同じ頃、中宮定子は幸福の絶頂にあった。三歳下とはいいながら、やっと一人前の殿方らしくなった帝からは熱愛され、父はこの世で最高の権力を欲しいままとし、兄伊周も弟隆家も若年ながら高い地位を得てなんの憂いもない。

 華やかな後宮で、才能豊かな女房たちと知性にあふれた洒落た会話を愉しみ、愛と平和に満ちた生活を送る日々。このまま道隆家の栄光は、未来永劫続くものとさえ思われた。だが、盤石なはずの定子の栄華にも、翳りの訪れるときが刻一刻と近づいてきていた。

 都には先年から、流行り病の恐怖が吹き荒れている。上は公卿殿上人のような高貴な者から、下は名もない庶民まで。都大路には死人の山が築き上げられ、朝廷では出仕する者の数が減り、多くの役職が空位となっていった。

 そのさなか、三月となった頃のこと。この上ない地位まで昇りつめた、関白太政大臣道隆までもが病に倒れてしまった。だが、都を支配する流行り病のせいではない。酒の飲み過ぎによる飲水病――つまりは糖尿病であった。

 枕も上がらぬ病の床で、道隆は手にした政権を我が子伊周に譲るために、帝への奏請の文をしたためた。自分の病の間、関白を伊周に代行させるようにという願いである。すぐさま帝の勅許は下り、伊周は関白代行として政を預かることとなった。

 だが、経験も浅く年若い伊周に政をうまく処理する力はない。貴族たちの間に不満の色が見え始めた頃、ついに道隆がこの世を去った。四月十日のことである。四十三歳であった。

 関白代行の任を受けていた伊周が、次の関白は自分であると思いこむのは当然であろう。だが、それには周囲の不満と反感が大きすぎた。伯母である皇太后、今は出家して女院と呼ばれるようになっている詮子までもが伊周を厭い、叔父たちに加担した。生母の発言はなにより重い。一条帝は、熱愛する中宮定子をおもんばかりながらも、右大臣となっていた道隆の次弟道兼に関白の位を与えてしまった。

 しかし、このとき――道兼もまた病に倒れ、死の床にあった。一度は落胆した伊周も、再び自分に政権の座が転がり込むのは時間の問題と安堵したという。


 「兄上、しっかりなさって下さい。せっかく関白の位を戴いたというのに」

 道長は、病床の道兼を訪ねて励ました。長兄とは仲の悪かった道長も、この次兄とはさしたる争いもしていない。それは、器の違いによるものなのかもしれない。道兼もまた藤原家嫡流の血を引く人間であれば、もちろん政権への野心を抱いているはずだが、それだけの器量も人望もない人物であった。

 藤原家の血は近親憎悪の血である。そして、その血が最も強敵となる者を本能的に嗅ぎ分ける。道長は敵となり得ない者に対しては、まったく寛容であった。それ故、病床の次兄への労りは、おそらくは本心からの純粋なものなのであろう。

 そんな道長の励ましも空しく、正式に関白となって間もないうちに、道兼は道隆に続くように世を去った。関白の位にあること七日間。これをもって道兼は、人々に七日関白と呼ばれることとなった。


 太政大臣に続いて右大臣が、その上、流行り病で左大臣の位にいた者までもが世を去った。今、大臣の位にある者は、年若い伊周ただ一人。位から言っても血筋から言っても、加えて妹定子への帝の寵愛の深さから言っても、伊周の期待は並々ならぬものがあるはずだった。

「是非とも私めに次の関白を!」

 だが、伊周が何度奏請しても、一条帝は首を縦に振ろうとはしない。周囲がそれを望んでいないことを、肌で感じているのかも知れなかった。


 公卿殿上人などの有力貴族が政権の推移をめぐって右往左往する中でも、女たちの生活は常平生となんら変わることはない。夕闇に紛れようとする都は、男たちの思惑には関わりなく平穏な静寂が支配していた。

 半月ほど前に夏の更衣を済ませ、土御門殿の室礼しつらいは見るだに清々しい。屏障具をすべて改め、女房たちの衣裳も、華やかではあるがどこか重苦しかった冬のものから、夏用の涼しげな色目へと変わっている。

 彰子もまた撫子の細長を身にまとい、生絹すずしに白泥の花鳥模様の描かれた几帳の内側で、母倫子とともに女房たちの他愛のないおしゃべりを聞いていた。

 父道長は、もちろんこの場にはいない。政権争いの次の手を打つべく忙しく立ち回っていた。邸に帰るなり、寝殿に住む伯母詮子を訪ねたまま、二刻あまりにもなろうというのに、まったく戻る気配はなかった。

 帝の生母である皇太后詮子が出家し、女院と呼ばれるようになった後、道長は土御門殿の本館たる寝殿を明け渡し、御所として提供していた。単に仲の良い姉だからそうしたのか、それとも帝に最も影響力のある生母だからなのか。どちらにしても、道長にとって女院は誰よりも重要な存在であった。

「ねぇ、お母様? お父様はお祭りのお約束、覚えていらっしゃるかしら」

「そうねぇ。ここのところ色々とあってお父様もお忙しいし、どうかしらねぇ」

「お祭りを見に行くのは初めてだから、とても楽しみにしてるのに……」

 まだまだあどけない彰子の顔が、みるみると曇っていく。それを慰めようとしてか、彰子の乳母めのとが困惑顔の倫子に代わり、気を引き立てるように言う。

「賀茂のお祭りは、また来年にもありますわ。姫様は、もう大人でいらっしゃるのですもの。お聞き分け下さらなくては」

 八歳という頑是ない年の子供に大人もあったものではないが、こう言われて悪い気のするものではない。子供は、自分が大人扱いされることを望むものである。彰子もまた、子供らしい単純さですぐに機嫌を直していた。

「そうよね。物見はいつだってできるし……姫はもう、子供じゃないもの。駄々をこねたりしないわ」

「本当に姫様はお利口でいらっしゃいますこと。もう、どこに出られても恥ずかしくない、立派な姫君でいらっしゃいますわ」

「そう?」

「そうでございますとも。姫様は、今まで藤原一族からお立ちになったどの姫君よりも、立派になられるお方でございますわ。ええ、必ず!」

 乳母の顔は確信に満ちている。長い間に道長の口癖を聞いてきたために、いつしか本気でそう信じるようになっているのかもしれない。もちろん、自分の乳で育てた姫が后の位に立つことは、乳母にとってはこの上ない栄誉であろうから、当人の純粋な希望なのかもしれないが。

「お父様、まだ戻ってらっしゃらないのかしら……」

「女院様は今上の御生母でいられるから、大事な政のご相談でもあるのでしょう。お父様のお帰りを待たなくてもいいから、もうお寝みなさい」

「でも……」

 言いかけて彰子は、そのまま口をつぐんだ。父に是非頼みたいことがあったのだが、あまり母に話す気にはなれなかった。

「姫様、ご寝所の用意を致しました。どうぞお寝み下さいまし」

 いざり寄ってきた若い女房が几帳越しに声をかけてくる。母と乳母に促されて、彰子は仕方なく従うことにした。障子で仕切った隣の局には、二枚の畳を敷いた上に茵が設けられ、几帳が引き回されている。そのいつも通りの寝所の前に、これもいつも通りに数人の女房たちが待ち受けていた。

「さぁ、姫様。御衣おんぞをお脱がせ致しましょう」

 一番年輩の女房が声をかけると、それを合図としているかのように、他の女房たちが彰子を取り囲む。まだ女として目覚めるにはほど遠い、幼い少女の華奢な体から色鮮やかな衣が滑り落ち、白いひとえと濃紫の長袴だけが残る。一人が脱がせた衣を、別の一人が受け取って畳んで衣筥にしまう。そして別の一人が、ようやく腰のあたりまで伸びた彰子の美しい髪を束ねた。

「ささ、御寝ぎょしあそばしませ」

 彰子が畳の上のしとねに身を横たえると、女房の一人が大袿を引きかける。女房たちは高燈台の灯を小さくし、付き従ってきた乳母一人を残して引き上げていった。

「ねぇ、乳母の君? わたくし……本当に中宮様みたいになれるかしら?」

「中宮様のように、ですか?」

「ええ。中宮様のように賢く、美しく……帝から愛されて、女房たちからも慕われるような……」

「もちろんでございますとも。姫様なら、きっと中宮様以上の后の宮になられますわ」

「中宮様とわたくし……従姉妹になるのよね?」

「そうですわね。お父君同士がご同腹のご兄弟でいられるのですから」

 枕辺に座って優しく自分を見下ろしている乳母の袖を、彰子は、そっと握りしめたまま独り言のように言った。

「お会いしてみたいわ……」

「えっ……!? 中宮様にでございますか?」

「わたくし、中宮様をお慕いしているのだもの」

「姫様……?」

 乳母は一瞬眉をひそめた。その戸惑いに似た表情を、彰子は不審な思いで見つめ返す。

「どうしたの? わたくしが中宮様をお慕いしちゃ……おかしい?」

「いえ、そういうわけでは……」

 妙に歯切れが悪い。いっそう不審を募らせて、思わず身を起こして乳母の顔を見つめる。乳母は困ったように目を反らせ、たどたどしく言葉をつないだ。

「……姫様、今おっしゃったこと……他の誰にもお話ししてはいけませんよ」

「なぜ?」

「殿と……故関白様は、ご同腹ながら……先のお父上と伯父上とのように、あまりお仲はよろしくなかったわけですから……」

「お父様が……? 嘘よ、そんなこと。だって、お父様は中宮様の職の大夫をしてられたでしょう?」

「それは……その、故関白様のご命令で……。とにかくですね、姫様。このお話は絶対に……」

「判らないわ、そんなの」

 彰子は、怒りを帯びた色を浮かべて顔を歪ませる。定子の噂を聞くたび、幼い胸は躍った。会ったことのない従姉と物語などの女主人公たちを重ね、憧れ、その栄光を羨み、我がことのように喜んできたのである。その自らの目標であり憧れでもある女性と、敬愛する父が敵対関係にあるがごとき言い方は、幼心にどうしても納得することができない。

「わたくし……お父様にお願いしようと思ってたのよ。中宮様にお文を差し上げたいって……。中宮様とお文のやりとりができたら、どんなに幸せかしらって思って……」

「姫様……」

「お母様が……どうしてだかは判らないけど、中宮様や亡くなられた関白様のことを良く思ってらっしゃらないのは知ってるわ。でも、お父様は違う……。お父様は、わたくしが中宮様に仲良くしていただけるようになったら、きっと喜んで下さるわ」

 彰子にとって父道長は至上の存在であった。少なくとも、今このときは。敬愛と信頼、そのどちらをも捧げつくすに足る偉大な父のはずであった。自分に向けられる愛情と慈しみが他の誰にでも惜しみなく向けられているものだと、父はそれだけの素晴らしい人間なのだと、ひたすら信じ切っていた。

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