第一章 后がね

 「私の従妹が、后の宮の御許に上がっているのだけれどね。主上おかみの御寵愛の深さといったら、それはもう目も当てられないほどですってよ」

「中宮様は、お美しいと評判の御方ですものねぇ。今度、東宮とうぐうの御許に入られる妹君も、中宮様にそっくりなお美しい方でいられるそうだし」

「ええ。とうぶん、関白様のご威勢は変わりそうもないわねぇ」

 長徳元(九九五)年――土御門殿の東の対。几帳と御簾を隔てた庇の間で噂に興じている女房にょうぼうたちの話を、道長の大姫彰子は、習字の手習いの手を休めて聞いていた。祖父兼家が世を去って久しい。伯父道隆の権勢はますます揺るぎないものとなり、我が世の春を謳歌していることは、風にも当てられない深窓の姫君にも漏れ聞こえてくる。

 八歳となって振り分け髪もかなり伸び、背丈にはまだまだ足りないとはいうものの、姫君と呼ばれるにふさわしい姿形は整いつつあった。父道長が期待するように、抜けるばかりに白い肌、美しく澄んだ瞳、そして艶やかで豊かな髪を持つ彰子は、いずれ世の評判を集めることになろう。

 道長の跡を継ぐ男子も既に四歳となり、二の姫も二歳の年を迎えている。三人の母、倫子の正室の座は揺るぎないものとなっていた。側室明子にも一人の姫を持たせた道長は、いつの日か訪れるであろう機会のための地盤を少しずつ整えつつあった。

 もちろん今の彰子が、当然抱いているはずの父の政治的思惑など知る由もない。優しく美しい父。その父に誰よりも愛され、誰よりも大切にされている母。そして可愛い弟妹たち。平穏で愛に満ちた家庭で、ただただ幸せな毎日を送っていた。

「中宮様のいらっしゃる登花殿とうかでんの様子といったら、それはもう華やいでいて、毎日が夢のようですって」

「仕えている女房たちでさえそうなら、主上が中宮様につきっきりでいられるのも無理はないわねぇ」

「ええ。それに、中宮様の女房の中には、殿上人でんじょうびとも舌を巻くような才気あふれる人がいてね……」

「ああ、知ってるわ。清少納言せいしょうなごんとか呼ばれている人でしょう?」

『清少納言……?』

 彰子は、手にしていた筆を置いて、女房たちの噂話に耳を澄ませた。

 定子が立后して以来、今上帝の後宮には未だ女御は一人もいない。道隆が権勢を傘にきて他の公卿くぎょうたちを圧迫し、我が娘の競争相手の出現を阻んでいるためである。後宮は今、定子一人のためにあると言ってよかった。

 その後宮で定子に仕える者に、近頃とみに評判となってきた女房がいた。美しく才豊かな女主人を熱烈に敬愛し、のちに『枕草子』を著して世に名を馳せる清少納言と呼ばれる女性である。名門の貴公子たちとの才気走ったやりとりは、後宮の精気に満ち満ちた華やいだ雰囲気とともに、内裏の外の貴族の邸宅でも噂になるほどであった。

『後宮って……どんなところなのかしら。従姉の定子様は、どんなにお美しい方なのかしら。清少納言って、どんな人なのかしら……』

 少女らしい純粋さは、話に聞くきらびやかな後宮に夢のような憧れを抱かせた。彰子は、見たこともない内裏や後宮の様子を思い描き、会ったことのない従姉の中宮に憧れ、その中宮に敬愛を捧げる才豊かな女房の存在をうらやましく思う。

「姫様? 手習いはお済みですか?」

 座を外していた女房の衛門えもんが戻ってきて、彰子の手元を覗き込む。衛門は、習字などを教える教育係の一人である。

「あらあら、何をしてらしたんです? ちっとも進んでいないじゃありませんか」

「ごめんなさい。ちょっと考えごとをしていたの」

「まぁまぁ、いけませんね。手習いをちゃんとなさらないと、立派な姫君にはなれませんよ。どこにお出ししても恥ずかしくないよう、しっかりお仕込みするようにと、殿からもご命令されておりますのに」

「わかっているわ。后がねになれるように、でしょう?」

 彰子は、まだあどけなさの残る顔に悪戯っぽい笑みを浮かべて、筆を取り上げた。当世第一と呼ばれる能書家の筆による手本を見つつ、新しい紙に墨を走らせる。八歳にしては、なかなかに見事な手蹟であった。教える衛門は、時おり筆の運びを手を取って直してやりながら、満足げに微笑んでいる。

「姫や、私の可愛い姫はどこだね?」

「あっ、お父様!」

 几帳の上から中を覗き込んだ道長に、彰子は顔を輝かせた。

「おや、手習いをしていたのかね。どれどれ?」

 道長は、感心したように頷きながら几帳の内へと入ってきて、彰子の手元を見つめた。

「ほう、これは大したものではないか」

「ええ。姫様は、本当にお覚えが早くていらっしゃって」

「いやいや、そればかりではあるまい。やはり教え方が良いのであろう」

「恐れ入ります。でも、姫様のご上達ぶりには、本当に私も舌を巻かされております。さすがに、殿の姫君でございますわ」

 教え子の才能を褒め上げ、衛門は、にこやかに主人とその鐘愛の姫を見やる。

「ふむ。そういえば、琴を教えている侍従じじゅうも姫を褒めておった」

「和歌をお教えしている大輔たいふさんもですわ」

「そうかそうか。姫、まさしく姫は都一の后がねだ。このまま、精進を怠ってはいけないよ」

「はい」

 父に頭を撫でられ、彰子は、こぼれるような笑みを浮かべた。いつか女房たちが得意げに報告してきた噂など、まるで信じる気にはなれない。それほど彰子の前での道長の態度は、ひたすら愛情に満ちて優しく寛大であった。

 ――噂というのは、道長と長兄道隆との険悪な仲のことである。先頃、関白太政大臣となった道隆が、自邸で弓競ゆみくらべを催したときのこと。道長は招かれていなかったが、偶然を装って訪問したらしい。一瞬嫌な顔をした道隆ではあるが、普段から仲の悪いはずの弟の顔を立て、手厚くもてなしたという。

 関白の権威で年若い息子伊周これちかを昇進させ、道長の頭越しに内大臣の位に引き上げさせたばかりで、多少の負い目もあったのかもしれない。道隆は、内大臣の息子よりも、下位にある権大納言ごんだいなごんの道長を上席へと座らせた。その上、伊周より先に弓を射させるほどであった。

 その兄の厚遇に対し、道長は伊周を少しも立てようともせずに、平然と矢を的の中心へ射ち込んだ。道隆も居合わせた公卿たちも色を失い、なんとか伊周に勝たせようと再度の試合を促したが、受けて立った道長は、矢をつがえてとんでもないことを叫んだ。

「我が家より后帝が立つならば、この矢当たれ!」

 しかして矢は、見事に的の中心を射抜いた。これに受けて立たねば伊周の名折れである。同じことを賭けて、伊周もまた矢を射た。だが、矢はあられもない方向へと飛んでしまった。それでも足りないとばかりに道長は、また次の矢をつがえて叫んだのである。

「私が摂政関白すべき者なら、この矢当たれ!」

 矢は再び的の中心を射抜いた。蒼くなった道隆は、続いて矢をつがえようとする伊周を慌てて押しとどめたという――

 女房たちは我がことのように得意満面で、道長の快挙を褒め称えた。だが、聞かされた彰子には、どうしても信じられなかった。彰子の前では、父道長は仏のように慈しみ深く温かい人間であった。とてもそんな、人もなげな振る舞いをするなど想像することすらできない。

『絶対に嘘だわ。だってお父様は、こんなにお優しい方ですもの。そんなあさましいことをされる方じゃないわ。きっと、誰かの作り話だわ』

 彰子は今、父への敬愛と信頼で満たされ、その父の子として生まれたことを心の底から誇らしく思っていた。

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