「この殿には、夜泣きし給ふ姫君はおはしますなれ。女御后になり給ふ姫君ぞおはします――」


 正歴元(九九〇)年。摂政、皇太后を始めとする時の権力者たちに祝われ、盛大な出産祝いの儀を受けた赤子も、三歳の年を迎えていた。

 娘は多いほど家は栄える。そんな風潮の中、藤原宗家の血を引く道長の姫は、祖父兼家からも帝の生母詮子からも〝家〟を背負って立つ姫君にと期待をかけられ、周囲からかしずかれるようにして育てられていた。

 だが、道長の掌中の玉である彰子の他にももう一人、一族中の期待を受けて生まれ、美しく成長した姫がいる。藤原定子さだこ――道長の長兄、右大臣道隆の大姫である。

 彰子にとっては、従姉にあたる姫君であった。既に定子は一四歳。ちょうど適齢期の盛り。学者の家系に育った母の血を継いで才気にあふれ、父ゆずりの匂うような美しさと評判の姫である。

 この年の正月、いよいよ父の跡を狙う道隆の、後宮制覇のための布石が始まった。藤原一族の血を濃く継いだ期待の帝が、とうとう元服の日を迎えたのである。

 元服は男子の成人の儀式である。もとどりを結って冠を被り、衣服を大人のものに改める。そして成人と認められた男子は、その夜、寝所に初めて女性を迎え入れる。この女性をしといった。

 十一歳となり元服を済ませた一条帝の添い伏しに、道隆は、父や姉の協力を得て娘定子を奉った。添い伏しは、そのまま妃となるのが習わしである。定子はこの日、天皇妃としての第一歩を歩み出したのであった。

 権門家が、我が姫を帝や東宮に差し出すことを入内じゅだいという。入内した姫は宣旨せんじによって女御にょうごの位を授けられ、正式な妃となる。いにしえには女御の地位は低かったが、時代の変遷につれて向上し、今や天皇の嫡妻である后は、女御の中から選ばれるまでになっていた。既に定員の制度も崩れ、人数の制限もない。力のある各家が争って娘を女御とし、帝の寵を得させて后の位を目指すのが通常である。

 添い伏しとなった定子が、女御の宣旨を受けるのは時間の問題であった。そして、后の位に登りつめるのも――


 この夜、道長は、正室倫子とともに土御門殿の東の対に渡ってきていた。東の対には鐘愛する娘彰子がいる。結婚当初は兼家の邸から通ってきていた道長も、彰子の誕生後すぐにここを本所と定め、倫子とともに暮らすようになっている。それに伴い、主であった雅信夫婦は一条の邸へと移っていた。

「姫や、お利口にしていたかね?」

 なんでも珍しい盛りの小さな姫は部屋中を駆け回り、几帳の帷にじゃれるようにして遊んでいる。御簾みすをからげて覗き込んだ父に、彰子は美しい瞳を大きく見開いて、顔を輝かせて駆け寄った。

「おとうちゃまっ」

「おうおう、よしよし」

 道長は小さな姫の体を抱き上げた。あどけない笑みを浮かべ、彰子は父の首にしがみついて頬ずりする。

 兼家の血統は、美貌の家系として世に知られていた。娘の超子や詮子も幼い時分から美姫と評判を取り、道長もまた、若い頃の長兄道隆がそうだったように美男子として世に誉れ高い。その血を継いだ彰子もまた、幼子ながらも美貌の片鱗を覗かせていた。

 誕生後まもなく削られた髪も今ではすっかり長く伸び、充分な手入れを受けて、ふさふさとして絹のように輝いている。首にかかるか、かからないかの尼削あまそぎという髪型がよく似合い、まさに可愛い盛りであった。

「本当に姫は美しい。あと十年もすれば、都一番の后がねだ」

 道長の膝に座ったまま父の顔を見上げて、彰子は、あどけなく小首を傾げる。その愛らしい表情を満足げに見つめながら、道長は満面に笑みをたたえて教えた。

「この世で一番の姫君になることだよ」

「いちばん?」

「そう。誰よりも綺麗で、誰よりも幸せな姫君だよ」

 意を含んだ言葉も、幼い彰子には判るはずもない。だが彰子は、父の笑顔と幸せそうに寄り添う母の姿に満足し、にこにこと微笑んでいた。

 長兄の道隆が父の政権を受け継ぐために着々と駒を進めていることも、道長が知らぬはずはない。そして今宵、姪の定子が后となるための王手をかけたことも。また道隆の元では、次の后がねとして定子の妹原子もとこが九歳の年を迎えていることも。だが道長は、決して焦りや動揺を周囲に見せることはなかった。


 二月十一日、定子は宣旨を受けて正式な女御となった。年若い帝は、姉のような定子の美しさに夢中となり、既にその寵愛ぶりは世に例しなしとまで言われている。成人した帝の元へは上流貴族たちが競って娘を入内させるのが通例だが、誰もが兼家や道隆の権勢を畏れ、その心づもりすら口にする者はない。

 この頃、当の兼家は病がちとなり、摂政太政大臣の座を長子道隆に譲ることとなった。道隆三十八歳。ここに新たな権勢と栄華の覇者が生まれた。出家した父に代わり、政を意のままに動かせる時が来たのである。

 権力を手にした道隆は、まず後宮掌握に乗り出した。入内したとはいえ、定子はまだ女御でしかない。女御は臣下の位であり、后に立って初めて皇族に列するのである。後から入内した女御に先を越され、后の位を奪われる例は過去にいくらでもあった。将来必ず起こるであろう身内との政争を回避し、後顧の憂いを断つためにも、道隆には、なんとしても我が娘を立后させる必要があった。

 だが、定子立后には大きな障害がある。制度上、皇后、皇太后、太皇太后と三后しか並び立てないことになっているが、その位は今すべてが満たされていた。三人とも健康上に差し迫った問題はなく、近く空位となる可能性は低い。

 ここで道隆は、後々自らの家系のつまづきの元となる強引な措置を取った。今上帝の妃の就く位のないのはおかしいと、本来は皇后の別称であった中宮ちゅうぐうの名称を独立させたのである。こうしてまた、貴族社会の基盤であるはずの律令制度の一端が、私欲によって崩れ去った。


 六月になって、ついに四人目の后――中宮定子が正式に誕生した。後は道隆にとっては、ただただ皇嗣が生まれるのを待つばかりである。

 この新しい后の誕生にあたって、道隆は末弟道長を中宮大夫だいぶに据えた。中宮職しきと呼ばれる中宮専属の役所の長である。つまり、定子のために働き、定子を引き立てるための役どころであった。

 道隆にしてみれば、一族の長たる自分の娘が后になったのだから、弟である道長がそのために尽くすのは当然との思いがあったのかもしれない。だが、同じ藤原摂関家嫡流の血を引く道長にとっては、屈辱以外の何ものでもないはずだった。

 藤原家の歴史は、政権闘争と近親憎悪の歴史である。兄二人よりも末弟である道長の方がより父に似ていることを、長子として跡を継ぐのが当然のように扱われてきた道隆は、まるで念頭に置いていないのかもしれない。似ているのは容姿だけではなく、その気性――兄を追い落として政権を掌握した近親憎悪の血も、強く受け継いでいるのだということを。

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