、少し離れたところにいる女房に声をかける。女房が恭しく一礼して琵琶を取りに下がるのを見やり、定子は思わず苦笑した。
「主上は、強引でいらっしゃいますこと」
「こうでもしなければ、美しい調べが耳に入ることはないからね」
二人は、表の政の世界での移り変わりが嘘のように
『主上がいらして下さるだけで、わたくしは良い。それだけで、わたくしの心は救われる……』
兄伊周の不遇も目に新しく、また父道隆の喪を印す鈍色の衣を身にまとっていながらも、やっと定子の心は穏やかな波のごとくに静まり、生来もっている華やいだ気質を取り戻し始めた。
久々の活気に満ちた様子を聞きおよんでか、局に引き籠っていた女房たちも集まってきて、定子の周りは人々の晴れ晴れとした顔で埋まっていく。女房に差し出された琵琶を受け取り、定子は、隣で温かく見守ってくれている帝に曇りのない笑顔を向けた。
「主上の御耳汚しにならないとよろしいのですけれど……」
やがて殿舎に琵琶の美しい調べが流れ出す。庇に座を取って宴を愉しむ殿上人、その陪膳に務めていた若い女房たちが一斉に御簾内へと耳を澄ませ、中に侍る女房たちもうっとりと聞いていた。
目を閉じて琵琶の音に耳を傾ける母屋の女房たちの中でただ一人、しっかりときつい目を見開いて定子の一挙一動を片時たりとも見逃すまいとばかりに、じっと見つめている女房がいた。清少納言である。定子は撥を握る手を流れるように動かしながら、誰よりも自分を理解してくれているであろう女房に、それと判るように微笑みかけた。
『心配しないで……わたくしは、もう大丈夫だから』
そんな想いが通じたのかどうか。清少納言は、初めて定子から目を離して、袖で濡れた目元を抑えている。
心を分かち合えるただ一人の女房であっても、このような場では定子の側近くに侍ることは許されない。女房たちには身分によって序列があった。それも中宮付きとなれば尚のこと、官位が与えられているために更に序列は厳格となる。常平生ならいざ知らず、帝臨席の上での宴では、中臈女房に過ぎない清少納言は、庇にほど近い末席で年若い女房たちの群に取りまぎれているしかない。
一曲奏し終えて、定子は思わず小さく吐息を漏らした。ふと気づくと、御簾内には燈台がいくつも立てられ、室内を明々と照らし出している。几帳を立てまわしているわけではないので、御簾越しに殿上人から姿が見えるかもしれない。そう思って帝の方に体を向け、琵琶を膝に立てて顔を隠した。
側にいた上臈女房の一人が気を利かし、近くの燈台を遠ざけて火を小さくしてくれる。定子がやっと琵琶を下ろしたとき、庇の近くにいた若い女房が、にこにこと近寄ってきて小声で囁いた。
「宮様。少納言さんたら、すっかり宮様の御姿に見とれてしまいまして……『琵琶行』の女は、こんなに美しくはなかったでしょうねぇって溜め息混じりに言いましたのよ」
「『別れ』の心は判っているのかしら? そう言ってごらんなさい」
その女房がとって返すのを見送って、定子は、帝と顔を見合わせて微笑んだ。
「白楽天か。琵琶を
「あら。わたくしのお返事、お聞きになられませんでしたの? 『声無きは声有るに勝る』でございますわ」
『琵琶行』の漢詩の終わりの方に、「別れて」で始まるその一句があった。帝は一瞬困ったような表情になったが、ついで照れたような笑みを浮かべた。
「参った参った。さすがに、あなたと清少納言の間には打てば響くものがある。とても私などの才では入り込めそうもない」
そう言って、
「声無きは声有るに勝る。宮の心を射止めるには、言葉よりもこちらの方が良さそうだ」
自分の顔を見つめたまま笛を口にあてる帝を見つめ返し、定子は束の間の幸せに酔った。
清少納言が書いたといういくつかの小編の写しを、側に侍る女房に何度も何度も朗読させ、彰子は、脇息に肘をおいて夢見がちに溜め息をついた。
「素敵……中宮様って、本当に才豊かでいらっしゃるのね。本当に、どんなにお美しく素晴らしい御方なのかしら……」
その呟きに、いくぶん声をひそめて読み上げていた女房は、困ったように囁いた。
「姫様……くれぐれもこの草子のことは、ご内密にお願い致しますよ。こんなものを姫様のお目に触れさせたことが知れましたら、私は、こちらにはいられなくなってしまいますわ」
女房は囁きながらも終始、周囲の様子に目を走らせている。他の女房たちが皆、端近に出て庭の外を眺めたり噂話に花を咲かせたりに夢中で、誰一人こちらを気にかけている者がいないことを確かめて、ようやく安心したように彰子の方へ向き直った。
「どうしてなのかよく判らないけど……でも、あなたがいなくなったら、中宮様のお話を聞かせてくれる人がいなくなってしまうものね。清少納言の草子も読めなくなってしまうし……誰にも言わないわ」
この女房は、定子の元に仕えている従妹がいると、いつぞや同僚の女房に話していた者である。彰子は小耳に挟んだその話を覚えていて、こっそり定子の話をせがみ、清少納言の草子を手に入れてくれるよう頼んだのであった。
さすがにここにきて、幼い彰子にも、我が家と憧れの定子中宮の一家との間の深い溝が、おぼろげながらも判るようになってきていた。道長が権力を手にして以来、女房たちの誰もが主人を憚り、中宮を讃えるようなことは口にしなくなっている。
それに加えて母倫子や乳母までもが、彰子が定子の話をするのを嫌がる。そんな雰囲気は、感受性の鋭敏な幼い者にはなによりも応えた。彰子は、他の誰とも一切その話をせず、この女房だけを頼りに定子の噂を耳に入れているのだった。
だが、父は違う。父だけは、人を嫌ったり貶めたりするような人間ではない。そう信じてはいながらも直接、父道長に定子の話を聞くことはできなかった。もし、自分の信じる父の姿に誤りがあったとしたら――そんな怖れが、やはり心のどこかにあるのかもしれない。
『でも……お父上を亡くされた中宮様には、お父様の助けがご必要なはずよね? お父様は、中宮様にお優しくして差し上げているのかしら……』
ここ最近、そればかりが気になっていた。もし周りが言うように、本当に父と中宮一家との間に確執があるのならば、自分はずっと憧れ、ひそかに慕い続けてきた人の敵ということになってしまう。
『そんなのは嫌……。わたくしは、中宮様にお友達になっていただきたいのに……』
幼い胸を痛めているところへ女房たちが二、三人、慌しくいざり寄ってきた。今まで側にいた女房は、蒼冷めながら急いで草子を袖の中に引き隠す。
「姫様、殿がお渡りですわ」
「お父様が……?」
寝殿は女院の御所となっているので、道長家は、西の対を正殿として公式な場に用い、普段は夫婦ともに西北の対に住んでいる。彰子は東の対で暮らし、小さな弟妹たちは、寝殿の北側にある北の対で乳母たちによって育てられていた。
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