帝は蔵人くろうどや殿上人数人を従えて、いったん戻った清涼殿で衣を改め、母の待つ梅壺へと向かった。広大な敷地に散在する後宮のあまたの殿舎。それをつなぐ長い渡廊わたどのを進みながら、ひたすら黙して一言も発さない。

 なにしろこの深更での、しかも前もっての使いも寄越さずにの突然の参内である。出家したとはいえ、未だ皇太后の位にある高貴な身分の女院がなすべきことではない。なにか、よほどの事情があるはずだった。

 梅壺の庇の間に付き従ってきた者たちを残し、一人母屋の御簾内に入った帝は、几帳越しに女院と対面した。

「わざわざ帝にお越し願って恐縮でございます」

「母上……」

「すっかり御立派になられて。わたくしも、胸をなで下ろす心地が致しますわ」

 女院は几帳から半身を覗かせ、じっと我が子を見つめる。三十代も半ばとなり、既に女の盛りを過ぎているはずのこの女人には、尼削ぎにした肩までの髪がかえって若々しく見え、未だ華やいだ美しさを際だたせている。法衣の青鈍色は、色鮮やかな色目の衣よりもなお残照のような美を引き立たせ、さらに女院としての威厳をも醸し出していた。

「いったい、どうなされたのですか? この深更に先触れなしの参内など、女院のお立場にあるまじき――」

「時刻の、格式のと言っていられない大事な用件があったればこそ、取るものも取りあえず参ったのですよ」

「大事な用件?」

「おとぼけになられるのですか? このようなときに、わざわざこのわたくしが出向いたとなればお判りのことでしょうに」

「……除目じもくのことですか」

「当然でございましょう」

 今や女院は、己の身を隠す几帳のかたびらを引き払い、世を捨てた姿を露わにさせていた。そしてなおも、それでも足りぬと言いたげに膝を進め、眉をひそめて目を背けている我が子の手を取って切々と訴え始めた。

「なぜです? なぜ、宣旨をお下しになりませぬ。なにを迷われておられるのです? よもや、あの伊周殿ごとき若輩に、政を任されるおつもりではありますまいな」

「母上……」

「器からも世の人望からも、関白には、道長殿をおいて他にはありますまい。なにも迷われることはありますまいに。帝、どうか御英断を!」

 噛みつかんばかりの母の猛攻に、帝は、ただ目を伏せるばかりであった。それをもどかしく思ってか、女院は、握りしめた帝の手を激しく揺さぶる。

「帝! なぜ、なにも仰せにならないのです。帝?」

 やがて帝は、静かに目を開いた。

「母上がお元気でいられて、私も安堵致しました」

「帝……?」

 母の手をそっと振りほどき、その責めをかわすように静かに立ち上がる。

「帝!」

「母上のお元気なお顔を拝しましたので、私も安堵して眠れるというもの。もう夜も遅い。私が長居しては母上もお寝みになれないでしょうから、これにて失礼致します」

 取りつく島すら見せない。帝は、自分を呼び返す声にはいっさい耳を貸さずに、なにごともなかったかのように悠然と御簾内から出た。供に付いてきた者たちを従え、もと来た渡殿を戻っていく。

 だが、さすがに母の叱責にも似た進言は、帝の心に深く応えたらしい。約束した中宮の許へは寄らずに、そのまま清涼殿へと戻り、寝所である塗り籠ぬりごめ夜の御殿よんのおとどに籠もってしまった。御帳台に伏す帝の若々しく整った顔は、すっかり疲労の色に隈どられていた。


 「とうとう……主上は、いらしては下さらなかった……」

 定子は、中宮御所たる登花殿の昼の御座ひのおましに座したまま、簀の子縁と庇の間を遮る上蔀うわじとみを引き上げる音を聞いていた。殿司とのもりづかさの女官たちが、朝の室礼しつらいを始める音である。

「宮様。きっと、久方ぶりの御生母様との御語らいに、主上も夢中になられてしまったのでございますわ。決して、宮様をお見捨てになられたわけでは……」

「少納言……」

 傍らで必死に定子を労る清少納言の顔は、徹夜で話し相手となったために、すっかり化粧がはげ落ち、精気までも失われてしまっている。若さをなくしつつある肌には、わずか一夜のこととはいえ如実に疲労が応えるらしい。

 眠たげな目をこすりながらも、ひたすら平静を装おうとする姿に深い忠義を感じ、定子は、胸が熱くなる想いがした。

「たとえ……どのようなことがあろうと、きっとわたくしは耐えていけるでしょう。あなたのような女房が、ずっとわたくしを見捨てずに側にいてくれるのなら……」

「なにを仰せられます。私が、宮様をお見捨てするなどと。私は、たとえこの身が朽ちようと、ずっとずっと宮様のお側でお仕えする所存にございますのに。私にとって宮様は、血を分けた親兄弟よりも大切な御方……なにが起ころうと微力ではありますが、きっときっと宮様をお守り致します」

「ありがとう……嬉しいわ。あなたの心……決して忘れないわ」

 昨夜、帝が去って以来凍りついていた表情に、やっと定子は、かすかな笑みを浮かべた。


 女院詮子は諦めようとはしなかった。昼は清涼殿の上の御局うえのみつぼねに昇って帝を口説き、夜は再三に渡って使いを出して帝の来訪を促す。そんなことが何度も続き、やがて帝は、母の進言を疎んじ避けるようになった。梅壺を訪ねることもせず、使者に会おうともしない。もちろん、上の御局にも近寄ろうとはしなかった。

「姉上……どうも帝の御機嫌を損じてしまわれたようですな」

「いいえ、わたくしは諦めませんわ。わたくしにすべてお任せなさい。きっと御首を縦に振らせてみせますわ」

「なんとか……よろしくお願い致します。私には姉上だけが頼り。もう、姉上におすがりするしかないのですから」

 梅壺の庇の間で、道長は、御簾の向こうの姉に必死で頼み込んでいた。あの土御門殿での密談から、すでに丸二日。その間、何度もこの内裏の姉のもとを訪ね、泣き落としあり、ごますりありの戦術を繰り広げていた。それが効を奏したらしく、女院は最初のときと比べてますますその気になってきている。

 一方、そのような叔父叔母の動きを知ってか知らずか、伊周は高二位と呼ばれる母方の出家した祖父に頼り、本願成就のための修法ずほうに打ち込んでいた。神仏の力によって帝の心を動かし、関白の勅を得ようというのであろう。

「伊周殿は、ここのところ参内していないようですね」

「ええ。道兼兄上が亡くなられた後すぐに、帝に関白の位を戴こうと奏請していたらしいのですが……帝のお許しが出なくて、そのまま邸に引き籠っているとか」

「おおかた、例の高二位こうにい殿に修法をさせているのでしょう。このようなことで神仏に頼ろうなどとは、なんと浅ましい。そのような情けない者に、関白の大任が務まろうはずがありませんわ」

 女院は眉間にしわを寄せ、軽蔑の色をありありと浮かべた。もちろん御簾と几帳に隔てられて、道長には表情を窺う術もないが、声の調子で判らないはずはない。

「聞けば、あの伊周殿は内大臣になった折、叔父であるあなたにも、ずいぶんと不遜な振る舞いをしたそうですね」

「まぁ……叔父とはいえ私は、下位の権大納言ごんだいなごんですからね。若い伊周殿が地位に溺れるのも無理はないでしょう」

「あなたという方は……本当にお心が広くていらっしゃる。それにしても関白の威光を笠に着た、あの一家の傲慢ぶりには呆れさせられるというもの。あのような者たちに帝がお心を奪われておられるなど、わたくしには我慢なりません」

 道隆の一家そのものを差してのことではなかろう。表向きは伊周についての不満のようにも取れるが、実のところは、たった一人の己が息子の寵愛を独占する、定子への嫉妬があるのかもしれない。母というものは、そんなものである。たとえどんな身分、どんな地位にあろうとも。

 殊勝な態度を見せる道長にしても、それが本心であるはずはない。藤原という一族の野心にあふれた血は、人の情けなど関わりのないもののはずだった。

 外はすでに漆黒の闇と化し、広い後宮にも重い静寂が訪れる刻限となっていた。一大権勢家だった故道隆が病に伏して以来、華やかなはずの後宮にも沈鬱な空気が流れ込み、宴などの歌舞音曲もなりをひそめてしまっている。

 活気のない後宮を誰よりも憂えているのは、華やかな後宮に憧れて宮仕えを志してきた女房たちであろう。ここ梅壺でも、女院に付き従ってきた女房たちは、皆一様につまらなげな顔をしていた。円融帝在世時には、何人もの女御后が妍を競って活気に満ちあふれていたことを思えば、女院の参内と聞いて、その現役の頃の後宮の華やぎを再び味わえるものと期待していたとて無理はない。

「中宮は、今宵もお召しがないようですね」

 女院は見えるはずのない隣の殿舎を透かし見るように、左方に顔を向ける。

「女院様が久しぶりに御参内なされている折、帝も御遠慮なされておられるのでしょうな。ここ数日は、登花殿にもお渡りになっていないようですから」

「……そう。帝が中宮をお寄せつけにならないというのは、こちらにとっては好都合というもの。中宮の口から、帝の御耳にいらぬことを吹き込まれては困ります」

 冷たく言い放つと、女院は、しばし考え込むように口を閉ざした。ややしばらくして、側近くに侍る老女房になにやら命じ、また道長の方へ向き直った。

「道長殿。これから、清涼殿へ上がりましょう」

「は? 今からでございますか」

「帝がお会いして下さらないというのであれば、こちらからお訪ねするまで。時を置けば、中宮が動き出さぬとも限りますまい。そうなってからでは遅い。こちらの不利となります」

 道長は、女院の母としての揺るぎない自信と決意のこもった言葉に、両の拳を強く握りしめた。

 摂関家嫡流の姉弟は、数人の女房を従えて梅壺を後にする。帝のいる清涼殿めざして――今まさに、運命の夜が更けようとしていた。

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