No Littering

山本アヒコ

No Littering

 今は気分が悪かった。だから普段は絶対にしない事をやっていた。

 スターバックスのカップを持った小綺麗な若い男に、紙袋を持った見るからにまっとうな仕事をしていなさそうな男がぶつかる。その手から紙袋が地面に落ちると、音をたてて中に入っているワインボトルが割れ、赤黒い血にも似た色が滲み出る。

「あっ! 何しやがるっ! これは高級ワインなんだぞ、弁償しろ!」

 使い古された詐欺の手口だ。それでも相手を選べばそれなりに使える。

「えっ? えっ?」

 ターゲットにされた若い男は、途切れなくまくし立てる男に反論もできず、ただオロオロと周囲を見回すだけだ。しかし誰も足を止めることはない。

「いいから金を出せって言ってんだよ。どうせ金持ちの旅行者だろ? 俺にも少しぐらい恵んで……」

「目障りなんだよ」

 詐欺師の男は背中を蹴られ、顔から地面へ倒れた。

「痛えだろがっ……て、アンタは」

 冷たい目で見下ろしていたのは、二十代前半らしき男だった。痩せているが身長は高く、身にまとう雰囲気は危険そのものだった。不機嫌を体現したその両目には、殺意すら感じられた。

「ケチ臭い詐欺やってんじゃねえぞ。前歯をもっと減らしてやろうか」

「ひぃぃ」

 詐欺師の男は、隙間だらけの歯を見せて悲鳴をあげると、背中を見せて逃げ出した。

「クソっ」

 あんな小者に八つ当たりしたところで気分は晴れない。

 つい先程の【取引】を思い出すと、また苛立ってくる。金の受け取りは出来たが、そのやり取りが本当に不愉快だった。殺してやろうかとすら思ったが、相手は政府の役人の息子だ。殺さなくても、暴力を振るえばそれだけでこちらが捕まる可能性があった。

 鋭い舌打ちが自然にでる。

「あの……ありがとうございました」

 男にしては高い声。まるで女みたいだとすら思った。

「中国人か」

 髪と肌の色からアジア系だとわかる。この国にも最近は海外旅行者が多く来ていた。その多くは中国からだ。

「いえ。日本人です」

 男はつい顔をまじまじと見てしまう。初めて見た日本人だが、他のアジア系人種との違いがわからない。

 目にかかりそうな長さの黒髪。少し垂れぎみの目。男と比べると彫りの浅い顔は、子供っぽく見える。ピアスがひとつもない綺麗な耳が、余計にそう感じられた。ティーンエイジャー時代にピアスを貫通させない人間がいるなど、彼は信じられなかった。

「そうか。じゃあな」

 男が歩き去ると、その背中に視線がずっと向けられているのを感じたが、振り返ることはなかった。


 二人が再び出会ったのは、数日後だった。

 場所は二十代や学生向けのクラブ。耳を壊さんばかりの大音量と、美しさより下品さが際立つカラフルなライトの輝き。

 カクテル片手に笑う客の顔は、どれも猿みたいだと感じた。ここは理性を失ったものだけが集められた動物園。だからこそ、彼のような者の仕事がある。

 重低音と耳を突き刺すような高音の洪水と、その中で踊る人間を掻き分けてカウンターの端から二つの椅子へ座る。するとすぐに横へ男が座った。よほど待ちきれなかったらしい。つい苦笑が浮かぶ。

「あ、あんただよな売ってくれるってのは?」

 ボサボサに広がった髪の毛の男は、充血した目を見開いて早口で話しかける。典型的な中毒者だ。

「金はあるのか」

 パーカーのポケットから、しわだらけの紙幣を出す。枚数を数える。

「よし」

 粉が入った小さなビニール袋を渡すと、小走りでトイレへと男は向かった。すぐに使うのだろう。

 自分もこの場所から去るべきだった。ああいう中毒者はあっという間に全部使いきり、また催促してくる。金もないというのに。最初は懇願だったのに言葉は脅しに変わり、ついには暴力で奪おうとする。

 さっさとこんな面倒な仕事は終わりにしたいが、大きな組織に所属していないアウトローには、こうして細かい金稼ぎしかできない。癖になってしまっている舌打ちをして席を立とうとして、知った顔の人間と目が合う。

「こんばんは」

 詐欺師から助けた日本人だった。柔らかい笑顔。こんな掃き溜めのような場所には似合わない。幾つもの色の光で複雑な陰影に邪魔されても、その顔がはっきりと浮かんで見えていた。

 立ち上がるタイミングを逃しているうちに、横の席へ座られていた。薬物中毒の男が座っていたのとは逆側だった。

「この前のお礼に奢らせてください」

「……ああ」

 断るべきだった。しかし、そうしなかった。だからとりあえず、一番高い酒を飲むことにした。

「俺の名前はハルセ。あなたの名前は?」

「ゲーリオ」

 旅行に来たのかと聞くと、ハルセは否定する。

「旅行じゃないです。俺は留学生」

 ゲーリオは驚く。わざわざこんな国に留学してくるとは。

 ユーロ圏に所属しているとはいえ、失業率は高く治安は先進国と比べると悪い。

「日本人なんだろ。ここは国の首都だが、東京のほうがよっぽどいい場所のはずだ」

「……東京に行けるのは恵まれた人間だけだから」

 ゲーリオは片目を細める。どこが恵まれていないのか。こうして違う国へ留学もしているというのに。

 自分のような人間が恵まれない者だ。ろくでなしの父親がいるスラム暮らしより、ハルセのほうがマシだろう。

「俺、奨学金で地元の大学行ってるんです。つまり借金ってことで。家もそんな裕福ってわけじゃないから、仕送りも無いし。けっこうキツくて……そんな時に大学に留学制度があることを知って、ここに来れば何か変わるかなあって……」

 ゲーリオには下らない、この安っぽいクラブで騒ぐ若者と変わらない悩みにしか思えなかった。彼らとハルセの違いは、アルコールとドラッグに溺れていないだけだ。だからこそなのか、カウンターに両腕を置いて物憂げに語る彼の顔から目が離せない。横切る光が当たるたびに、これまで出会ったことのないタイプの顔が暗闇から浮かび見える。

「……留学っていつまでだ?」

「一年の短期留学なので、あと半年ですね」

「ここへはよく来るのか」

「初めてです。友人に連れてこられたんですけど、はぐれちゃって。そもそもクラブに行ったことがなくて気後れしてたんですけど、ゲーリオさんと会えたのでラッキーでした」

 子供みたいな笑いかた。ゲーリオと違いピアスがない耳。

 出会うはずがない世界で生きていた二人。笑いあう二人。


「なあ、ルヤ。お前の新しい恋人って日本人だったよな」

「どうした突然? 日本人じゃなくて、祖父が日本人ってだけだ」

 ハンドルを握る筋骨隆々の女、ルヤが運転中にも関わらず横のゲーリオの顔を見る。こんな質問をしてくるのは初めてだったので、彼女は驚いていた。これまで何度か恋人を変えていたが、全く興味がなかったというのに。

「いや。何でもない」

 車は狭い路地を塞ぐように停止させる。道そのものも狭く車一台の幅しかなく、壁に無数の汚れとひび割れが見える倒壊寸前の建物に車体が触れそうだ。

「行くか」

「ああ」

 汚れたバンから降りたあと、この車が日本製だったことを思い出した。手のひらで軽くドアを叩いた。

 ゲーリオとルヤは拳銃を持ち、路地の奥へと向かう。

 仕事はすぐ終わった。五人の人間を殺して、ドラッグを奪うだけ。死人の財布は自分たちが貰っておいた。

 仕事のあと、ゲーリオは街を歩きながら暇を持て余していた。

 ゲーリオとルヤは放棄された整備工場のガレージで共同生活をしている。いつもと同じく、そこで仕事の後始末をしていた。奪ったドラッグをまとめてひとつのバッグに入れ、死体から奪った金を山分けする。

 何度もやっていて慣れた作業。しかし、ゲーリオは非常にやり辛かった。ルヤがニヤニヤとした笑みを浮かべてこちらを見ている。彼女の恋人について聞いたことから、ゲーリオに何かしらの出来事があったことに気がついたのだ。

 ルヤを注意するのは簡単だ。しかし、それをしてしまえば自分で白状したも同然になってしまう。あいつとはただ詐欺師から助けて、その後に偶然クラブで会って少し話しただけだ。そう言えばいいだけなのだが、言い訳にしか聞こえないだろう。言い訳とは何に対してなのか、ゲーリオにも理解できていなかったが。

「あっ」

 ルヤの視線から逃れるために街へ出てきた。そしてその原因に出会った。一週間ぶりの再会。

「ゲーリオさん」

 太陽の光に照らされたハルセの笑顔は、さらに子供のようにしか見えなかった。世界に幸せしかないと思っている笑顔。

「よお……」

 我ながら情けない声だと感じた。ゲーリオが生きている世界では、舐められたら終わりだ。恐怖と不安を虚勢で押さえつけ、恫喝と暴力で相手を踏み潰す。そうしなければ自分が死ぬことになる。だから、こんなそよ風で消えてしまいそうな声を出してはいけないはずだった。

「何してるんですか?」

「いや、ただ歩いていただけだ」

「じゃあ、スタバでも行きませんか? 奢りますよ」

「ああいう人が多い場所は嫌だ」

「だったら飲みながら散歩しましょう。買ってきますね」

 止める間もなくハルセは走っていってしまった。一瞬、このまま立ち去ってしまおうかと考えたが、スターバックスの店内にハルセの姿が消えるまで目で追い続けていた。

 くだらない話をしながらゲーリオとハルセはただ歩いた。会話が途切れないほど盛り上がっているわけではない。ハルセが主に口を動かし、ゲーリオが一言か二言返すだけ。ゲーリオは楽しいと思ってはいない。ただ、この状況から逃れようと思っていないだけだった。

 川を渡る橋の途中でゲーリオのカップが空になった。手にあるストローのささった軽いカップに目を落とすと、自然な動作で川へ投げ捨てようと振りかぶり、その手首をハルセが掴んだ。

「ポイ捨てはダメですよゲーリオさん」

 本気で言ってるのかと、信じられない気持ちでハルセを見る。

 川を見ればドリンクカップだけでなく洗剤のプラスチック容器、ビニール袋や段ボールの残骸、汚れた衣服や靴らしき物さえ流れたり川の端で集まっていたりしていた。ゲーリオひとりが捨てたところで何も問題はない。川や道に捨てるのは彼の常識といってもよかった。

「ほら、あっちにゴミ箱があるから」

 まるで幼い子供へ注意するような言い方だった。なのに怒る気分にはなれない。ハルセの薄い笑みのせいなのかもしれなかった。

「なあ……メールアドレス、教えてくれ」

 驚いた顔からすぐに笑顔になると、ハルセは大きく頷いた。


 ゲーリオはスマホでSNSに仕事の依頼についての返信を書き込む。すると画面にポップアップが表示された。

『メールが届きました』

 このスマホに届くメールはハルセのものだけだ。仕事についての連絡は、一定時間で文章が消去されるSNSでのみ行っていた。今まで何も残していなかったメモリの中に、ハルセのメールが次々と保存されていく。

 不必要なものは全て削り落としてきた。そうしなければならなかった。余分なものを乗せるには、自分は弱すぎた。それを知らなかった最初は、無理に手を広げていた。誰かはゲーリオから去り、違う誰かには裏切られた。

 それでも、これぐらいなら。そう考える自分がいる。

「仕事か?」

 ルヤの言葉に顔をあげる。スマホを投げて渡す。

「ああ。明日ここの廃倉庫だ」


 仕事の依頼は罠だった。

 待ち構えていたのは、以前の仕事で襲撃した組織のボスとその部下たち。全員が銃を持っている。

「二人とも、よくもまあ派手にやってくれたなあっ!」

 趣味の悪いジャケットを着たボスの男が叫ぶ。

「何言ってんだ。お前らが弱小集団のくせにバカだから派手に暴れて、他のやつらの怒りに火をつけただけだろうがっ!」

 ルヤが叫び返す。

「黙れよ変態女が。俺のを入れて教育してやろうか?」

 そう言った部下の男の頭に穴が開く。ルヤが撃ったのだ。

「黙れよ男根主義者が! 私は真っ当なレズビアンだ!」

 周囲の男たちが銃を撃つ前に、ゲーリオはグレネードを二つ投げていた。爆発と悲鳴。二人は全力で走る。

 拳銃を持った男が二人物陰から出てきた。が、ゲーリオとルヤの射撃で同時に倒れる。死体を飛び越えて向かうのは、離れた場所に停車させている愛車。

「ぶっ殺せー!」

 背後からボスの声。グレネードで幸運にも死ななかったようだ。

 走りながら何度か後ろへ向けて拳銃を撃つが、数人倒れただけだった。撃たれてもひるまずこちらを追ってくる。

「もう少しだ!」

 車は広い大通りに駐車していた。指定された場所に一番近い場所がここだったのだ。

 ルヤが運転席のドアを開ける。ゲーリオもバン後部のスライドドアをもどかしく思いながら開け、頭から飛び込んで床に伏せた。発砲音と車のガラスが割れる音が同時に聞こえる。

「ゲーリオォォッ!」

 ボスの声に、伏せた格好のまま首だけを動かしてそちらを見る。ボスは目を見開いて、口を縦に長く広げて叫びながら銃を向けていた。だが、ゲーリオが見たのは彼ではなかった。

 突然路地から飛び出して銃を構える男に、周囲の人々は悲鳴をあげて逃げ出す。その中に、ひとりだけ逃げずに立ったままの者がいた。

 叫ぶボスの数歩横に、驚いた顔でこちらを見るハルセがいる。目が合う。合ってしまった。ハルセの顔が横へ動き、銃を構えるボスを見た。足が一歩前へ。

 ハルセがボスへ抱きつくように体をぶつけた。はずみで銃弾が発射されたが、誰にも当たることはなかった。ルヤがアクセルを踏み込み、車が動き出す。ゲーリオは急いで起き上がると、開いたままのドアから頭を出してハルセを探す。

 アクセルを床まで踏んだ車は、すでにゲーリオの手が届く距離を離れてしまっていた。

 小さくなる、地面へ倒れているハルセ。起き上がる派手な色のジャケットを着たボス。その右手には拳銃。向けられたのは、ハルセ。

 発砲音がゲーリオの鼓膜を叩く。何度も。

 ゲーリオを乗せた車のタイヤが、道に転がっていたスターバックスのカップを踏み潰した。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

No Littering 山本アヒコ @lostoman916

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ