雪の朝、ふたり、はじまり。

蒼桐大紀

雪の朝、ふたり、はじまり。

 冬の試験は雪が降る。

 この辺にはそういうジンクスがあるらしくて、数十年前に大雪が降ったときはちょうど共通テストの日だったという。おまけに降るのは短い時間に大量に降り積もるドカ雪で、通勤通学の生命線と言えるJR線は影響を受けやすかった。隣県の山あいから始発が出るので、こっちは晴れていてもあっちが雪だと列車が出ないこともあって、関東の交通が雪に弱いのはこういうことか、と思い知らされる。

 一月最後の月曜日。遅延のせいでぎっちり押し込まれた車内で、明川あけがわ結実花ゆみかは精一杯の背伸びをしながら「どうか途中で止まりませんように」と「早く着きますように」を交互に祈っていた。

 今日は私立高校の受験日。よりにもよって結実花が本命に選んだ高校の受験日のその日、関東に雪が降った。不幸中の幸いだったのは降雪が夜半から明け方にかけてだったので、列車が止まらなかったことだが、いっそ止まってくれた方が良かったのかもしれない。そうなれば、学校側も日程を延期するなどの対処をしたかもしれない。

 上り電車の中は狭くて暑く、結実花はときどき人の中で溺れそうになって、マスクの中で息継ぎをする。

 なにせこっちは一四三センチしかないのだ。

 パリッとしたコートを着込んだビジネスマンらしき背中に挟まれて、足が浮きそうになっている。真っ直ぐ立ってようやく届くつり革からはとっくに手が離れていて、上げっぱなしで固定されてしまった右腕がちょっと痛い。

(ああ、電車の中で漂流しているようです)

 結実花がそんなことを思い始めたとき、ゴトリ、と電車が止まった。周囲の人が動き、スニーカーが踵が床に着いた。

(え、あれ? いつの間に)

 下車駅に着いていた。

 人と人とのすきまから扉の向こうへ出ていく人の流れが見える。結実花もその流れに乗って降りようとしたとき、周りの人がほとんど動いていないことに気づいた。結実花を挟み込んでいる背中が動かない。


 ——おりまーす!


 そう言ったつもりだった。けれど、結実花の声はのどのあたりで引っかかってしまったように、外に響いていかなかった。

「お、おりまー、ふ……」

 どうにか声を張り上げて手を振ってみるが、聞こえないのか気づかないのか周囲の人壁はびくともしなかった。

(マジですか……)

 最悪の予感が脳裏をよぎる。

 雪の日の朝、混雑した電車から降りられず試験を受けられない。

 このまま終点まで運ばれるなんてまっぴらごめんだった。もうこうなったらなりふり構っていられない。体を動かして訴えようとしたときだった。

「すみませーん! おろしてくださーい!」

 扉の方から女の子の声が朗々と響いた。

「ふえっ?」

 結実花が戸惑うのも刹那、パシッ、と宙を泳いでいた右手がつかまれた。

 誰かに引っ張られている。

「え、え、え、え、え?」

 細い指と冷たい他人の手の感触。たぶん、女の子の手だ。そう気づくと若干心が落ち着いて、結実花も声を張り上げて体をよじった。

「す、すみませーん! お、降ります!」

 今度はちゃんと声が出たからだろうか、それとも外からの働きかけがあったからだろうか。それまで壁と化していた男性達はまるで結実花の存在をいま思いだしたかのように率先して動いて道を作り、お陰でどうにか結実花は車内から抜け出す。

 そこでようやく相手が見えた。

 自分と同じくらいだろうか。ポニーテールにした長い髪の女の子だった。結構背が高い。人混みの中でも揺らぐことなく、しっかり立っている。濃紺のスクールコートの裾先から黒いタイツの脚が真っ直ぐ伸びている。

 乗り込もうとする人達と強引にすれ違って、結実花の右半身が抜ける。左手で抱えていたスクールバッグが抜ける。最後に左足が抜けたところで、結実花はたたらを踏んでよろけた。

 すると、女の子は二人の距離を詰め、両腕で結実花を受け止めた。

「はぶっ!」

「っと……!」

 二、三歩後ずさりしたものの、女の子は踏みとどまって結実花を支えてくれた。

「……平気?」

「ふえ?」

 結実花は間の抜けた声を上げて、女の子の方を見た。頭ひとつ分上の位置から切れ長の目がこちらを見下ろしている。マスクのせいで目元が強調されて見えるためか、綺麗というより端正という言葉が似合うかもしれないなどと思う。そこまで考えたところで結実花は自分が彼女にもたれかかっていることを思い出し、慌てて体を起こした。

「あわわわわわ……ごめんなさいっ!」

 もともと大きな瞳を目一杯に見開いて、くせっ毛気味の長い髪を振り乱して頭を下げる結実花の様子に、女の子は少し戸惑った様子だったがすぐ何かに気づいたような顔になってつないだままだった右手を引いた。

「とりあえず、こっち。邪魔になるから」

「あ、そうですね」

 女の子が手近な柱を指さしたのにうなずいて、結実花はそのまま柱の陰に駆け込んだ。その背後で警笛が鳴り響き、電車の扉が閉まる。

 危なかった。

 危機一髪とはこういうことを言うのだろう。いったんマスクを下げて、結実花が息を整えていると目の前にハンカチが差し出された。桃色の可愛らしい柄で、端っこに名前の刺繍が見える。ギャップに結実花が戸惑っていると、女の子はこちらの顔を覗きこんできた。

「大丈夫?」

「あ、いえ、かたじけないです」

 息を整えてどうにかそう答えると、女の子は一瞬きょとんとした後に「ぷっ」と吹き出した。そのまま声を上げて笑うので、さすがに結実花が怪訝に思っていると女の子は「苦しいー」と言ってマスクをずらして息をついた。

「ごめん。〝かたじけない〟なんて言うから。つい」

 女の子は目尻の涙をぬぐって結実花に笑いかけてきた。とっさのひと言だったのであまり意識していなかったが、言われてみれば確かに変だったかもしれない。

「武士か、ってね。——それで、ほんとに大丈夫? 足、くじいたりしていない?」

「あ、はい。大丈夫です」

「そっか。なら良かった。じゃ」

 それだけ言って女の子が立ち去ろうとするので、結実花は少し慌てた。まだちゃんとお礼をしていない。でも急いでいるみたいだし、というか自分自身もゆっくりしていられないことに気づいて、呼び止めようとした結実花の中で言葉が混線した。

 こんがらがった言葉の中から出てきたのが、さっき垣間見た名前だった。

「あの、島寄しまより未希みきさん!」

「うぇっ?」

 びくっと肩が震え、ポニーテールが振り返る。

 その間に結実花は二人の間の距離を詰めて、ぺこり、と頭を下げた。

「さっきはありがとうございました。ちゃんとお礼、言えてなかったので」

「あ、うん。それはどうも……」

「後でちゃんとお礼をしたいので連絡先を——」

「ちょい待って」

 女の子——未希——は両手を挙げて結実花を制した。その動きで周囲の注目を引いていることに気づいて、結実花は口元を覆う。

「どうして私の名前を?」

「あ、それはさっきハンカチにあったので……。もしかして、違いました」

 それはないだろうと思いつつも結実花が応じると、未希ははっとしてコートのポケットをまさぐってさきほどのハンカチを取り出した。

「ああ……そういうことか。なにやってんだ私」

 額に手を当てている未希の様子に、結実花が首をかしげる。彼女はすぐその視線に気づいて、苦笑を返してみせた。

「これね、昔家庭科の実習で作ったやつなんだ。よりによって、こんな日に持ってくるなんてさ」

 そのひと言で察した結実花はすかさず助け船を出す。

「そうですかね。むしろ今日みたいな日は名前が書いてある物の方が良いじゃないでしょうか」

 ひと息おいて、尋ねる。

「あなたも静森しずもりを受けるんですよね?」

「あ、うん。そう……ああ、同じ穴のむじなか」

 結実花の言葉から『あなたも静森学園高等部の入学試験を受けるんですよね』という意味を汲み取ったらしい未希がそう答える。

 それから、どちらからともなく歩きながら話し始めた。実は同じ駅から乗っていたことがわかったり、中学はそれぞれ駅を挟んで反対側のところに通っていたことがわかったりして、メッセージアプリのID交換まで行き着いたときだった。

「ああ、ということは私、敵に塩を送ったことになるのか」

 慣用句や故事成語がぽんぽん会話に混じるのは、受験生の性だ。

「もしかして、見捨てるべきだった……かな」

 改札を抜けたところで、悪戯っぽく笑う未希に結実花は「えええええ」と慌てた。

「ご、呉越同舟とも言いますよ」

「それはちょっと違うんじゃないかな」

「んん。そうかもです。あっ、ほら、情けは人のためならずですよ」

「上手い。一本取られた」

 結実花の頭一つ上の位置で、未希が朗らかな笑みを漏らす。



     ◇ ◆ ◇



 やがて、長く続いていた駅の巨大なアーケードが途切れた。線路をまたぐ大きな橋梁の上に改札があるので、見晴らしが良い。雪化粧された街を横目に階段を降りる。線路脇の道を並んで歩いていると、同じ受験生らしい姿がちらほらと見え始めた。

「明川さんは静森、本命?」

「そうです」

「公立は受けないつもり?」

「はい。でも決めちゃわないで併願で受けなさいって言われてそうしました。島寄さんは?」

「同じだね」

 ぽつりぽつりと雫がこぼれるような会話が続いて、ふと結実花は未希が歩調を合わせてくれていることに気づいた。

「あの、島寄さん」

「ん?」

「先行ってくれていいですよ。歩幅、明らかに違いますし」

「あ、うん」

 未希は曖昧にうなずいたが、歩調は変えなかった。マフラーを直し、結実花の方を見る。

「いいよ。このまま行く。そう急がなくても大丈夫そうだし」

「ですかー」

「それに、明川さん、ちょっと危なっかしいし」

「なんですとー?」

 結実花がきっと顔を上げたつかの間、スニーカーの底が凍った雪で滑る。

「わっ」

「っと。——ほら、危なっかしい」

「うむむむ……。なんか納得いきませんがありがとうございます」

「どういたしまして」

 余裕の表情を浮かべる未希が少しまぶしい。ただ、なんとなくあなどられているような気がして、結実花の中にぽっと対抗心が灯る。

「島寄さん。今日の試験、勝負してみませんか?」

「勝負? どうしてまた」

「深い意味はないです。ただなんとなく勝負吹っかけたくなったんです」

 結実花が少しむきになって答えると、その様子がおかしかったのか未希は口元に手を当てて笑った。

「む、笑いましたか」

「ううん。いや、ちょっとだけ」

「むー」

「ごめん。うーん、でもそれさ。どっちか片方だけ受かったらすっごく気まずくなるやつじゃない?」

「……試験後の自己採点でやるつもりだったのでそこまで考えていませんでした。あ、でも、二人とも受かればいいのでは」

「自信あるの?」

 すかさず未希が尋ねると、結実花は目尻にしわを寄せてうめく。

「んんん、模試でA判定取れていますし行けると思うんですが、自信というとちょっとそれは微妙なところで……」

「なんだ、私と似たようなものか。それでも二人で合格しようって言えちゃうの?」

「だって、前向きなとらえ方をした方が気持ちが楽になりません?」

 すると未希は目を見開いて、結実花の方を見るとまぶしそうに目を細めた。

「そっか。そう言えちゃうのはすごいな。うん、すごいよ」

「そうですかね?」

 結実花が尋ね返すと、未希はこくりとうなずいた。

「そうだよ。それで、勝負で勝ったらなに要求するつもりだったの?」

「ふえ?」

「あー……勝ったらどうするつもりだったのってこと」

「そうですね。私が勝ったら——」

 そこではたと気づいて、結実花は苦笑した。

「その先は考えてませんでした」

「そっか。こっちはいま思いついたんだけどな」

「んん? どうした心境の変化です?」

「なんだか自分の考えが悪い結果を呼び込みそうなんで切り替えたくなった」

「じゃあ、やりますか。それで、島寄さんが勝ったらどうするんです」

「明川さんの恥ずかしい過去を一つ教えてもらう」

「うぇっ、なんですかそれ?」

「さっきハンカチ見たお返しだよ」

「あれ、恥ずかしいですか?」

「十分。家庭科のテンプレートがファンシーすぎて」

 それを普段使いしているから今日のような日に持ってきてしまったのでは、と結実花は思うが黙っておく。結実花自身、迂闊なところがあることを自覚しているので、やぶ蛇になりそうなところは抑えておきたい。

「なるほど。じゃあ、そのレベルの恥ずかしいことでいいんですね?」

「そ。あんまり重いネタは私も勘弁だし。そっちはどうする?」

「えっと、じゃあ、私が勝ったら島寄さんのことを未希って呼んでも良いですか?」

「なにそれ。そんなんじゃ釣り合い取れなくない?」

「んー、いま思いつかないので、とりあえずそれにしといてください」

 結実花が困ったように笑ってみせると、未希は顎に手を当てて少し考え、地元の駅前にあったコーヒー店の名を告げた。

「知ってるよね?」

「ええ、はい」

「ルール追加。勝った方は相手の好きなものをそこで一品おごる」

「むー、今日中に終わりますかね」

「やってみて、無理はしない方向で。それに同じ町に住んでるんだから、会おうと思えばまた会えるでしょ」

「ですね」

 そうしている内に校門の前に来ていた。二人は足を止めて、互いに向き合う。

「それじゃ、また」

「はい。またです」

 ひらひらと手を振って、テントの下で待機している職員の元へそれぞれ歩みを進めた。

 受付を済ませる間も、結実花は未希の姿を横目で追っていた。

 さっきのはなんだかまるで友達同士のやりとりみたいだと思った。なんとなく、彼女とは友達になるんじゃないかな、という気がしたのだ。だから、勝負だなんて子供じみたことを言い出してしまった。こういう勘はなぜか良く当たるから。


 ——でも、それならやっぱり二人で合格したい。


 ふとした思いつきが結実花の中を駆け巡った。別れた背中を追いかけて、肩を叩く。

「未希」

「えっ?」

「私からは先払いでもらっちゃうことにしました」

 突然の結実花の動きに、周囲の受験生達がきょとんとしている。結実花は距離を詰めると精一杯背伸びをして、未希の耳元でささやいた。

「それから、私のことは結実花で良いです」

「どういうこと?」

「せっかくだから二人で勝ちに行きましょうってことです」

「……?」

 未希はしばらくいぶかるような顔をしていたが、合点がいくところがあったのか、考えるのを放棄したのか、苦笑い交じりの吐息を漏らした。少し腰を落として結実花と目線を合わせる。

「いいよ。でも、私は結実果に勝つつもりだけどね」

「私も未希には負けませんよ」

 目でうなずき合い、身体を離す。結実花はわずかに渦巻いていた不安が、ゆるやかにほどけていくのを感じていた。

 そうして、お互いになんでもなかったように踵を返すと、それぞれ割り当てられた教室へと歩き出す。二人の様子に目を奪われていた他の受験生達も我に返って動き出した。

 やがて、いくつもの白い息が空に上り、溶けていく。

 雪の晴れた冬の空は、どこまでも高く澄んでいた。深い大気の下に多くの人達の葛藤を抱えて、そっと包み込むように果てしない青が広がっていた。

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雪の朝、ふたり、はじまり。 蒼桐大紀 @aogiritaiki

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