心の差は二〇センチ

後藤文彦

心の差は二〇センチ





 どうしてあんな低性に惹かれてしまったのだろう。何に惹かれたというんだ。一四〇センチで低性でも特に低性っぽくて魅力的だからっていうのか。身長一五〇センチ以下の人間を低性と識別し性的刺激を感じるのは、単に高性のわたしには、そういうプログラムが組み込まれているからに過ぎないし、それも動物時代の進化の過程で獲得された本能に過ぎないことも理解している。それにしてもマラルタは、他の低性たちと全く同様に自分から高性を何かに誘うということをしない。高性から何かに誘われるのを待っていて、それを自分で取捨選択するだけなのだ。実際、わたしも「死ぬ思い」で何度かはマラルタを誘っているわけだし。






 わたしがマラルタと出会ったのは、街のカルチャーセンターで行われている料理教室でのことだ。その料理教室の生徒は、最初はわたし以外 どうやら全員が若い低性ばかりだった。確かに世界には、低性が家庭を守り育児や料理を専業で担当すべきだという古い通年を引きずっている国もあることにはあるが、いくらなんでも、何十年も前から法律上は高低平等が達成されているこのN国で、料理を習いに来るのが低性ばっかりなんて、いったいどういう風潮が反映された結果なのかと思いきや、教室前のポスターには「高性の胃袋をつかめ! 貴低も低子力アップ!」なんて、恥ずかしい文言が並んでいる。どうやら場違いなところへ来てしまったらしい。さすがに帰ろうとしていたところに、ある低性から声をかけられた。それがマラルタだった。わたしがポスターを見て退散の姿勢に入ったのを察してか、

「こんな恥ずかしいポスター、やめてほしいんですよね。もちろん、誰でも歓迎してますよ」

と言ったのだ。この人は、このポスターの社会的問題性を一応は認識しているようだ。それでわたしはマラルタに好印象を抱いた。いや、白状すれば ほぼ一目惚れだった。






 マラルタは実はこの料理教室の指導員で若い低性なのだが、生徒たちもマラルタと同年代の若い低性ばかりだった。生徒たちは若者という母集団の特性上、平均的に料理の技術は低く、普段から自炊しているわたしが刃物で食材を細かく切り刻んだりする度に、歓声があがるといった雰囲気だった。料理の基本は一通り身につけているわたしは、マラルタにも一目置かれ、料理に関する話題をしばしば共有した。わたしも一応、それなりに若い高性ではあるので、まわりの生徒たちからマラルタとの仲を噂されるまでになっていた。






 誰かと一緒に料理を作り、一緒に食事をし、一緒に片付けをするという一連の作業は、身近な場所で身近な道具でできる最高の娯楽だとわたしは捉えている。わたしが料理教室に行ってみようと思いたったのも、友人たちとこうした娯楽に興じるための料理の腕をもう少し磨いておこうと考えたからだ。でも今は、この料理教室でマラルタと正にその娯楽に興じられることがわたしにはなんとも心地良い。






 そんな心地良い雰囲気が続いていたこの料理教室に、ある日 アルテッツァというもう一人の高性がやってきた。アルテッツァはある意味、いかにも高性らしい高性で、料理教室に来ていながら ろくに料理もしようとはせず、生徒の低性たちとふざけてばかりいた。要は低性目的で料理教室に来たということが見え見えの振舞いだった。というか本人自身、受けねらいなのか、そういう目的でここに来たんだと露骨にも発言していた。不思議なのは、この態度の悪い高性が、若い低性の生徒たちにはモテモテだということだ。わたしは、誰かと一緒に料理することを楽しむという高い次元の娯楽をマラルタと共有することができていたから、別に嫉妬してるつもりはないのだが、アルテッツァのせいで教室の雰囲気はたちまち悪くなっていった。教室内でふざけているだけならどうということはないのだが、アルテッツァは手当たり次第に低性たちをデートに誘い出しては、性的な関係を持ったりしていたらしい。まあ、それでも特定の生徒とそういう関係になったということであれば、それはそれでむしろお目出度いと捉えるべきことなのかもしれないが、アルテッツァの場合は相手をとっかえひっかえそんなことをしていたから、生徒たちの間でアルテッツァをめぐって実に気まずい空気が流れるようになってしまった。






 地星の四足歩行哺乳類は、腹の真ん中辺りに排泄器官と生殖器官を持つが、これは傷付くことの多い四肢を少しでも汚さない位置に排泄器官がある方が、生き残りやすかったためと考えられている。この名残りは、二足歩行に進化した種の多くにも引き継がれたため、我々人類も腹部に排泄器官と生殖器官を持っているのだ。



 地星の肉食哺乳類に現在の人類のような身長性別の分化が生じたのは、まだ四足歩行の時代のことだ。多くの種は、体の大きい個体が獲物を捕り、体の小さい個体が親離れするまでの子供の世話をするような文化を形成していた。地星肉食哺乳類は、子が自力で獲物を捕れるようになるまでに一定の教育期間が必要であるが、その間に他の種類の肉食哺乳類に捕食される危険性が高いため、体の大きい個体と体の小さい個体が つがいになり、体の大きい個体が狩りを担当し、体の小さい個体が子育てと子の見守りを担当するという役割分担が種を生き残りやすくする戦略として有利となった一時代があったのだろう。その間、おもしろい変化が起きた。大人になったときに自分の体が小さいと自覚した個体は、つがいの相手として狩り担当に有利な体の大きい個体を好むようになり、大人になったときに自分の体が大きいと自覚した個体は、つがいの相手として子育てを担当してくれそうな体の小さい個体を好むようになっていった。そうすると、中ぐらいの大きさの個体は、自分自身では子育て担当なり狩り担当なりの役割の自認はあるのだが、その自認に対応する役割を期待できる大小のはっきりした個体からは、なかなか自認する役割の相手として選ばれない。そのため、こうした中ぐらいの大きさの個体は子孫を残しにくく、大小のはっきりした個体の方が子孫を残しやすかったものと思われる。そうすると、成長ホルモンの分泌がある多さの一定量以上の個体とある少なさの一定量以下の個体は子孫を残しやすく、ほどよい成長ホルモンを分泌する個体は子孫を残せなくなっていく。こうした傾向が何世代も続くうちに、地星哺乳類は成長ホルモンをある多さの一定量以上に多く分泌する個体か、ある少なさの一定量以下に少なく分泌する個体しか生まれないように進化していった。生殖に関わる本能もこの形質に対応して、成長ホルモンを多く分泌する個体は、体の小さい個体に性的魅力を感じるように適応し、成長ホルモンを少なく分泌する個体は、体の大きい個体に性的魅力を感じるように適応した。



 体の大小で役割分担をするようになった地星哺乳類はつがいで子育てをし、子供たちは狩り担当の親が獲ってきた獲物を食べて育つが、大型として生まれた子は親離れの時期になるまでに狩りの技術を習得し、自分が獲った獲物を小型の個体に「貢ぐ」ことで自分のお気に入りの小型の個体を獲得しようとする本能が組み込まれていった。一方、小型として生まれた子は、より多くの獲物を持ってきてくれる大型の個体を選べるように獲物を貢いできた大型個体をすぐには受け入れずに、複数の個体に貢がせながら より獲物獲得能力の高い大型個体が貢いでくるのを「待つ」本能が組み込まれていった。



 千万年以上も前に獲得されたその動物時代の本能を人類も引き継いでいた。二足歩行をするようになった哺乳類は、排泄器官の位置に着目すると大きく二種に分類される。立ったまま排泄する習慣を身につけた種は、排泄物が腹部や傷の多い後足を汚すため、排泄器官が下方に位置するものほど生き残りやすく、やがて二本の後足の間ぐらいの位置にまで移動した。これは現在 我々が「猿」と呼んでいる猿類の祖先である。一方、排泄時には四つん這いの姿勢を取り続けた二足歩行類いわゆる「人類」では、排泄器官の位置は腹から移動せず、現在の人間はその子孫である。人間の場合、成人低性の平均身長は一四五センチ程度で、どんなに背の高い低性でも身長一五〇センチ以上になることはほぼない。一方、成人高性の平均身長は一七五センチ程度で、どんなに背の低い高性でも身長一七〇センチ以下になることはほぼない。つまり、低性か高性かということは、外見を見ただけで実に容易に識別できてしまうのだ。見ただけで容易に区別できるということは、常にその区別をするのが当然のことという思い込みを生む。人類の文明が発展し、動物時代の役割分担に従わなくても個人の自由が尊重される社会になってすら、文化や制度の中には動物時代の身長別役割を引きずった各種の差別が染み付いていた。



 例えば、見ただけで相手の身長別が識別できてしまうことにより、多くの民族の言語の発展の過程で、代名詞や職業類を表す名詞などを低性か高性かで常に区別するという差別が、文法のレベルで組み込まれてしまった。もちろん、対象を何らかの属性に基づいて区別する方法は、身長別以外にもいくらでもある。出身だったり、職業だったり、国籍だったり、人種だったり。しかし、どんな話題について話しているときでも、例えば対象の出身や職業について話題にしているときでも、その前にまずは対象の身長別についての情報を取得し、代名詞類で適切にその身長別を明示させることを強制する文法は、人間についてのどんな情報よりも身長別についての情報を最優先に特別視することを習慣づける。言語に限らず、動物時代の本能に起因する身長差差別は、身近な文化や制度の中に規範のように染み込んでいて、現代人がその差別性に気づくことすらなかなか困難である。例えばA国では、過去に長い間、赤人種が青人種を奴隷としていた歴史があり、奴隷解放されて既に百年以上も経つというのに、A国の公用語であるA語では、三人称代名詞や職業名詞を常に赤人種と青人種で区別する。N語的に表せば「彼赤」「彼青」とか「赤教師」「青教師」といった具合である。これに対して国際的な批判が集中し、こうした人種で区別する代名詞や職業名詞を、E語など多くの言語と同じように、身長別で区別する代名詞に置き換えるべきだと非難されている。もちろん、人種を常に明示させるA語が差別的なのは言うまでもないが、身長別を常に明示させる言語も本質的に同様の差別を行っていることに国際社会は気づいていない。






 地星生物は有性生殖を獲得してから短期間に多様な種に進化したが、その中でも地星哺乳類は二個体を親として、半卵子と呼ばれる自分の遺伝子の半分を持つ卵に、他個体の半卵子を結合させることで結合卵を作る。自分の子袋内には他個体の半卵子液を受け取って卵結合させるための半卵子卵を定期的に一つ保管し、この期間は自分の子袋で卵結合の可能な期間となる。一方、他個体の半卵子卵に卵結合させるための半卵子液も半卵子液袋に常時 一定量が保管されている。



 地星哺乳類でも腹部に排泄器官や生殖器官の集中している人類は、腹部の真ん中の位置に排尿のための突起管があり、これは半卵子液の排出を兼ねる。この突起管のすぐ上には出産孔があり、他個体の半卵子液をここから受け取って半卵子卵を卵結合させる。突起管は性的興奮により通常時の十倍程度の長さまで伸びて固くなり、何かの拍子に排出された半卵子液が自分の出産孔に入らないようになっている。出産孔が突起管の上にあるのも、自分の半卵子液や尿が少しでも出産孔に入りにくい位置にある個体の方が子孫を残しやすかったことによる適応であろう。人類の交尾は、長くなった突起管を互いの出産孔に差し込むことで、互いの半卵子液を互いの出産孔の奥にある子袋に注入する方法をとる。つまり、互いの突起管はやや捻れて絡まり合うことになる。子袋内の半卵子卵が十分な活性状態にあれば、半卵子液内の半卵子を取り込み、卵結合に成功する。



 このように人類は、生物学的には自己生殖が構造的にできないようになっているが、自分の突起管から排出された半卵子液を細長いスポイト等で、自分の出産孔の奥の子袋に入れてやれば自己生殖も不可能ではない。しかし、こうした自己生殖による卵結合では劣性遺伝が発現しやすく形態異常や遺伝病を誘発することから、多くの国では法律で禁止されている。



 ごく一部に自己生殖を認めている国もないわけではない。高性からの暴力を受けてきた低性がこうした国へ移住して自己生殖するケースが多いことから、これは低性の権利を尊重するための配慮だと捉えられがちだが、そうではない。形態異常や遺伝病の子が生まれる可能性を法的操作により排除すること自体が、形態異常や遺伝病の人に対する差別だという考えにより、法的に自己生殖を認めているのだ。そのような国では、自己生殖により生まれてくる子には、一定の確率で何らかの形態異常や遺伝病が発生するが、自己生殖により生まれたかどうかということとは関係なく、形態異常や遺伝病の子には適切なケアをするという体制も整備されている。



 一方、高性どうし低性どうしの等性異個体間の生殖については、形態異常や遺伝病を誘発するといった医学的な見地からの問題は何等ないにもかかわらず、多くの国で、特に宗教起源の文化の根強い国では長らく法律で禁止されてきた。それが、ここ二十年ぐらいの間に等性愛者の人権を尊重する運動が広がり、ようやく先進国では等性どうしの結婚や等性間生殖による嫡出も認める法改正が始まったばかりだ。



 N国でも等性婚はつい数ヶ月前に認められたばかりで、まだ国内での等性婚の例はない。近年、等性婚が認められた国で等性婚のカップルが初めて誕生するたびにテレビで報道されるが、そうした等性婚をしたカップルは、見かけ上は異性婚のカップルと特段 変わらない。せっかく等性婚が認められたというのに、カップルの一方が自分の生物学的性とは違う性の外見に近づこうと努力し、わざわざ異性婚カップルのように装おうとする動機は、差別を逃れるための擬装ではなく、等性婚カップルの一方が外見も異性の外見になりたいと思っていることによる。どうやら、ここには別の社会的問題があることがうかがえる。



 低性で低性を恋愛対象とする人は、「心は高性」と主張して高性の外見を得るための外科手術を受ける。具体的には腿や脛の骨を骨折させて少しずつ伸ばしていく方法だ。この手術は「身長適合手術」と呼ばれる。こうして高性の外見を得た「心は高性の」生物学的には低性の人は、平均的な高性以上に高性的な服装や装飾を好み、平均的な高性以上にわざとらしいほどに高性っぽい言葉づかいや高性っぽい身のこなしを身につけて振る舞うようになるのだ。



 一方、高性で高性を恋愛対象とする「心は低性」の人も同様である。こちらは腿や脛の骨を部分的に切除して短くする「身長適合手術」を受ける。身長適合手術は外科医療技術の進歩により十年ほど前から身長適合のための医学的「治療」として、等性愛者の権利を認める先進国等で認可されるようになってきている。



 ちなみに蛇足だが、身長適合手術が可能となるはるか以前、某国では、低性をより「低性らしく」するため、幼児期の低性の腿や脛の骨を麻酔もかけずに砕いて足を短くした状態で固める「短足」という恐ろしい施術がつい百年前まで行われていた。短足を施された低性はうまく歩くこともできず、多くの時間を着飾って座って暮らしたそうだ。なんでも、この人工的に短くされた「短足」に、某国の当時の高性たちは性的魅力を感じたのだとか。もともと人間の高性が動物レベルの本能で低性に性的魅力を感じるのは、身長の低さに対してであって、必ずしも足の短さに対してではないが、何かのきっかけで異性の身体の特定の特徴に特化して性的刺激を感じる文化が生まれてしまうと、人間はいとも簡単にその文化に呼応して条件づけられてしまうのだ。






 身長適合手術により低性の外見を得た「心は低性」と主張する人たちは、平均的な低性以上に低性的な服装や装飾をし、平均的な低性以上にわざとらしいほどに低性的な言葉づかいや低性っぽい身のこなしで振る舞う。正直に言うと、それがわたしにはなかなか気持ち悪いと思えた。勿論、公の場でそれを気持ち悪いと言うことは典型的な差別発言とされるが、人間の嗜好は自由だと思っているわたしは、自分に等性愛という嗜好自体に対して差別感情があるとは思えないので、どうして等性愛者 特に「心は低性」の人の外見や仕草に抵抗感を覚えるのか自分でも不思議だった。



 だって「心は低性」の人たちの外見や仕草は、単に「低性らしい」とされてきた典型的な外見の装飾手法や振る舞い方を誇張してみせただけのものなのだから。よくよく考えてみると、わたしは、低性っぽさを武器にいかにも低性っぽく品をつくって振る舞っている低性だって好きではなかったのではないか。だからマラルタのようなあまり低性っほさを意識させない中性的な低性に惹かれたのではないのか。ということは、わたしは「低性らしい」とされている装飾手法や振る舞い方こそが嫌いなのではないのか。






 高性と腕を組んで歩いているマラルタを見かけた。その高性はなんとアルテッツァだった。マラルタがわたしに振り向いてくれないのはマラルタの好みの問題だからそこは理解できるものの、どうしてよりによってアルテッツァなんだ? 分別も良識もあるマラルタが、あんな手当たり次第に低性をひっかけている 本能と行動が直結したような高性を好きになるなんて、ゲテモノなのか? あまりの衝撃から立ち直れないわたしは、そのことを高性の友人アルテガに話してみた。アルテガが言うには――低性っていうのはまるで自分からは動こうとしない。マラルタだってそれだけわたしと料理の話題を共有し、一緒に料理する楽しさも共有していたのであれば、わたしのことを実は好きだった可能性もあるのではないかという。でも低性というのは自分からは動こうとしない。仮に好きな人がいたとしても、自分に動いてきた高性がそう悪くなければ、自分に動いてきた方の高性から選択する。



 そう悪くないって言ったって、あれじゃあゲテモノじゃないの? つい口の悪くなったわたしが正直な感想をもらすと、アルテガは既にずっと前から低性なんてゲテモノだと思ってるというのだ。いわく、世の中の家庭内暴力の統計を見ろと。配偶関係や交際関係にある高性から低性への暴力がいかに多いことか。それ以外の他人どうしの暴力犯罪件数よりも圧倒的に多いのだ。もちろん、そのような高性を選んでしまった低性は被害者であり、暴力を振るう高性が明らかに加害者であるのは言うまでもない。しかし、我々のように暴力を振るわない高性なんていくらでもいる。でもそういう高性は、強引に低性を口説きまくったりはしない。あくまで統計上の傾向だが、強引に低性を口説きまくるような高性の方が圧倒的に低性に選ばれやすいし、本能と行動が直結しているそういうタイプの高性ほど暴力を振るいやすい。それが種明かしではないかと。






 アルテガは高性と低性の問題について色々と考察していて、その内容は科学的厳密性はチェックしていないものの、ほぼすべてわたしも納得できるものだ。――これまでの人類の歴史の中で、家事や育児を専業としてきた低性は、闘争や競争の能力を高める欲求は強化されなかったが、狩りや賃金労働を担当してきた高性は、相対的に闘争や競争の能力を高める欲求が強化された。社会や政治の表舞台で活躍するのは高性ばかりとなり、その本能を引きずった高性による低性への暴力は、長らく放置されていた。人間が高性と低性との社会的不平等を客観的に考察できるようになり、身長差にかかわらず平等な権利が法的に保障されるようになったのは、ほんの数十年前のことだ。現在でも、身長差によって権利に差を設けた法律を許容している国はなくなっていない。しかも、それを正当化する理由が宗教だったりする。法律による身長差差別がなくなった国でも、文化や制度の中に染み込んだ身長差差別はなかなかなくならない。



 とはいえ、暴力というのは身長差差別のあった時代から既に法的に犯罪だったはずだが、大半が高性に占められていた社会的言論や政治は、高性から低性への暴力を放置し続けた。他人を負傷させる行為は、どのような状況で誰から誰に対するものであれ、暴力犯罪と捉えられるようになってすら、高性から低性になされる強引な性的接触も、なかなか暴力の一種とはみなされなかった。



 他人のいやがる性的ストレスを与えることがセクハラとして問題視されるようになったのは、つい数年前のことだ。低性に強引なアプローチをしないしできないアルテガやわたしのような高性たちは、それを当然のこととしか思わないが、高性がセクハラしてでも強引に低性にアプローチしようとすることを守るべき文化と捉えている高性たちは、セクハラも強引なアプローチもしようとしない、いわば法律を遵守しているごく普通の善良な高性に対して、やれ「草食動物」だ何だと無理やり異常なものと見なして、強引なアプローチのためなら多少のセクハラも許容すべきと考える自分たちを何とか正当化しようと躍起になっている。と言っても、さすがに相手の許可を得ずに身体に接触したりといった行為は現在ではセクハラと認識されるようになったし、電話やメールで相手に執拗にコンタクトを取ろうとする行為も、程度の問題ではあるがセクハラとなり得る。法律や社会通念がそうなってきたのだから、安心して低性に強引なコンタクトを取ろうとしない「草食動物」な高性が増えるのは自然な結果だ。恋愛対象を獲得したい人は、性別にかかわらず、法的・社会的に許容されるコミュニケーションの範囲で、自分から意中の相手を何かに誘うといった行動を取り、相手に断られたら諦めるということでいいと思うのだが、この部分ではなぜか未だに、少なくとも自分が不快と感じない相手については、高性側からの強引なアプローチを期待して自分からは動こうとしない低性がまだまだ少なくない。――それがアルテガの考察だ。高性と低性のことに関しては、アルテガとはほぼ完全な共感が成立する。よくよく考えるほど、こうした共感はマラルタとは成立しそうにない。マラルタは外見や言葉づかいなどに関しては中性的な面もあるものの、それ以外の内面の性質については、ある意味 実に低性らしい低性のような気がする。






 この数日、わたしはアルテガの部屋で一緒に料理をつくり、一緒に食事をしている。それはとても楽しいことだし、アルテガは親友だ。アルテガと一緒に暮らせば毎日が楽しいに違いない。例えば二人で一緒に子供を育てたりしたら、それがとても楽しいことになるという空想が浮かんでくる。お互い、相手に対して特に性的な魅力を感じているわけではないから性的な関係を持つ必要はないのだが、お互いの生殖器官を本来の生殖の目的に使って子供をつくることだってできなくはない。人間は未だに性的欲求に囚われて望まない子をつくったりしているが、医学も法律も進歩した現在、性的欲求に囚われずに望む子をつくるのは十分に合理的な選択ではないか。






 アルタがニュースに出てる。去年 法律が成立した等性婚制度による国内初の等性婚カップル誕生だって。なんだそういうことだったのか。あれだけ私がモーションかけてるのに、鈍感っていうか草食っていうか まるで私に興味がないかのように、あんなに近い距離にいたのに全然 高性らしい露骨アプローチをしてこないと思ってたら、そういうことだったんだ。なんだ、等性愛者かよ。どうりで料理もうまいわけだ。じゃあ、アルタが身長適合手術を受けて低性になるのか。さっさと手術 受けろよ。あーキモっ。アルタはアルテッツァが低性目的で教室に来たことを非難してたけど、ほんとおめでたいね。そんなのお互いに織り込み済みだってことすらわかんないの? あれは私自身が高性目的で教室を開いたんだって。それで若い低性の生徒ばっかり集めておけば、それ目当てで低性を狩り取ろうとする高性ホルモンみなぎった高性が舞い込んで来るでしょ。低性から高性を直接 誘うなんて低性らしくないことできるわけないじゃない。自分からは誘わずに高性が誘わずにはいられないように仕向けるのが低性のやりかたなの。おかげで、ほんとにいいのが引っかかったよ。アルテッツァ最高!








        了









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