「姉上、いえ女院様。どうか御子、未だ御年お若い帝の御治世をお考え下さりませ。位は内大臣でも、あの伊周ごとき若輩には帝の補佐役は務まりませぬ。伊周が関白となって政を行えば、必ずや人々のそしりは免れますまい。故関白が病の間、伊周がどれほど公卿殿上人の嘲笑を買ったか……関白の不首尾は、これすなわち勅を下される帝の不面目。近来にない賢帝として、国中の尊敬と期待を受けておられる帝の御威光の、致命的な疵となりましょうぞ」

 土御門殿の寝殿――本来ならば主が住むべき館を姉のために提供した道長は、今その寝殿で、母屋の御簾前に平伏しながら一気にまくしたてた。

 この女院詮子こそが、物の分別のつく年となり、賢帝聖帝と言われた祖先の跡を継ぐべく理想に燃える今上帝の、たった一つの弱みのはずであった。帝は今、傍目にも判るほど迷っている。実利を取るか、熱愛する中宮定子の境遇を救うべきかを。

 関白としてふさわしいのは、もちろん伊周ではない。だが、父を喪って後見をなくした定子には、是非とも関白の兄の存在が必要なのである。そんな帝の心の動きなど、道長には手に取るようにわかっているはずだった。だからこそ、帝の意志を左右できる唯一の存在である、生母である女院を訪ねたのであろう。

「姉上……」

「わかっております。わたくしも、伊周殿では心許ない。あの者では、帝の支えには荷が重すぎましょう。なにより、叔父を越えて関白となるなど……物事には順序というものがあります。道隆殿、道兼殿と続いて、あなたを無視することはできますまい」

「ありがとうございます、姉上。姉上にそう言って頂けますと、この道長……なによりも心強うございます。百万の味方を得た心地が致します。なんとか明日にでも御参内戴いて――」

「いいえ!」

 女院は、感極まって泣かんばかりの道長を制するや否や、きぬずれの音をけざやかに立てて、御簾際までいざり寄った。

「明日では遅すぎますわ。帝のお側には、伊周殿の妹君の中宮が付いているのですよ。帝は中宮に夢中となっておられるから、中宮から涙ながらにすがられでもしたら……今これから、内裏に参りましょう!」

 生母の貫禄と迫力で、そのまま御簾から飛び出しそうな勢いできっぱりと言い切る。道長は、してやったりとばかりの笑みを、詮子に見えぬように浮かべていた。


 「中宮……そのように暗い顔をしないでおくれ。父関白が亡くなって悲しむのは判るが、せめて私といるときだけでも、いつもの美しい笑顔を見せて欲しいのだ」

 中宮定子の直盧となっている内裏後宮の登花殿。その母屋にしつらえられた御帳台みちょうだいの中で、帝は、喪を示す鈍色にびいろの衣をまとった定子を抱きしめ優しく囁いた。

「兄はどうなるのでございましょう。わたくしなどが政に口を挟むべきではないことは、重々承知しております。でも、兄の行く末を思うと……わたくし……」

「伊周か……。あなたが気に病む必要はないのだ。私が、あなたの大事な兄を見捨てたりするものか」

「では、関白は兄に?」

「それは……」

 帝が困惑の色を浮かべて口ごもる。そこへ、女房が遠慮がちに声をかけてきた。

「あの……主上。源典侍げんのないしのすけ殿が見えておりますが」

 御帳台の内側で二人は、不審げに顔を見合わせる。帝の常の御所たる清涼殿せいりょうでんから后の殿舎まで、わざわざ女官が帝を追いかけてくるなどただ事ではない。帝は、定子を安心させるように背を撫でてやってから、そのまま一人で御帳台を出た。

「源典侍をこれへ」

 命を受け、取り次いだ女房は母屋の御簾をからげ、の子縁と庇の間を遮る御簾の側へといざり出ていく。やがて、帝の側近くに仕える内裏女房の源典侍が取り次ぎの者に連れられて現れた。

「いったい何用だ。下らぬ戯れ言を言いに来たというのであれば許さぬぞ」

 中宮との甘い一時を邪魔された恨みが手伝ってか、帝は常にない厳しい眼差しで典侍を見下ろす。典侍は、顔色を変えて平伏しながら用向きを告げた。

「それが……ご生母であられる女院様より、お使いがございまして」

「なに、母上が?」

「はい。ただ今、梅壺うめつぼの直盧に入られた由にて、是非とも主上にお運び下さるようにと……」

「梅壺に? 母上が、わざわざ参内なされたというのか……。判った。すぐに伺うと使いを出すのだ」

 指示を下した後で帝は、また定子のいる御帳台へと向かった。とばりを引き開けると、定子は不安に眉をひそめてじっと座っていた。どことなく顔が蒼く、それが儚げな美しさとなって、際だった容姿をいっそう引き立たせている。

「……」

 帝は、そんなこの世の者とは思われぬ玲瓏な姿を前に、息を呑んで言葉を失っていた。

「なにか……おありでございましたの?」

 明るく聡明なはずの気性も、さすがに庇護者たる父を喪い、すっかりなりを潜めてしまっている。今の定子には、若輩の伊周が掴むかもしれない権勢と、帝の愛情に頼ることしかできはしない。

「……主上、どうかなされたのですか?」

「あ……いや、大したことではない」

 優しい微笑を浮かべ、帝は御帳台に入って、最愛の妻の傍らに寄り添う。

「母上が参内なされたらしいのでね。これから、ご挨拶に伺わなくてはならなくなった」

「女院様が……!?」

 女院がわざわざこの深更になって、しかもこのような時に、なぜ急に出向いてきたのか。定子の父や叔父たちと女院との相関関係――それは、定子にとってあまりにも不利な条件であった。

 同胞とはいえ兄二人は、帝に対して強大な影響力を持つ妹に対して無頓着でありすぎた。女院詮子が国母こくもとなってからのことだけではない。それは、はるか幼少の頃まで遡ることのはずであった。その叔母の参内は、定子に不吉な予感をもたらした。

「母上にご挨拶申し上げたら、どんなに遅くとも必ずここへ戻ってくるよ。あなたの悲しみを、少しでも慰めてあげたいからね」

「どうしても……お伺いにならなくてはなりませんの?」

「中宮?」

「いえ……」

 定子は、行かないで欲しいとの言葉を呑み込んだ。父を喪い兄弟すらない帝には、母の存在は絶対である。その母に会いに行くのを止め立てするなどできるはずもない。

「やはり父関白の死は、あなたにとって大きな衝撃だったのだね。あの明るかったあなたが、まるで童子のように残されるのを不安がるとは」

「いえ、そういうわけでは……」

「すぐに戻ってくるよ。だから、安心しておくれ。そうだ、清少納言に付いていてもらおう。あの人が側にいれば、あなたの気も紛れるだろう」

 帝は労りに満ちた笑みを残し、定子の前から消え去った。

「主上……」

 定子は、ただただ帝の消えた帳の方を見つめていた。しばらくして、お気に入りの女房、少納言の命婦みょうぶが帳越しに声をかけてきた。

「宮様。主上より、お側に侍るようにと、お申しつけられましたので……」

「……お入りなさい」

 乳母や上臈じょうろう女房の身分でもない清少納言は、御帳台に入ることにためらいを見せたが、定子は強いてそれを命じた。

「宮様、御顔のお色が良くございませんが、どこかお悪いのでは……」

「いいえ、そんなことではないのよ」

 美しい顔をいっそう曇らせ、定子は力なく目を伏せる。それを気遣ってか、清少納言は、決心したように膝を進めて女主人の側近くに座した。

「内大臣様のことを御心配になられていらっしゃるのですか?」

「……」

「大丈夫でございますわ。きっと主上が宮様によろしいよう、御取りはからい下さいます。ええ、宮様のお立場をお悪くなさるなど、あろうはずがございません。主上の宮様への御愛情の細やかさは、私もようく存じ上げておりますもの」

「……」

 その気を引き立たせようとするようにいくら言葉を連ねても、定子は押し黙ったまま、暗い顔を戻そうとはしない。清少納言も、定子の心痛の深さの前には口を閉じるしかないようだった。

 人のいない堂宮のような静けさが、狭い御帳台の内側を押し包む。清少納言は口を閉ざしたまま、敬愛してやまないはずの女主人を見守っていた。定子はそっと手を伸ばし、さだ過ぎた女房の肉の薄くなった手に触れた。清少納言のどちらかといえば浅黒い顔が、一気に紅潮する。

「みっ、宮様……?」

 定子は、うろたえる女房の手を両手で強く握りしめ、悲しみと不安に歪む顔を向けた。その白く美しい手は、かすかな震えを帯びている。

「主上は……女院様の御許にお渡りになられたわ」

「女院様が参内なされていらっしゃるのでございますか?」

「梅壺に……」

「このようなときに、なぜ……」

 清少納言の顔にも、先ほど定子が感じたような不審と不安の色が浮かんでくる。だが、定子はそれには構わず、独り言のように消え入りそうな声で呟いた。

「すぐお戻りになると仰せになったけど……きっと主上は、戻っては下さらないわ……」

「宮様?」

「わたくし……言いたかったの。女院様にはお会いにならないでって。でも、言えなかった……。女院様に会われたら……主上はきっと、わたくしやお兄様をお見捨てになられてしまう……」

「そんな馬鹿な……いえ、そんなことあろうはずがございませんわ。主上と宮様の御仲には、たとえ御生母様といえどもお入りになることなどできは致しません」

「少納言……もし、道長殿が関白になられたとしたら……わたくしたちは、どうなってしまうのかしら……」

「そんな……そんな……」

 お世辞にも美しいとは言えない清少納言のきつい目に涙があふれ、それ以上は言葉にならないようだった。日頃、道長の人となりを礼賛して憚らなかったこの才女は、政権の揺れ動きにともない、他の女房たちから冷視されるようになってきていた。

 だが、定子は、そうなっても少しも態度を変えていない。清少納言にとっては定子がすべて。その定子と父道隆の堅固な権勢の中にあってこそ、敵方の存在へも惜しみなく礼賛ができたのであろう。定子には、それがよくわかっていた。

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