紫の雲―二人の后―

神矢みか

序章 北の藤波

 「なあに、焦ることはない。私はまだ若い。父上だって三の君でいらしたのに、しんぼう強く待たれて今の地位を得られたのだからな。この先、機会などいくらでもあるさ」

 先年迎えた正室倫子みちこの膨れ上がった腹をながめながら、藤原道長ふじわらのみちながは、酒の酔いも手伝って上機嫌で笑った。

 一条帝の元服を二年後に控えた永延二(九八八)年――摂政藤原兼家かねいえ六十歳。その大姫超子とおこは現東宮を産んだ後に世を去ったが、もう一人の姫詮子あきこは、今上帝の生母として皇太后となっている。その今上帝、兼家にとっては外孫となる一条帝は未だ九歳。まさに世はすべからく、摂政たる兼家の意のままであった。

 長子道隆みちたかは三十六歳。既に右大臣まで昇っており、兼家の権勢を継ぐ者と当然のように周囲に認められていた。次子の道兼みちかねは二十八歳。道隆には及ばないものの、道兼もまた公卿に列し、充分に次代の政権を狙える位置にいる。

 そして、後の世に御堂関白みどうかんぱくと呼ばれて王朝最大の権力者となる道長は、このとき未だ二十三歳。末子として生を受けたがために兄二人と比べて官位は低く、まだまだ将来の希望すら持てない状況にあった。

 長兄は、今上帝に娶せるべき姫をも得ており、きさいがねとしてかしずくように育てている。帝より三歳年長のその姫は、学者の家系出身の母の影響を強く受け、才知と美貌に恵まれた類いまれな姫と世間の評判も高い。今はただ帝の元服を待つのみで、着々と次期の政権を狙う準備を進めていた。

 そんな評判も耳にしているはずなのに、道長は全く気にしている様子もなく、慌てる素振りなどもいっさい周囲には見せない。

「今はとにかく姫を儲けることだ。上、是非とも玉のような愛らしい姫を産んで下されよ。一人二人と言わず、五人でも十人でも」

「まぁ、殿ったら……」

 産み月を控えていくらか面ざしのやつれた倫子は、脇息に身を預けたまま扇で口元を覆って笑い出す。

「嫌ですわ。まだ最初の子さえ、男か女かも判らないのに」

「いいや。姫を産んでもらわなくては困る。あなたによく似た、賢く美しい姫をね。なにせ、将来の后がねともなれば――」

「まぁ、生まれてもいないうちから姫と決めつけて、将来まで決めていらっしゃるなんて。呆れた父君ですこと」

 正式に結婚して、数ヶ月と経たずに倫子が懐妊したことを知ったときは、道長は、傍目にも見苦しいほど諸手をあげて喜んだ。倫子は、一世源氏の左大臣源雅信みなもとのまさざねの姫であった。のちに『男はがらなり』と息子に諭す道長が、選びに選んでやっと迎えた正室である。血筋も後ろ盾たる父の地位も申し分はない。

 むしろ、結婚にあたって申し込みをしたときには、道長自身の官位が低いため、そんな青二才に大事な姫をやれるかと舅に一蹴されたほどである。それを、とにもかくにも正式に結婚し、第一子の誕生を目前とするまでに至ったのは、ひとえに姑穆子あつこの強力な推しのおかげであった。

「あの公達きんだちは、なかなかに見どころのある若者ですわ。今でこそ官位は低いけれど、将来必ず出世する器量の持ち主です。見ていてご覧なさい。私の眼に狂いのなかったことは、いずれ判るときがくるでしょうよ」

 そう言って渋る夫を説き伏せ、穆子は、半ば強引に道長を婿として迎えたのである。しかも、くちばしの青い若造への下にも置かぬもてなしぶりは、当の道長はもちろん、父兼家をもいたく感動させた。後々の道長の妻倫子への厚遇は、こういうところに端を発しているのかも知れない。

 臣下の結婚は婿取りが通常である。女方の親は、求婚者のうちから婿を選び取って家に迎え入れる。男が生まれ育った家で終生暮らすということは少なく、結婚後しかるべきときに、正室の実家に移り住むというのが普通であった。結果的に邸や財産は、女から女へと受け継がれていくことになる。家を守っていくべき婿を選ぶのに、姑の意志が強く働くのは当然と言えば当然であろう。

 左大臣源雅信の邸宅は世に名だたる名邸であった。寝殿造りの邸宅には広大な敷地を要するが、この名邸は大路から大路までの丸々一町を占めていた。京極土御門大路にあるがために、巷間には土御門殿つちみかどどのと呼ばれている。道長は今、その土御門殿の東の対の屋で、臨月の妻を前に楽しげに酒杯を傾けているのであった。

「それで、私の姫はいつお産まれになるのかな」

 真顔で妻の膨れた腹を覗き込むと、几帳の外にいた女房たちから失笑が漏れた。なんといっても道長には初めての子である。出産を前にして浮かれるのも無理はない。

 一夫多妻が常識の貴族社会であれば、道長にももちろん他に妻はいる。これまで正式に結婚したのは倫子の他には一人だけだが、やはり源氏出身の姫だった。藤原一族との政権争いに破れた、先の左大臣源高明たかあきらの姫明子あきこである。

 明子は父を喪って後、道長の姉皇太后詮子あきこに引き取られていた。評判を聞きつけて求婚した公達の中には、長兄道隆や次兄道兼もいた。だが詮子は兄二人を退けて、末弟道長を選んだのである。幼少の頃より、兄弟姉妹の中で最も親しかったせいもあった。

 そうして正式に結婚した妻は明子が初めてだった。だが道長は明子ではなく、後から妻となった倫子を正室とした。明子にはもはや後ろ盾となる父も家もないが、倫子は地位も財産もある現左大臣の姫である。同じ妻となるにも全て後見次第。それが世の習いであった。

 倫子より一年早く妻となった明子には、まだ子はできていない。今のところ、その兆候すらもない。自然、子を待ち望んだ道長の足が土御門殿に向くのは無理もないことだった。


 「なにとぞ姫の誕生を! また、出産が万事滞りなく無事に済むよう、よろしく祈ってくれっ!」

 道長は出産の押し迫った妻の身と腹の子を案じ、少しでも名の知れた祈祷僧や修験者たちを大勢かき集め、ひたすら檄を飛ばした。

 平素は静かな佇まいを見せる土御門殿も、ここ数日はすっかり様相を変え、慌ただしさに取りまぎれていた。倫子のいる東の対では不断の誦経が行われ、凄まじい読経に圧されて傍らにいる者の声すら聞き取れない。

 夜戌の刻に至って、倫子の最初の陣痛が始まった。大急ぎで女房たちは白い唐衣からぎぬに白いを着け、白ずくめの産屋うぶや装束へと着替える。ついで、産室となる東の対の母屋の室礼しつらいを改め始めた。屏風、几帳、壁代に至るまで、全ての物が産室用の白いものとなり、家具などには白い布が掛けられ、ほどなくして、それまで鮮やかに彩られていた室内は、全て白一色へと変わった。

 当の倫子もまた、白い単に着替えさせられた。白は浄めの色とされ、魔除けとなる。子を産み落とせず、もろともに命を落とす者。子は産んでも、引き替えに自らの命を失う者。無事に出産を終えても、産後の肥立ちが悪くて助からない者。そういう者は数多く、出産は女にとって命を賭した大事業であった。しかも初産ともなれば尚更のことである。

 陣痛はすぐに収まり、初めての経験に緊張の色を見せていた道長も、ほっと安堵したように溜め息をついた。陣痛が繰り返される度に室内は慌ただしさを増し、祈祷の声も音量を増していく。いよいよとの知らせに、父兼家からも姉詮子からも、出産を案じる文が何度も使わされた。祈祷は夜を徹し、間断なく打ち続く。陣痛はあっても、まだ産まれる気配はない。

 倫子のいる几帳を立てまわした産所の両脇には、同じように几帳で仕切った狭い局がいくつも作られ、依り坐よりましとなる女と相対する祈祷僧が一組ずつ入れられていた。依り坐に物の怪を憑かせ、調伏ちょうぶくするためである。

 物の怪――それは、世の人々の何より懼れる怨霊であった。病気を始め、ものごとの凶事はすべて怨霊によるものとされ、それを祓って病気の治癒や事の善処を図るのである。病気に並んで、もっとも怨霊の取り憑きやすいのが出産の前後とされていた。

 物の怪は穢れを好むのであろうか。やはりここでも、その徴候が現れた。倫子の苦しみに伴い、依り坐の一人が暴れ出す。それを預かる僧侶が調伏の祈祷を始めると、依り坐は気味の悪い雄叫びを上げた。

「なんとしても上の出産を無事終わらせるのだ! 皆、力を尽くせ!! なんとしても物の怪を調伏するのだっ!!」

 物の怪に負けじと道長が大声を張り上げる。几帳の中では、今まさに出産が始まろうとしていた。介添えの女房たちが倫子の身体を起きあがらせ、跪いた足を開かせて腰を支える。倫子は、向かい合う女房に抱きついて、座位のまま最後の陣痛を迎えた。僧を叱咤激励するのも忘れ、道長は几帳の内側に飛び込み、倫子の出産を見守った。

「上、上……しっかりおし。なんとしても無事に……」

 うわごとのように呟きながら、妻の脂汗で濡れた苦しげな顔を見やる。夢中になった道長は、まるで自分が子を産むかのように両の拳を強く握りしめ、同じように歯を食いしばって息を呑んでいる。

 先ほどの物の怪が現れた局で、この世のものとは思えぬ凄まじい絶叫が上がった。調伏に成功したらしい。ふと道長がそちらに顔を向けた直後、すぐ側で元気な産声が響きわたった。

「お生まれになりましたっ! 姫君であられますっ」

 産声に負けじと、助産にあたっていた年輩の女房が叫ぶ。道長は声も出せずに、ぽかんと口を開けたまま呆っとしていた。

「中納言殿、どうなされました?」

 倫子の母穆子に身体を揺すられ、道長はやっと我を取り戻した。

「後産も無事に終わりましたよ。あなたの待ち望んでおられた、玉のような姫ですよ」

「ひ、姫が……私に姫が……望みどおりの姫が……」

 道長は産まれたばかりの我が子を覗き込み、ついで這うように妻の側へいざり寄って、目に涙を浮かべながら喜びの声を上げた。

「でかしたぞ、上! これこそ将来の后がねだ。でかした、でかした!」

「殿……」

 疲労でぐったりしている倫子は、それでも汗に濡れた顔を弛め、夫に向かって微笑んだ。道長は妻の手を取り、子供のようにはしゃぎ続けた。

 藤原道長の第一子、彰子あきこの誕生であった――

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