後宮には中宮以外に今上帝の妃がいないため、女院詮子が女御であった頃のような活気に満ちた華やぎはない。使われていない飛香舎ひぎょうしゃの簀の子縁を通るときも、後涼殿こうろうでんへの渡殿を渡るときにも、誰の目を気にする必要もなかった。振り返れば、登花殿のあたりが幾らか明るく見えるぐらいなものである。登花殿の人々も寝静まっているらしく、殿舎の灯りではない。おそらくは前庭に設けられた、中宮警固の衛士えじたちによる火焚き屋の火であろう。

「既にの刻……主上も、夜の御殿に入られてしまっているのでは?」

「そんなことを気にしていては、この状況を乗り切ることなどできませんよ。すべて、わたくしに任せておけばよろしいのです」

 道長の心配げな様子をよそに、女院は、全身に気力をみなぎらせてさっさと歩みを進める。やがて一行は帝の住む清涼殿へと到達し、説得のために何度か訪れた上の御局へと入った。

「あなたたちは、ここでお待ちなさい」

 そう女房たちに命じると、女院は道長を伴って、隣の二間ふたまと呼ばれる加持の祈祷僧らの詰め所への障子を開けた。

「女院様……!?」

 徳の高い僧都そうずと思われる老僧が、ふいの夜半の侵入者の姿に目を丸くする。女院はまるで意に介した様子もなく、道長をちらりと振り返った。

「道長殿。あなたは、ここで待っていて下さい。必ず、首尾よく本懐を遂げてみせますわ」

「は、よろしくお願い致します」

 道長は困惑顔の僧都を尻目に、その場に膝をついて平伏した。それにかすかな笑みで応え、女院は夜の御殿に通じる枢戸くるるどの前に立った。呼吸を整え、しばし扉を睨むように見据えてから、おもむろに引き開ける。

「あっ、女院様!?」

 夜居よいの僧が慌てて呼び止める。それを道長が制した。

「よい。悪いようにはせぬ。そなたは黙ってここにおれば良いのだ」

「しかし……」

 反論しかけた僧は、道長の鋭い眼光を目の当たりにし、気圧されたように押し黙った。

 女院は引き開けた扉を後ろ手で閉め、御帳台の方を見澄ました。寝殿造りの殿舎の中で唯一、閉ざされた空間を持つ塗り籠である。四方に外へ通じる扉はあるが、帝もよもや、ここまで押しかけた母から逃げるようなことはすまい。

 この夜の御殿は、内裏の中で最も神聖な場所であった。剣璽けんじという、神から繋がる皇統の正しさを示す三種の神器のうちの二つが、帝の就寝とともにここに安置されるのである。そのため、帝の眠る御帳台の周囲には四隅に燈火が立てられ、それを消さぬように必ず女官が寝ずの番をすることになっている。

 不寝番であるはずの女官は御帳台の傍らに座したまま、時折こくんこくんと首を振り、うたた寝をしてしまっている。

「呆れたこと。故院の御在世時には有り得なかったことだわ。若い帝と思って、女官たちの風紀が乱れているようね」

 女院は顔をしかめて女官の側へ近づいた。衣ずれの音にやっと眼を覚ました女官は、先ほどの夜居の僧と同じように目を丸くし、ぽかんと口を開ける。神聖不可侵の場である。たとえ生母といえど、勝手な侵入が許されるはずもない。女官の驚きは当然であった。

「にょ、女院様……ここは……」

「わかっておる。今更、おまえなどに説かれるまでもない。おまえは、黙ってそこに座っていればいいのです」

 鋭く一喝し、女院は御帳台の前に立って低く声をかけた。

「失礼致します」

 有無を言わさぬ勢いで、いきなり帳を引き開ける。帝は東を枕にして身を伏せたまま、うっすらと目を開けた。ついで、そこに人影があることを認めた瞬間、がばと起きあがって叫んだ。

「何者だ!」

「帝、わたくしでございます」

「は、母上……!?」

 帝は、しばらく呆気に取られていた。それにも構わず女院は、ずいと御帳台の中に押し入って帝の横に座り込む。

「母上ともあろうお方が、なんという無体なことをなさるのです」

「帝が、わたくしをお避けになるからです。いらして頂けないのなら、わたくしがお伺いするしかないではありませんか」

「そういう問題では――」

「どういう問題でも構いません。はっきり帝のお口からお考えを聞かせて戴くまでは、わたくしは絶対にここを動きませんよ」

「母上……」

 一言苦しげに呻いて、帝は頭を抱えた。ここまでされては、もはや逃れる術もあるまい。母后の訴えに耳を貸す以外はなかった。

「さあ、お聞かせ下さいまし。いったい、どのようにお考えなのです?」

 帝は答えようとはせず、口元を引き結んで視線を泳がせた。それを許さじとばかりに女院は、さらに膝を進めて詰め寄る。

「帝。何度も申し上げましたように、道隆殿の後に弟の道兼殿を関白となさったではありませんか。このように兄弟順できたものを、今さら甥の伊周殿にお与えになると言われるのですか。それでは、道長殿があまりにも不憫でございます。道隆殿のご権威で、道長殿が年若い甥に位を越されたときも、わたくしは不憫で不憫でなりませんでした。それをまた……今度は、関白の位まで……あんまりでございます!」

 目に涙を浮かべて訴えていた女院は、ここまで言うと感極まって泣き崩れた。帝は慌てた様子で、母の背をさすって慰める。

「母上。なにもまだ、伊周を関白にと決めたわけではないではありませんか。そのようにお泣きになって、私を困らせないで下さい」

「いいえ! 今はまだ決めておられなくても、いずれはそうなさるおつもりなのでございましょう? なぜ、それほどに道長殿を疎まれるのですか」

「別に疎んじているわけでは……。ただ、伊周は幼い頃から側にいてくれた者で、私にとっては師であり友でもある存在なのです。そのような者を見捨てるわけには……」

 その言い訳に、女院の濡れた瞳がぎらりと光った。

「帝が案じておられるのは、伊周殿ではございますまい。中宮の方でございましょう。中宮が、帝のお耳に良からぬことを吹き込んでいるのですね?」

「馬鹿なことを……あの人は、そのような人ではありません」

 定子への庇いだては、さらに母の心を激昂させたらしい。前にもまして語気鋭く、激しい言葉を連ね始める。

「帝は、お産みした母のわたくしよりも、中宮の肩をお持ちになるのですか? お小さい頃にはわたくしをお慕い下さって、お優しい御方でいらしたのに……あの姫が、帝をこのような母を疎んじる冷たい御方に変えてしまったのですね。ああ……なんという酷い仕打ち……老い先短いわたくしには、帝しかお頼りする御方はいないというのに。わたくしは帝の御成長だけが楽しみで、今日まで生きてきたというのに……」

 全くもって手がつけられない。女院は錯乱にも似た状態の中で、ひたすらわめき続けていた。


 道長は塗り籠の扉を見つめながら、何度も何度も溜め息をついた。壁に囲まれた室内からは、御簾で囲まれているのとは違い、声ばかりか中の様子すら伝わってこない。既に二刻ばかり経ち、夜は明けようとしている。さすがの道長も苛つきを露わにしていた。

「やはり、帝のお許しは戴けないのか……」

 低く呟く言葉が、さらに沈んだ顔を曇らせる。何度目を向けても夜の御殿の扉が開く気配はない。ただひっそりと、道長を拒むように閉め切った扉があるだけだった。

「もし帝の御許しが頂けなかったら、私はいい笑いものだな。女院に御味方戴いて、こんな所にまで押しかけて……」

 先に道兼に関白の位が移ったとき、それまで自分がなるものとして振る舞っていた伊周は、人々の物笑いの種となった。もしここで、その伊周に関白の勅が降りたならば、今度は道長が笑われるのは火を見るより明らかだった。それだけに道長の焦りの色は、吹き出る汗とともにますます濃くなっている。

「やはり駄目か……」

 そう呟いたとき、やっと目の前の扉が低い音を立てて押し開けられた。現れた女院は、涙で濡れた頬を上気させ、疲労の色をありありと浮かべている。

「姉上……」

「道長殿……」

 女院は扉を閉めるや、飛びつくようにして弟に取りすがる。そして、道長の手を両の手で強く握りしめ、濡れた頬を拭おうともせずに感情の昂ぶりを露わにして言った。

「ああ……やっと御許しが出ましたよ」

「お、御許しが……? 本当でございますか!?」

 道長は、半ば呆然となって姉に真意を確かめる。その姉がしっかりと頷くのを見て、長い煩悶に耐えてきた顔にみるみると喜色が浮かんだ。

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