三瀬(みつせ)川のほとりで
大竹あやめ
危機一髪
桜が咲く河原の道を、僕はゆっくりと歩いていた。気温も暖かくて、空も高くて気持ちがいい。
「こんな場所、近所にあったんだなぁ」
いつの間にか見つけた場所。ゆったり流れる水と、穏やかな景色を眺めながら、僕は歩みを進めていく。
僕は立ち止まって辺りを見渡した。綺麗な桜と、青々とした草の色が僕の心を和ませる。
「あ、オオイヌノフグリ」
足許を見ると、小さな青い花が咲いていた。かわいいなぁとその場にしゃがみ、それを一輪、摘む。目の前に掲げて眺めると、その愛らしさに更に笑みが零れる。
さあっと風が吹いた。すると小さな花は茎を残して落ちてしまい、僕はため息をついてその茎を捨てる。再び立ち上がって歩き出すと、水辺に咲く
「わあすごい、ここは色んな花が咲いてるんだな……」
「
凛とした立ち姿に見蕩れていると、声をかけられた。聞き覚えのある声に、僕は笑顔で振り返る。
「
目を細めた優しい笑顔でこっちに来る千草。「うん」と頷いた千草と僕は並んで歩き出した。
「こんないい所知らなかった」
「俺も」
また暖かい風が頬を撫でる。僕は千草の顔と、景色を眺めながら、幸せな気持ちを噛み締めていた。
恋人と、こんなに穏やかな散歩ができるなんて幸せだ。最近は生活に追われて、すれ違いとか喧嘩が増えていたけど、たまにはこうやって綺麗な景色を眺めながら、とりとめのない話をすることも必要なのかもしれない。
「千草」
僕は千草を呼ぶ。千草は笑みを深くして僕を見下ろす。胸がふわっと温かくなって広がる感じがした。……幸せだなぁ。
「あ、一彦。向こう見て」
千草が川の向こう岸を指す。見ると桜の向こうには濃いピンクの花畑……
「すごーい! こんな景色が見られるなんて!」
そう言いながら、何か違和感があったけれど、その正体が分からなかった。千草を見上げると、嬉しそうに笑っていて、その顔が見られただけで僕も嬉しくなる。そしてその違和感も、千草を見ていると消えるのだ。
「一彦……好きだよ」
ここのところ喧嘩ばっかりでごめんな、と千草は眉を下げる。僕は笑って首を振った。
「僕こそごめん。忙しくて、余裕なかった」
喧嘩の原因はもう忘れてしまったけど、お互い積もり積もったものがあったのは確かだ。僕はそれを伝えることもせず、千草への不満を察してもらおうと、嫌な態度を取っていたから僕も悪い。
「ねぇ千草、ちゃんと話し合おう?」
「……だな。でもその前に」
そう言って、千草は僕の手を取った。そして川の向こう岸を指す。
「あっちの景色が見たい」
行こう、と言われて、僕は手を引かれて歩き出した。温かい千草の手に僕はまた嬉しくなって小さく笑う。
「でも、行くってどうやって?」
見たところ、川はそれなりに深そうだ。流れは穏やかだけど、このままでは渡れない。
すると、千草は「ほら」と指をさす。そこにはこの景色には不釣り合いの、金色の白鳥ボートがあった。
「ええ? あれに乗るの?」
ここは川だから、足漕ぎボートは不向きなんじゃ、と思うけど、やっぱり嬉しそうに笑う千草を見て、まあいいか、と付いていく。こんなデートはいつぶりだろう、と嬉しさと照れが混ざった笑い声を上げながら、金色の白鳥ボートの元へ辿り着いた。
「楽しいな、一彦」
「うん」
笑っている千草も久しぶりに見たと思う。千草は笑うとえくぼができることすら僕は忘れていて、どれだけ恋人の笑顔を見てなかったんだろうなと思う。
さあっとまた風が吹いて、薄桃色の花びらが舞った。青い空と花びらのコントラストが綺麗で、僕は思わず息を飲んで空を見上げる。そして花びらの行く末を眺めていると、コスモス畑の方に流れていった。
あっちに行ったら、もっと綺麗だろうな。そんな考えが浮かぶ。
「さぁ、乗ろうか」
「うん」
千草に手を引かれ、金色の白鳥ボートに乗り込もうとした時、反対の手を引かれてよろける。何? と振り向いた瞬間、見えたものに僕は短く悲鳴を上げる。
そこには顔が見えない男がいたのだ。背格好は千草と同じなのに、顔のパーツだけモザイクがかかったように見えない。何これ、どうして、と僕は手を引く。けれどモザイクの男は手を離してくれなかった。
「一彦、何してんだ? 行くよ?」
千草は繋いだ僕の手を引っ張る。けれど、反対側からも引っ張られているので動けない。
「え、何っ? 誰っ? 離してください!」
僕は思い切り腕を振った。けれどモザイク男はさらに両手で僕の腕を掴み、引っ張ってくる。
「ん? 誰だよお前、一彦の手を離せ」
「千草っ、怖いよこのひと! 助けて!」
僕はもう、恐ろしくて男の方を見られなかった。何これ? 現実じゃありえない事が起きてる! ひとの顔にモザイクがかかるなんて、こんなことありえない!
「一彦、早く向こう岸に行こう。みんな待ってる」
「え、みんなって……? ーー痛い!!」
男の腕を引く力が増した。人間がこれだけの力を出せるなんてと思って、ある事に気付く。
モザイクの男は両手で体重をかけて引っ張っているのに、千草は片手で僕と手を繋いでいるだけだ。ーー何これ? 本当に、どんな現象が起きてるの!?
「嫌だ怖い! 何だよ!? 手を離せ!」
「そうだ。俺たちのデートの邪魔をするな」
俺たちが抵抗しているのにも関わらず、男は顔をぶんぶんと横に振りながら、懸命に僕を引っ張っている。腕と肩が痛くなってきて、僕は叫んだ。
「やめろよ!」
「……くれ」
すると男から、微かに声がする。その恨めしそうな声に、ゾンビにでも掴まれているような感覚になり、僕はますます怖くなった。
「一彦、こんな奴放っておいて、早くこれに乗ろう。向こうは楽しいよ?」
「……くれ……目を……」
千草の優しい声にホッとしたのも束の間。僕はやっぱり違和感を持つ。どうして千草は腕を引くだけで、助けようとしてくれないんだろう?
「……千草?」
僕が千草を見ると、タイミングを計ったかのように男から引っ張られる。まるで、そっちに行くなと言っているように。
「目を……くれ……あ……くれ」
僕は勇気を出して男の顔を見た。けれどすぐに逸らす。やっぱり顔はハッキリ見えなくて、得体の知れない現象に目を瞑りたくなった。
「一彦、こっち見て」
閉じかけた目を開けて千草を見上げると、千草は川の向こう岸を指す。
「一彦の好きな花が沢山咲いてるよ」
「……ぅわぁ……!」
向こう岸では桜とコスモスに加わり、藤や椿も咲いていた。色んな季節の花が一気に見られるなんてすごい、と感嘆すると、千草は満足そうに笑う。
「ほら、近くで見ようよ」
「み、見たいけど腕が……!」
やっぱり腕を引く強さが更に強くなった。何だろう? このモザイク男は、僕が向こう岸に興味を持つことが嫌らしい。
どうして邪魔するんだよ? 僕が花好きだって、千草なら知っている。それに、さっきから「目をくれ」って言ってるけど、モザイクなだけで目はあると思うよ、多分。
僕は千草の方に一歩、進んだ。顔が見えない気持ち悪い男のことなんて、無視すればいいんだ。そう思って思い切り腕を振り上げると、男の手が離れた。
その瞬間。
「目を開けてくれ!!」
耳元でそんな大声がして、僕は目を開ける。あれ? 今まで僕は目を閉じていたのかな?
視線を巡らせると、上から千草が顔を覗き込んでいた。その顔はやつれて髪はボサボサ、手入れもサボっていたのか髭まで生えている。しかも何? 何で千草、泣いてるの?
「……」
声を出そうとして、何も音が出なかった。しかも僕は寝ていたらしく、すぐにふわぁーっと意識が遠のきそうになる。すると近くで鳴っていた機械が騒がしくなった。何かドラマとかで聞いたことあるぞこれ。病院だ、ここ。
「一彦、ダメだ、頑張れ! 目を開けろ!」
何だよ頑張れって。眠たいんだよ眠らせてくれよ。
でも、僕の左手が何かに包まれる感覚がして、もう一度目を開ける。また目の前にいた千草は、大粒の涙を零していた。
感覚の何もかもが、非現実的でどこか遠くに感じる。あのモザイク男はいつの間にかいなくなっていたし、綺麗な景色もない。
ーーそうだ。あの花畑は一体何だったんだろう? 春夏秋冬それぞれの季節で咲く花が、同じ場所で同じ時に咲くわけないのに。
「……」
「……ああ、ここにいる……!」
僕は千草を呼んだ。千草は僕が何て言ったかを分かってくれて、それだけで嬉しくなった。
僕の目尻から涙が落ちる。ここでずっと僕を呼んでくれてたのは、きっと千草だ。そして、あの川辺で僕を引っ張っていたモザイク男は……多分千草だったのかな。不思議な体験だけど。
「お花畑が見えた……」
「……いくらお前が花好きでも、それは笑えない冗談だぞ……!」
千草はそう言うと、僕の脇で声を上げて泣いた。それを聞いて、僕はやっと理解する。
あの川は、三途の川だったんだと。
渡らなくて良かったと思ったし、僕の好きなものを見せて、渡ろうと誘ってきたニセ千草の存在に鳥肌が立った。
ありがとう。向こう岸に行かせないでくれて。
僕はそう言うと、千草はまた、声を上げて泣いた。
[完]
三瀬(みつせ)川のほとりで 大竹あやめ @Ayame-Ohtake
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