その日、五月十一日。道兼の死から早くも三日目に、宮中を騒がせた政権の行方は雌雄を決した。

「権大納言藤原朝臣あそん道長に内覧を命じる」

 朝早いうちに土御門殿へと戻っていた道長のところへ、昼近くなって蔵人が帝の宣旨書きを携えて訪れた。蔵人が宣旨を読み上げるや否や、土御門殿の西の対に歓声が湧き上がった。寝殿を女院詮子に明け渡しているため、西の対で帝の勅使を迎えたのである。

 道長に与していた公卿殿上人は言うに及ばず、側近くで仕える女房たちも躍り上がるように喜び、口々に祝いの言葉を述べた。

「おめでとうございます。これで、晴れて権大納言殿の天下。この土御門殿にも、ようやく春がめぐり来たというものですな」

「本当におめでとうございます、殿。私どもも、この土御門殿にお仕えして参りました甲斐がございました」

「この上はお体をお厭いあそばして、末永く栄華を極められますよう」

 そんな言葉を聞きながら、道長は、ただただ高らかに笑い続けていた。

 その華やいだざわめきを、寝殿を隔てた東の対で彰子は聞いていた。広い邸内のこと。ただ様子がおかしいとは思うものの、なにが起こったか判るはずもない。

「ずいぶん、お客様がいらしているようね。なにかあったのかしら……」

 彰子は不思議に思って、草子を読んでくれていた乳母に訊ねた。乳母もまた、首をひねりながら西の方を見やる。

「さぁ、なんでございましょうねぇ。でも、悪いことではなさそうですよ」

「そうね。さっき聞こえた笑い声、お父様みたいだったわ」

 そこへ、この東の対付きの若い女房が、渡殿の方からばたばたと駆けてきた。御簾をからげ、ほとんど飛び込むようにして彰子の側へ来たのを、乳母が眉をひそめてたしなめる。

「なんです? はしたない。姫様の御前ですよ」

「申し訳ありません。でも……」

 女房は肩で息をしながら、乱れた髪を直そうともせずに、晴れがましい顔を彰子に向ける。

「これが慌てずにいられましょうか。姫様、殿に……殿に内覧の宣旨が下されたのでございます」

「まあ! 本当なの、それは!?」

 それまで眉をひそめていた乳母が、驚きと喜びの色を同時に浮かべ、女房へと詰め寄る。母屋や庇の間のあちこちで仕立物などをしていた女房たちにも話は聞こえたらしく、歓声をあげていざり寄ってくる。一度に全員が動いたので、一斉に衣ずれの音が上がる。

 そんな中で、彰子だけは言葉の意味が判らず、女房たちの騒ぎを不思議に思って見つめていた。

「今、西の対に蔵人がいらしているそうよ。帝の宣旨としてね」

「まあ! それじゃあ、いよいよ殿は、お二人の兄君に続いて一の人になられるのね」

「なんてことでしょう。今度こそは、内大臣様の方に世は傾くと思っていたのに。ああ、私……こちらへご奉仕していて良かったわ」

「本当に……最初は、故関白様のところへお仕えできなかったことを残念に思ってたけど……まさかこんなことになるなんて」

 口々にはやし立て、すっかり浮き上がっている女房たちに取り囲まれて、彰子はますます訳が判らなくなった。自分のすぐ傍らでは、乳母が感極まって泣いている。その袖を引いて、自分の疑問をぶつけてみた。

「ねぇ。皆、どうして喜んでいるの? 内覧ってなあに?」

 乳母は目を抑えていた片袖を下ろし、問われるままに幼い女主人に向き直った。だが、なおも涙はおさまらない。

「姫様……殿が天下人になられたのですよ。これからは、政もなにもかも殿のお心次第……姫様にとっても、素晴らしいご前途が開けたのでございますわ。これが、喜ばずにおられましょうか」

「お父様が天下人? 関白様になられたということ?」

「内覧というのは関白ではありませんけれど、関白の権限の一つなのです。帝がご覧になる政の書面いっさいを、帝より先に目を通すことのできる、重いお役目なのですよ」

「よく判らないけど……お父様は、大臣よりお偉くなられたということかしら」

「そうですよ。あの内大臣様より、ずっとお偉くなられたのです」

 そう言って乳母は、またも袖を目に押しあてて顔を伏せた。

『内大臣様って……中宮様のお兄様?』

 ふと彰子の心に憧れの定子中宮のことが過ぎった。関白になれず、内覧の権限すら持てない年若い伊周には、中宮を支える力などあるはずもない。だが、幼い彰子に、そこまで考えるのは無理と言うものだった。ただ単に、憧れの人に関わりの深い者の名を聞いて心が浮き立っていた。


 一方が喜びに湧き立っていた頃、もう一方である登花殿の定子の元へは、帝が渡ってきていた。

 定子は泣くでもなく責める言葉を口にするでもなく、ただ端座したまま扇を静かに弄んでいる。

「中宮……許してほしい。私は……」

「なにもおっしゃらないで下さいまし。帝の御心は、よく存じ上げておりますわ」

 そう言ってかすかな笑みを浮かべる。その消え入りそうな、天女と見まがう儚げな美しさに耐えかねたように帝は、定子の華奢な体を抱き寄せた。

「女院は、私にとってただ一人の肉親。その母上に泣いて頼まれては、どうしても否とは言えなかったのだ。母上を思ってのこと。決して道長に心を傾けてのことではない」

「……わかっておりますわ。主上はお優しい御方ですもの」

「伊周には済まないことをしたが、たとえ道長に内覧をさせようと、あなたのことは私が必ず守る。なにがあっても……。だから、私の心を疑うようなことだけは……」

「……ええ」

 定子は、閉じた目ににじみ出る涙を悟られまいと、帝の胸に顔を押しあてた。道長に政権が渡ったことが辛いのではない。自分の立場が不利になることを知っていながら、帝が母女院の心に従ったことだけが、どうしようもなく哀しかった。

 これからは、今までのようにはいくまい。叔父道長は、ことあるごとに今は亡き父道隆と対立してきた。関白に破れた兄では、父の代わりは務まらない。これからは、中宮である定子自身にまで累が及ぶことが容易に予測できる。

『わたくしがしっかりしなくては……お兄様では、道長殿に対抗などできはしない。お父様を亡くして悲しみに沈んでいるお母様や妹たちのためにも、わたくしが家を守らなくては……』

 悲愴な決意であった。有力な権力者を後見として、はじめて成り立つ后妃の権威である。それを後見の力を頼まずに、女の身でみずから一家の不運に立ち向かおうとは――

 父を喪い、兄は得られるはずの権力を失い、定子に残されたのは帝の愛だけであった。帝の后としての誇りだけであった。その最後の頼みの綱は、帝の生母との確執に揺れながらも、かろうじて保たれている。定子は、自分より母を選んだ帝に失望を覚えながらも、必死にわずかに残る希望にしがみつこうとしていた。

「私は確かに道長に内覧を許した。だが、絶対に関白の位は許さない。それが、せめてものあなたへの償いと思ってほしい」

 帝は整った顔を厳しく引き締め、自分に言い聞かせるように呟いた。


 その夜、土御門殿では、宣旨の礼を言上に参内して戻った道長を迎え、祝いの宴が華々しく繰り広げられていた。あまたの公卿殿上人が群れ集い、娘夫婦に邸を明け渡して一条の邸宅に隠居していた、元左大臣の舅雅信までもが妻穆子を伴って駆けつけた。

「ねぇ、殿。わたくしの申し上げたとおりになったでしょう? 道長殿は、わたくしの見込んだとおりのお方でしたわ」

「いや、まったく。儂もまさか、三の君の道長殿がこうまで出世されるとは思うておらなんだが……大事な姫を差し上げた甲斐があったというものよ」

 老夫婦は、牛車から降りて土御門殿の西の対へと歩みを進めながら、ひたすら上機嫌で笑い合った。

「これはこれは義父上! ようこそお越し下された。ささ、どうぞどうぞこちらへ」

 御簾内の女たちの方へと入っていった妻と別れ、男たちの宴席へと顔を出した雅信を、主人の道長みずから出迎えて上席へと案内する。

「このたびは、なんとも目出度いことでござった。隠居の老骨ながら、是非とも祝いを申し上げたいと思いましてな。本当に、この年まで生き延びた甲斐があったというものですわい」

「なんのなんの! まだまだ、これからでございますぞ。義父上義母上には是非とも長生きしていただいて、我が家の栄華を見届けていただかなくては。なにせ、今この道長があるのも、すべて義父上義母上のご助力あってのことですからな」

 そんな婿舅の上機嫌な会話は、御簾内の女たちのところまで届き、場をさらに華やがせた。

「あなたにも、このたびのことは本当に喜ばしいことでした」

「お母様が、わたくしたちの結婚をお許し下さったおかげですわ」

 倫子は久方ぶりに会う母に寄り添い、目に光るものを袖で抑えながら幸せそうに微笑んだ。

「おばあ様。お久しぶりでございます」

 母と祖母の会話を縫って、彰子は手をついて挨拶の言葉を述べる。衣を重ね、浮き紋の織りだされた細長を身にまとった彰子の仕草は、幼いながらも既に貴婦人としての品格や優雅さを存分に覗かせていた。その姿を、祖母穆子は潤んだ目を細めて嬉しそうに見つめる。

「大姫や。もっと近くへきて、お顔をようく見せて下さいな。まぁまぁ、ずいぶんと大きくなって……。もうすっかり立派な姫君ですね」

 側近くまで膝を進めた彰子の愛らしさに、祖母の目は、眩しいものを見るかのようにさらに細くなる。

「この母君の幼い頃によく似ていますこと。きっと、誰よりも美しい姫君になることでしょう。道長殿が、后がねとして大事にかしずいてこられただけのことはありますね。本当に、先の楽しみな姫ですこと」

 彰子は祖母の感極まって潤んだ声に、にっこりと微笑みを返した。幼心にも、祖父母や父母、それに近しい者たちが一堂に会しての和やかで喜びに満ちた顔は、やはりたまらなく嬉しかった。ここでの喜びがそのまま、憧れてやまない中宮定子の不遇に繋がるなどとは思いも及ばずに――。


 「お兄様……どうぞお気持ちを落とされず、お心をしっかりお持ちになって……」

 定子は、すっかり気落ちして登花殿を訪ねてきた兄を、優しく労った。美貌の貴公子として名高い伊周の顔も、落胆のあまり色を失って、まるで見る陰がない。

「主上のなされようは、あまりに酷すぎます。主上は、我らをお見捨てになられるおつもりなのか……。あの道長のこと。権勢を得て、どんな所行に出るかわかったものではないと言うのに……」

「お兄様……お声が高うございます。主上をお責めになるようなことは、お口にしてはなりません。この上、主上の御機嫌を損じるようなことになっては、お兄様のお立場はますます悪いものとなってしまいますわ」

 そんな気遣いも、憤っている伊周にはまったく通じない。伊周は帝を恨み、その母女院を呪うようなことまで口走った。

「あの女院が裏で糸を引いているに違いない……。先に道兼に関白を奪われたのも、女院が主上に進言したせいだと聞いている。女院は私を疎んじているのだ。宮、あなたもですよ。母心に、主上の御心を独り占めにしているあなたを、疎ましく思っているに違いないのですからね」

「お兄様……このような所で、そのようなことをおっしゃってはなりませんわ。どうか、お聞き分け下さいまし」

 定子は、兄の無分別に不吉なものを感じた。帝の生母に対して敬おうともせず、声高にののしるとは……。もし道長側の耳に入ろうものなら、失脚の憂き目を見ないとも限らない。

『お兄様は脆すぎる……。このようなときにこそ、もっと気を強く持っていただかなくてはならないというのに。お兄様には、ご自分の肩に家の将来がかかっているということがお判りにならないのだろうか。このままではいけない……。このままでは道長殿に足下をすくわれて、もっと悲惨なことになってしまうわ』

 扇を掴む手に、我知らず力がこもる。定子の顔は血の気を失い、心は千々に乱れていた。その定子の怖ろしい予感が的中する日は、そう遠くはないところまできていた。

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